写真は1965年、ホンダに初めて50tのタイトルをもたらしたRC115。この年は参加した7戦の内5勝を収めてチャンピオンを獲っています。

1962年から参戦した50tクラスですが、ホンダはこの最小クラスで意外に苦戦しており、1965年になって初めてライダー&メーカーチャンピオンを獲る事に成功したのです。ちなみにそこまでの間、50tクラスでタイトルを独占していたのは同じ日本のスズキでした。ホンダの活躍に刺激され、1960年代半ばまでにスズキやヤマハも世界GPに進出して来ていたのです。

余談ですが鈴鹿サーキットのデグナーカーブは50tクラスが設立された1962年、そのスズキのマシンで50tチャンピオンを獲ったエルンスト・デグナー(Ernst Degner)がそこでコケたのでこの名が付いてます…。
ただし、この年はまだ世界GPは日本で開催されておれず、鈴鹿サーキット完成記念として行われた「第1回全日本選手権ロードレース」の中での事故でした。このレースには17万人もの観客が押しかけており、その観客の目の前で世界チャンプがコケてリタイアとなったため
「あんれま、世界チャンピオンでもコケるカーブだっぺ」「あの人はデグナーつうんだっぺ」「ほんじゃあデグナーカーブだっぺ」
といったようなやり取りがあったんじゃないでしょうかね。もちろん、スズキのチャンプですからホンダの悪意はあると思いますよ(笑)。

さらに余談ですが、デグナーは共産圏である東ドイツ出身の世界チャンプという、ちょっと変わった経歴のライダーで、西側に亡命後、スズキのマシンで世界王者の座につきました。ついでに当時の世界GPにはMZ(Motorradwerk Zschopau)という東ドイツのメーカーも参戦しており、これが意外に強くて、1961年の125tではホンダに次いで第二位のメーカーランキングを獲得しています。さすが共産圏でもドイツ、というところですかね。

さらに脱線するなら(笑)、1961年にMZの125tに乗って、ホンダのライダー、トム・フィリス(Thomas "Tom" Edward Phillis)と激しくチャンピオンの座を争っていたのが、そのデグナーでした。鈴鹿でコケる前年ですね。
ところが彼はチャンピオン争いの最終段階、第10戦スウェーデンGPのレースでリタイアするとピットから失踪、そのまま西側に亡命してしまったのです。この段階ではまだデグナーの方がポイントで上であり、メーカーでもMZが上でした。ところがエースライダーが亡命で居なくなるという前代未聞の珍事がMZに発生し、結局、最終戦のアルゼンチンGPでホンダに1-2-3の表彰台独占(レースでは5位まで独占だった)を決められ、さらにフィリスが優勝した事で、ライダーチャンピオンもホンダに奪われてしまいます。

この辺りは日本人の高橋国光さんを含む4人のライダーが同年内に一度以上優勝していてたホンダに対し、MZにはデグナー以外に勝てるライダーがいなかったのも大きいでしょう。ちなみに両者とも物量戦で(笑)、ホンダは最大で8人、MZは6人のライダーを抱えていました。ただし同時に最大で何台まで走ったのかは資料が無く不明。

なので1961年の125tクラスはライダーの亡命でそのチャンピオンが左右された、というあまり他に例を見ない年となっています。さらに言えばこの時125tのチャンピオンを獲ったホンダのフィリスは翌年のマン島TTレース中に事故で命を落としており、なんとも因果なものを感じるチャンピオンシップだったと言えます。



その搭載エンジン、RC115E型。50tなのに4サイクルで2気筒、4バルブのDOHCという凄まじいシロモノで、2万回転まで回って13馬力を叩き出してました。化け物エンジンという他ないですね(笑)。ちなみにトルクが無いためかギアは細かく9段もあり、ライダーの人、今何速ってちゃんと判って走ってたのならスゴイな、と思う。



1962年、ホンダが350ccクラスに投入したRC171。12500回転で50馬力以上出たとされます。
この年は350tは全11GPの内、6つのサーキットでのみの開催と言う変則的な年だったのですが、RC171は第7戦(350tとしては第3戦)アルスターから途中参戦、そこから3連勝、最終的にメーカー&ライダーチャンピオンを獲得した一台となりました。

ただしこの展示でもホンダのサイトでも一切触れてませんが、1962年にホンダが初めて350tに投入したのはこのマシンではありません。実際はGP第3戦マン島TTレース、350ccとして初戦となるレースからホンダはRC170というマシンで参戦していたのです。これは前年の250t優勝車、RC162のエンジンを39.5tだけボアアップして284.5tとしたマシンでした。
ところが350tの初戦となったマン島TTレースで、前年の125tクラスのライダーチャンプ、この年から350tに挑戦していたトム・フィリスが事故死してしまいます。この結果、ホンダはレースでは完敗、続くオランダGPでは巻き返して1勝したものの、RC170はここまでとし、新たに開発されたこのRC171が350tクラスの第3戦以降に投入される事になります(なので両者合わせて4連勝)。

死亡事故がらみなので、微妙な問題だとは思うのですが、ホンダのマシンに乗って命を落としてるのですから、キチンと説明するべきではないか、と個人的には思う所です。全体的にこの博物館、展示内容に対して解説がいろいろ甘いなあ、と感じます。

ついでに言うならこの1962年のマン島TTレースにおけるホンダは呪われており、125tで参戦していた日本人ライダーの高橋国光戦選手も大クラッシュを起して、以後、復帰まで1年以上かかってしまう大ケガを負っています。この段階ですでに2勝しており、もしかしたら日本人初の世界チャンピオンの可能性もあった中での大事故でした(実際、高橋選手が抜けた後は同じホンダのタベリが6連勝でチャンプを決めている)。



第一期の最終年となった1967年に投入された究極の350tエンジン、RC174E。

1967年のホンダは、先にも述べたように50&125tには不参加、500tではMVアグスタと天才ライダー、アゴスチーニのコンビに僅差で敗れ、メーカチャンピオンは250&350tのみの獲得となりました。ただし、両クラスでライダーチャンピオンも獲ってますが、それでもやや寂しい引退だったと思います。

このRC174Eは350tで6気筒、というこれまた滅茶苦茶な設計で(笑)17000回転まで回って65馬力を出してました。
第一期ホンダの世界GPを象徴する言葉「時計のように精密なエンジン」の極北でしょうね。ただしこんな無茶をしたのはこの年だけで、前年までは普通に4気筒でしたから、最後の最後にやってみたかったのだろうなあ、という気も。
ちなみにこの年の350tクラスでは8戦7勝と、圧勝で終わっています。



1966年、ホンダが初めて500tクラスに参戦した時のマシン、RC181。デビュー年のこの年にいきなりメーカーチャンピオンを獲得する事になり、ホンダによる5クラス完全制覇に貢献します(ただし500tクラスのライダーチャンピオンは全盛期を迎えつつあったMV アグスタのアゴスチーニに奪われた)。

4サイクル500tでも12000回転まで回り、85馬力を発揮、最高速度は260q/hを超えたとされます。ちなみにギアは常識的な6段。ついでにパワーがあり過ぎて、その制御に苦しんだ、という逸話も残っているようです。

といった辺りが世界GP第一期の展開で、この後、ホンダの世界GP挑戦は12年の長い眠りにつく事になるのです。とりあえず今回はここまで。


BACK