コスワースエンジンを積んだロータス49の登場に衝撃を受けた中村監督が急遽制作を決定したのがRA300でした(先に見たように実際にロータスが猛威を振るうようになるのは翌年からだが)。ここからは、シーズン途中での開発、デビューを始め、いろいろ異色ずくめだった、この車を見て行きましょう。

 

1967年9月の第9戦、イタリアGP から急きょ投入された新型マシン、RA300。ただしエンジンは軽量化&高圧燃料噴射装置を搭載したRA273E改良型のままでした(イタリアGPでは川本さんが現地に入ってたようなので(記録映像にそれっぽい人が居る)エンジンも多少いじってた可能性はある)。
ちなみにこの後見るような特殊なやり方で制作された車のため一台しか造られず、この展示車がその世界で一台のRA300 であり、すなわち1967年のイタリアGP優勝マシンとなります。

フロントのサスペンション周りの車体に変な凸凹があったりして、あまり美しくない印象の一台。塗装も当初のシンプルで美しかったRA272に比べると野暮ったいセンスの印象になり、個人的にはあまり好きな車ではありませぬ。
それでもデビュー戦のイタリアGPでいきなり優勝と言う離れ業をやってのけたわけで、ホンダの歴史に刻まれるべき一台でしょう。ただし、これが第一期最後の勝利となってしまうのですが。ちなみにドライバーのサーティスにとっても現役最後の勝利でした(この後、1971年に事実上の引退。1972年に一度だけ走ったがリタイアで終わる)。

先代のRA273は第6戦 イギリスGPから川本さん達が開発した高圧の定常噴射式(吸気弁が開いた時だけ必要な量を噴射する)燃料噴射装置を積んだ改良型エンジンを投入しました。それでもようやく完走して6位入賞が限界、次のドイツGPでも4位に入ったものの、どう考えてもそれ以上の戦闘力向上は無理でした。

ここで中村さんは新型の車体(シャシー)の開発を決意したようです。このため第7戦のドイツには出たものの、ヨーロッパを離れる遠征となる第8戦のカナダは欠場、新型マシンの開発を優先する事にします(先に見たようにエンジンが壊れすぎて第5戦フランスGPも欠場してるので、これで2戦目の欠場)。その後、わずか6週間前後で完成させてしまったのがこのRA300でした。

ただしホンダはシャシーを高速開発するだけのノウハウを持ってませんでしたし、予算的にもシーズン途中に新規マシン開発を行うなんて余力はありませんでした。そして何より本田宗一郎総司令官の元ではまた重いシャシーを造りかねないと中村さんは見てました。このため、中村監督はホンダの社内には頼らず、F-1チームの基地だったイギリスで独自にマシンを造ってしまう事を決意します。

よって制作予算は当初のものとは別に中村さんがスイスの銀行(笑)に密かにため込んでいた資金、レースに出走するともらえる報奨金、入賞の賞金、あるいはオイルメーカーなどからのスポンサー料から確保しています(当時のお金で約1200万円)。この辺りからF-1チームはホンダ本体とは独立して動き始めるのです。
そして中村さんが目を付けたのがイギリスのレーシンガーメーカーであり、シャシー制作に多くのノウハウを持っていたローラ・カーズ社(Lola Cars International Ltd.)、いわゆるローラでした。当時は主にアメリカのレース向けの車体を造っていた会社で、サーティスは前年の1967年、ここのシャシーでCan-Am(カンナム)選手権で走り、初代チャンピオンになっています。その縁でか、ここの株主でもあったようで、それなりに無理が言えたのです。そこに中村さんんは新型シャシー製造を相談します。

ちなみにCan-Amはカナダ・アメリカ チャレンジカップ(Canadian-American Challenge Cup)の事で、1966年から1974年のオイルショックによる中断を挟んで約20年間(中断期を除くと全18年)、カナダ&アメリカの北米大陸を転戦する形で開催されていた必要以上に豪快な(笑)レースでした(年間6〜11戦)。

余談ですが、この時期、ホンダ以外の自動車屋さんも国際レースに目を向け始めていて、トヨタと日産がそのターゲットにしてたのが二座席レーサーのCan-Amでした。後の1968、69年には富士スピードウェイで日本版Can-Am、ワールドチャレンジカップ 富士200マイルレースが開催され(Can-Amのマシンと日本のマシンの混合レース)、これを経てトヨタは本場北米への参戦直前まで行くのですが、最終的に事故などがあって計画は中断されてます。

とにかく何でもありのレースがCan-Amであり、その中断前の第一期(1966〜1974)は排気量および車両重量の規定なし、横並びの二座席で車輪が四つあればなんでも来いという、凄まじい規定の下で開催されいたのです。ゴチャゴチャ言ってないで世界最強の車をここで決めようぜ、的な必要以上に男気溢れるレースだったわけで、頭悪いともいえますが(笑)、この結果、実験的な技術が次々に登場します。それらの多くは他のレースでも模倣され、以後のレース業界標準装備となって行きます。

例えば以後レーシングカーの標準装備となる車体後部の翼、いわゆるウィング(これについては後述)が最初に登場したのはCan-Amでしたし、そういった“空力で車体を地面に押し付けてタイヤの接地圧を上げ、強烈なトルクと高回転でも滑らなくする”系技術の極北、車体の後部にファンを付けて地面と車体の間の空気を抜いて吸着させちゃうファン・カーもCan-Amが元祖です。ちなみにこれらはアメリカのレースチーム、シャパレル(Chaparral)による発明で、ここがレース業界に残した業績は驚くべきものがあります。後にそれらをチャップマン率いるロータスなどが次々とF-1に持ち込んだわけです(ファン・カーはブラバムだけど)。

ちなみにシャパレルはジム・ホール(Jim Hall)が設立したチームで、彼は1960〜63年までロータスのマシンを買ってプライベーターとしてF-1レーサーに参戦してた人物です。全く勝てませんでしたけど…(金持ちなので毎年アメリカGPに個人でスポット参加してた。ただし1963年だけはBRPチームからロータスのマシンでほぼ全戦参戦、そして惨敗…)。

さらに言えば1980年代にF-1で猛威を振るう排気タービン過給器、いわゆるターボを初めて本格的にレースに持ち込んだのもCan-Amのレーシングカーでした(スーパーチャージャーは以前にもあったが)。なにせ排気量制限なんてないんですから、排気タービンを付けた方が一方的に有利になるため、これが1970年代初頭から主流となります。そもそもガソリンエンジン用排気タービンの本場、アメリカですからね。そしてここで積んだ経験から、後にポルシェは1980年代半ばにF-1用のターボエンジンで3期連続コンストラクター チャンプになる黄金期を迎えます(ドライバーはラウダ&プロスト)。

そして初期には高額の賞金が出たため、世界中から有力なドライバーが参戦してました。すでに述べたように1966年の初代チャンプはF-1王者にして二輪世界王者であるサーティスですし、その後も1970年まではF-1王者のハルム、チャンプではないけどF-1ドライバーのマクラーレンといったドライバーがその年間チャンピオンであり続けました。
ただし、そういった無茶はオイルショックによる中断前の第一期、1974年までで、その後再開された第二期、ガソリン価格高騰&コスト対策が必要となった1977年以降はエンジン最大排気量5000tという規定が設けられてしまいます。まあ、5000tあれば十分無茶苦茶と言う気もしますが…

さて、話を戻します。



RA300 を後ろから見るとこんな感じ。エンジンのRA273E はシリンダーヘッドの内側に排気管を集中させ、これを上に逃がす構造だったため、その集められた排気管によって妙にエンジンが盛り上がって見え、個人的にはメデューサの髪みたいだ、と思っております。当時のフェラーリなんかも似たような構造なんですけど、なにせホンダの場合エンジンがデカいのでより目立ち、あまりカッコよくはないなあ、という感じです。とくに軽量コンパクトなDFVエンジンでキレイにまとめたロータス49シリーズのカッコよさに比べると(ただしウィング類をつけ始める前まで)、こりゃ勝てないでしょ、というくらいダサイです。でも一勝しちゃうんですけどね。

このRA300の開発に当たっては、時間短縮のためローラがアメリカのインディカー向けに開発していたシャシー、T90にR273のスペアカーからパーツを集めて合体させる、という荒業が取られました。ホンダからはRA273の脚回りとステアリングなどをを担当した佐野さんが呼び出され作業に協力するのですが、ローラではプロとして専門化されている各部門の技量の高さに驚いたと述べています。あくまで自動車メーカーが片手間にやっていたホンダの限界がこの辺りで見えたのかもしれません。

ちなみにRA300 の基になった車体(シャシー)である1966年型のローラT90は、フォードエンジンを積んでアメリカのレースの頂点、インディ500を制覇したのと同型でした。この時の優勝ドライバーはF-1チャンプでもあったグラハム・ヒル。そういった意味では名車の一つですが、あくまでインディーカーですから、楕円形の陸上トラックのようなコースをグルグル回るだけであり(インディ500は左回りなので500マイル(800q)も走る間に一度たりとも右に曲がらない)、それがどこまでF-1で通用するかは未知数だったように思われます。

さらにエンジンが大きすぎて車体(シャシー)に収まりきらなかったので、基になったT90の後部を切断、パイプフレームとエンジン本体で車体後部の構造を支えるという豪快な改造をされてます。無茶苦茶だな、という感じで、実際、最後まで剛性不足には悩まされ、セッティングの難しい車だったと言われてるようです。

それでも最大の課題だった軽量化には一定の成果を上げ、610sまで絞り込まれました。RA273のデビュー時、720sから比べると110sの軽量化であり、例のマグネシウム合金によるエンジンの40s軽量化後と比べても70kg近く軽いのです。もっとも一説には最後のドイツGPの時はRA273でも650s近く絞り込まれていた、という話もあり、おおよそ50s前後の軽量化、という辺りが実際のところらしいですが。それでもまだロータスに比べると100s以上重かったのですが、従来から見れば大分マシになったと言えました。





エンジン回りは大きく変わってないはずなんですが、よく見ると意外に違いがあります。上がRA273 、下がRA300。
ただしRA300に関してはホンダが図面を持ってない可能性があり、このレストアがどこまで正確なのか、私には判断がつきませんが、参考にはなるでしょう。

よく判るのは排気管で、ごっちゃっとした印象のRA273に対し、RA300はキレイにまとめられています。RA300の集合排気管はローラの制作なので(佐野さんの証言の中にこれをあっさり造ってしまって驚いた、というのがある)、この辺りが技術の差なのかもしれません。ついでによく見ると、RA300の方が少し下向きに排気してますが、この理由は不明。
さらにRA273で後端のギアボックス左にあったミッションオイルクーラーらしいものが外され、ギアボックスのカバーもそちら側に移動になってます。

もう一つよく判るのがドライブシャフト、車輪を回す太い動力伝達棒で、車輪の真ん中に繋がるこれがRA300では明らかに短くなってます。これは後輪のトレッド幅(タイヤの中心点どうしの距離)が4pほどRA300では短くなったからですが数字以上に短く見えるのはエンジン側の取り付け構造が大きく変わってるからとRA300の方が後輪が太いから。理由は不明ですが、RA300の方がなんか妙に凝ったドライブシャフトの構造になってます。おそらくローラのものでしょう。

ついでに両者ともにエンジン上部の両脇から出てる白い管、曲がった先の正面に穴が開いてるので何らかの冷却空気との取り入れ口だと思うんですが詳細は不明。

とりあえずRA300 をわずか6週間で形にすると、この年も9月に行われたイタリアGPにホンダはこの車を持ち込みます。が、いきなり前輪のサスペンションが強度不足で破損しかかってる事が判明、急遽、徹夜の修理となりました。このためサーティスは予選の最後でようやくタイムが取れる走行に成功、前年のRA273でギンザーが記録したタイムを2秒上回ったものの予選9位に終わります。

この辺り、例によってテストをしないというか出来ないでも勝負に行っちゃうホンダらしいとこでRA300も完成後にたった一日、イギリスのグッドウッドというコースにマシンを持ち込んでテストしただけでした。そりゃ不具合も出るよな、という所です。当然、レース距離走行なんてできません。この辺り、佐野さんの証言によると燃費のデーターが無いままイタリアGPに乗り込み、とりあえず積めるだけのガソリンを積んで送り出したのだとか。でもってレースが終わってみたら3リッターしか残っておらず、最後のデッドヒート(後述)でよくガス欠しなかったな、という状況だったそうな。

ちなみにポールポジションは絶好調のコスワースエンジンを搭載するロータスのジム・クラーク、二位には前年チャンプのブラバムが入りました。すなわちこの二人がフロントローです。両者世界チャンプ経験者であり、絶好調になってきたコスワースDFVを積むクラーク、そして昨年の覇者レプコエンジンを積むブラバムがトップを抑えてる以上、どう考えても予選9位のサーティスに出る幕は無さそうでした。ところが、この年のイタリアGPは大波乱のレース展開が待っていたのです。

まずスタートでクーパーのマシンのバッテリーにトラブルが発生、スターティンググリッド上で動けなくなったため、急遽修理が認められます。この時、なぜか全車スタート位置からダミーグリッド(スタート前にコースを一周するフォーメーションラップ用の仮スタートライン。当時は本番ラインより後方にあった)まで下がるように指示が出されました。
ところがこの処置には前例が無かったようで、この後のスタートがどうなるのか、ドライバーの誰もがよく判らない状況となってしまいます。一度スターティンググリッドに付いた以上、そのままスタートになるのか、それとももう一度、正規のスターティンググリッドに戻るのか、前例が無いし、ルールにも無い状況だったようで、これが混乱を産みます。

そんな状況で、グリーンフラッグが振られてしまうのですが、これは本来、スターティンググリッドまで再度前進せよ、の意味でした。が、これを見た一部のドライバーがそのまま全力で発進、ちゃんとスターティンググリッドに付こうとしていたマシンをぶち抜く形でレースがスタートしてしまうのです。今なら再スタートになるでしょうが、無線も何もないこの時代ではそのままレースが始まってしまう事に。これによって予選結果とはだいぶ異なる順位でのスタートとなり、映像で確認する限りではサーティスも一つ順位を落とし、10位で一周目に入る事になったようです。

これで最も割を食ったのが真面目にスターティンググリッドまで微速前進していたポールポジションのクラークで、隣から全力でスタートしたブラバムに置いて行かれ、さらには後ろから猛然とスタートして来たマクラーレン(予選3位)やガーニー(予選5位)、ヒル(予選8位)にまで抜き去られてしまうのです。ただしここからがコスワースDFVを積んだロータス49の凄さで、彼はあっという間に2位にまで順位を上げて来ます。そしてトップに立っていたガーニーも僅か3周目にクラークに抜かれてしまいました。
ちなみにガーニーはその後、エンジントラブルで脱落、コース上でオイルを噴き出しながらリタイアとなるのですが、このトラブルが後々、このレースで大きな意味を持ってきます。

こうなるともはやレースはケタ外れの速さを見せてるクラークのモノと思われたのですが、なんと12周目にリアタイヤのパンクに見舞われピットイン、トップ集団から周回遅れにされてしまいます。
この結果、同じロータスのヒルがトップに立つのですが、熟成が進んでなかったコスワースDFVのエンジン故障に見舞われリタイアに追い込まれ、今度はブラバムが首位に立ちます。そして他にも上位陣にリタイアがあったため、この段階でホンダのサーティスはいつの間にやら2位につけていたのです。
ところが、ここまでとにかく運の無かったクラークが全力で追い上げを開始します。とにかくこのレースのクラークはケタ外れに速く、間もなく周回遅れにされていたサーティスの後ろに追いつき、3位に戻って来てしまいました。

これが残り10周前後の段階。すなわち前年(ブラバム)、2年前(クラーク)、3年前(サーティス)にそれぞれ世界チャンプを獲ったドライバー三人の勝負にもつれ込んだ事になります。この後、周回遅れを取り戻すスピードで走って来たロータス49に乗るクラークがあっさり首位に立ち、残り8周の段階で、クラーク、ブラバム、サーティスの順となります。速さでは圧倒的にクラークでしたがホンダのサーティスも徐々にペースを上げて、間もなくブラバムを抜き去り、二位に浮上します。これが残り三周の段階でした。

が、首位クラークとの差は開きつつあり、このまま終わりかと思われた最終ラップ、なんとそのクラークが突然、スローダウンします。飛ばし過ぎによるガス欠でした。ホントに気の毒になるくらい、このレースのクラークは運が無いのです…。
この結果、ホンダのサーティスが首位に立つのですが、二位ブラバムとの差はわずかのままラストラップに突入。その後、最終コーナー手前でブラバムがサーティスのスリップストリーム(後方乱流)を利用して加速、一気にサーティスと並びました。

そしてここからが伝説の大接戦となります。まずサーティスは大きくコーナーに外回りから進入するラインを取り、ブラバムは当然のようにインからコーナーに入ります。
内側で回った方が速いですから、それまで横並びだった状態が崩れ、ここでブラバムがサーティスの前に出ます。ところが有利と思われた内側の走行ライン上には、先にエンジントラブルでリタイアしていたガーニーがまき散らしたオイルが残っており(上から石灰がまかれていただけ)、これに乗って滑ってしまったブラバムは逆に大きくアウトに膨らんでしまいます。
そのスキを突いたサーティスが入れ替わるようにしてインを獲り、そのまま再度前に出ます。ただしカーブを出て加速に入ると、軽いブラバム&レプコエンジンの方が有利であり、あっというまにブラバムはサーティスに追いつくのですが、最後の最後は車体半分以下の鼻の差、タイムにして0.2秒の差で、サーティスが劇的な勝利を収めました。オイルで滑る事を予測して最終コーナーで本来なら不利な外側にサーティスはマシンを振ったのだとすると、さすがとしか言いようが無い部分です。

こうしてRA300 はデビュー戦で初勝利、そしてホンダのF-1としては2勝目を記録する事になります。ちなみに川本さんに言わせると、中村監督の独断に近い形で造られたローラとの合作マシンで勝ったため、本田宗一郎総司令官はさほど喜ばず、ホンダとしては「あまりぱっとしませんでした」との事。

ただし、この勝利を記念して、ホンダは当時の日本ではまだ珍しいカラーの広報映画「HONDA F-1 勝利の記録」を造ってますから、それなりに嬉しかったんじゃないでしょうかね(7分ほどの作品だが、より短いバージョンもあったらしい。そちらは私は未見)。
ついでに余談ですがこの映画、ホンダが自前で撮影してたのか、伝説となってる最終ラップの最終コーナーの戦いの映像が無く、適当な映像を編集でつなげてそれっぽい内容にしてしまってます(笑)。この辺り、あのサーティスのライン取りが見れなきゃ意味がないじゃん、と思わなくもなくもなく。

が、その後のRA300 はパっとした成績を残せず、次のアメリカはリタイア、最後のメキシコは他のチームも高地用セッティングを学んでしまった事もあって4位に終わります。ちなみにアメリカのリタイアは以前少し触れた問題、軽いゴムの燃料タンクにしたところ、ゴムのカスが大量に出て燃料噴射装置のバルブで詰まってしまった結果でした。ある意味、軽量化の失敗部分でもあります。
この後、RA300 は1969年の開幕戦、南アフリカGPを走って終わるのですが、最後もまた燃料に混じったゴミつまりトラブルに見舞われ、8位に終わりました。全四戦を戦って1勝という事になります。

そしてその後、ホンダの最後のF-1マシンが登場して、ホンダ第一期F-1最後の年、1968年を戦うのですが、これは大混乱に始まり、大混乱に終わるのでした。理由はただ一つ、本田宗一郎総司令官が突然、1968年は空冷エンジンでF-1を戦う、と言い出したからです。次回はその悲劇の1968年を見て行きましょう。
 


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