すみません、ちょっとピンボケですがRA271に積まれていたエンジン、その名もRA271E。
名前からしていかにエンジンを重視していたか、F-1マシン=エンジンというホンダの思想が伝わって来るかと。ちなみにDOHCの4バルブですから、合計で48バルブ。でもって恐らくF-1エンジンでDOHC 4バルブはこれが最初でしょう。

左側部分がエンジン本体で右下が一体化してるギアボックス。ホントにバイクのエンジンだ、という感じですがV12気筒なのでベラボーな横幅があるわけです(笑)。よくまあこんなエンジン乗せて走ってたな、という感じです。
横置きでギアボックス直結ですから、クランクシャフトからエンジン後面に飛び出す動力用シャフト(軸)は無く、多気筒バイクのエンジンと同じくクランク軸の左右中央に歯車を入れそこからギアボックスに直結して出力を伝えてます。ただしチェーン駆動なのかギア駆動なのかは判らず。

エンジンの一番上の部分に日本酒飲む時に使う御猪口みたいな銀色の部品が付いてますが、これが吸気筒(カタカナ英語大好きな皆様方がおっしゃる所のファンネル/Air funnel)で、通常の市販車なら防塵装置(エアクリーナー/Air cleaner)が付くべき場所にこれがあります。レーシングカーのエンジンに長期間にわたる耐久性は要らず、多少のゴミを吸い込もうがパワーが出た方がいいので、防塵装置は無いのが普通です(吸気筒の入り口に金網のフタを付けるくらいはするが)。

過給機がある場合は話が変って来るのですが、自然吸気の場合、少しでも多くの空気を取り込むため(これを元に混合気が造られるのでその量が多い方が有利である)、この吸気筒を付けます。その作動原理はやや面倒なんですが、メガホン型の筒を付けるとエンジンの吸気バルブが開いた時にそこに流れこむ空気の流れを効率よく制御できるのです(流れの慣性をうまく利用できる)。
通常、高回転時の吸気を優先するならこの筒を上下に短く、低回転時を重視するならこれを長くします(実際はエンジン内部の吸気ポートの長さと併せた全長が問題になるが)。ちなみに後にこれを可動式にし、エンジン回転数に合わせて長さを変えるものが1990年代のF-1に登場しますが、これを最初に採用したのはルマン24時間に参戦していたマツダでした(1989年から)。

ホンダエンジンの場合、高回転型にふった設計のため、極めて短くメガフォンというより御猪口みたいになってしまったわけです。これは高い回転数で馬力を稼ぐ、という発想にほかならず、そしてそれはホンダが二輪の世界GPで必勝のマシンを創り上げる上でもっとも重要だったポイントでした。
よってF-1でも高回転で馬力出せば勝てる、と思っていたわけですが、軽いバイクと違って車重がある四輪車では高回転を維持したままギアを上手く使ってカーブを曲がる、なんて芸当はできず、カーブでの減速でエンジン回転数はガタンと落ちるのです。このためカーブから立ち上がる時に必要な低回転の時の力(トルク)が大きな意味を持ちました。この点を理解して無かったホンダは高回転、高馬力にこだわり過ぎ、苦戦を強いられるのです(他にもいろいろあるんだけど後述)。

ついでにその吸気筒の横に見えてるゴム管は各気筒(シリンダー)に燃料を送り込むもの。
この先で燃料を霧状に噴霧、吸い込んだ空気に混じらせて混合気を造り、これをエンジンの気筒内に吸い込ませ燃焼させるわけです。
RA271Eは当初、気筒内で下がるピストンによる負圧と細くした管のベンチュリ―効果で燃料を吸い出し噴霧するキャブレター式でした。これが参戦二戦目となるイタリアからは電動機械式、常に理想量の燃料を自動的に噴霧する燃料噴射装置(カタカナ英語スキーの皆様方の言う所のインジェクション システム)に切り替わります。展示のものがどちらなのかはよく判りませぬが外観から見る限りは既に燃料噴射装置に見えますね。ただしこの時代の機械は現代の常識では判断できない事やってたりしますから、断言は避けます。

気温、気圧、そして気筒の位置関係から生じるクセなどに関わらず、必要な燃料をキチンと機械的に噴霧できるのが機械式燃料噴射装置(インジェクション)です。当時のF-1でも最新の装置の一つでしたがホンダが参戦した1964年には既にほとんどのエンジンがこれを利用しておりキャブレターの不利は明らかでした。特にホンダの場合、12本も気筒(シリンダー)があるため、狂気に近い12連キャブレターの完全な設定は不可能に近く、さらに低回転時の吸気が犠牲になっていたため負圧に頼るキャブレターでは無理がありました。よって機械式の燃料噴射装置が必須の装置である事がすぐに明らかになります。

このため、監督の中村さんはデビュー戦のドイツGPの前、すでにヨーロッパでのテスト走行の段階でホンダの技術研究所にその取り付けを依頼しています。この時、中村さんは他のチームと同じ装置、当時もっとも信頼性のあったルーカス社のモノを使え、と言っていたのですが、届いたエンジンを見ると、なんとホンダの自社製のものが付いていたのでした。

これはナンでもホンダの自前主義であり、他人のマネが大嫌いだった本田宗一郎総司令官がルーカス社の燃料噴射装置の使用を許さず、自前での開発を命じたためでした。が、安定した燃料噴射装置はそう簡単に作れるような装置ではなく、噴射圧が低く、バルブの開閉タイミングに完全に同期しない、性能的にかなり見劣りするものだったのです。このため課題だった低回転時の出力強化にはほとんど役に立ちませんでした。

これに激怒した中村監督と、それでも頑として譲らない本田宗一郎総司令官という図式がここで最初に登場し、以後、両者の確執は4年間に渡って続く事になるです。両者とも勝ちたくて仕方ないのですが、それでも理想を追う本田宗一郎総司令官、対して勝つためには現実的な判断を優先する中村良夫監督、という感じですね。
どちらが正しいかは一概には言えませんが少なくとも中村さんの現実路線で行っていれば、第一期F-1 であと2〜3勝はできたと思います(中村さんはチャンピオンも獲れたと言ってるが)。

ちなみにRA-271EはRA-270Eの次のエンジン、という意味ですが、じゃあなんで最初のエンジン(と試作車)はRA-270なの?と言えば、本田宗一郎総司令官が270馬力出せ、と要求したから、という説があります(笑)。当時のF-1エンジンの馬力は190馬力前後が精一杯で、200馬力を超えるエンジンなんてありませんでした。二輪の世界GPにおいて高回転、高馬力で勝ちまくったホンダはエンジン馬力があれば勝てる、と考え、この目標を設定したのだと思われます。

そして実際に最初の試験機RA-270Eは200馬力を超え、実戦用のRA-271E ではデビュー時に220馬力まで出るようになってました。
ただし1964年1月30日に本田宗一郎総司令官がF-1参戦を発表した時に、ホンダは200馬力のエンジンを持ってる、と言ったのは実はハッタリ(笑)で、この段階ではまだそんな馬力は出てません。最終的に2月13日にバルブのオ-バーラップ特性を変えたカムシャフトを使い、1万回転で200馬力を超えたのでした(つまり参戦6カ月前である)。

それでも理屈の上ではすでに圧勝、という事でホンダは意気揚々とF-1に乗り込むのですが、そこは馬力があれば勝てるほど単純な世界ではなかったのです(ちなみにこの構図は第二期F-1参入の初期にも繰り返される事になる。なにせ書類を残さないから世代が変ると経験の蓄積がゼロに戻ってしまうのだ)。
さらには先に見た重すぎる車重によって高馬力は相殺されてしまい、最初の1964年は散々な結果に終わるのでした(それでも中村さんは翌年はチャンピオンを狙えると自信満々だったが)。

RA-271Eの設計担当は二輪世界GPマシンのエンジン開発責任者、新村公男さんでした。エンジンの基本的な設計はその新村さんと本田宗一郎総司令官が口頭で何度か打ち合わせて決まってしまったとされます。
本田宗一郎総司令官が現役だった時代の研究所は会議なんて開かないで、総司令官自らが何人かの担当者と打ち合わせ、これで決まりと判断したらそれで行く、という体制だったのです(この結果、先にも書いたように何の議事録も書類も残らないのだ)。

多気筒高回転エンジンを得意としていた二輪エンジン開発チームですから、1気筒あたり約125t×12気筒のV型で、というのはあっさりと決まったようです。普通に考えると小排気量の1500tで12気筒と言うのは狂気なんですけど、350tで6気筒とかやってた二輪エンジンチームは特に問題とは思わなかったようです(気筒が小さいと短時間で混合気を充填できる上にピストンは軽く、円周も小さいので摩擦も少ない、よって素早く動かせ高回転で回せる。ただし、当然部品が多くなって複雑な構造になるし高回転に耐える精度も要求される)。
ちなみに横置きで行くというのも最初からの決定事項でした。エンジン設計関係者の一人だった丸野富士也さんによるとエンジンの幅はドライバーの肩幅に等しいから問題なく積める、と判断されたそうですが、シャシーの設計側から見ればそれは大き過ぎる、というのは連載の第一回で見た通りです。ついでに言えばプロレスラーなどの特例を別にすれば、あきらかに人の肩幅より広いですよ、これ(笑)。

その丸野富士也さんが残した最初の設計メモの日付は1962年2月だそうで、これは例の特振法案に対抗するため、早急に四輪市販車を出せ、と決まった直後です。すなわちホンダの幻のスポーツカー、S360の完成前ですから、ホンダはまともな四輪車を完成させる前からF-1エンジンの開発をスタートさせていた事になります。すげえな。



ホンダの最初の量産向け車両試作車、S360。これの完成前からF-1参戦計画が動いていた、という事は当然、ホンダはまだ一台も四輪乗用車を製造してない段階でF-1参戦を計画を始動していた事になります。まあ、無茶です。

ちなみに設計開始後にF-1の技術既定(TECHNICAL REGULATIONS)書を初めて取り寄せたそうで、この辺りもかなりの見切り発車感がありますね。ちなみに規定書はフランス語で、これを翻訳したのも丸野さんでした。なにせ日本語には概念すらない、という言葉の嵐でチェッカーフラッグの翻訳に悩んだ末に市松模様の旗、としたそうな。

といった辺りがホンダのF-1デビューの年の話となります。なんだか全然終わりが見えませんが、とりあず今回はここまで。



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