欠陥車問題によりN360の売り上げが激減、そこに本田宗一郎総司令官の暴走によって開発されたH1300の不人気が加わり、新参の四輪車メーカーのホンダは早くも終焉を迎えつつあると思われていました。
そんなホンダが1972年に突如放った逆転満塁ハットトリックジャーマンスープレックス車がシビックです。

余談ですが、CIVICは「市民的、人民の」といった形容詞であり、名詞ではありません。すなわち貴殿はイギリス海軍ですか、という命名ではあるんですが、今となっては違和感ありませんね。アメリカ人が最初にこの名を聞いてどう感じたかは興味がある所ですけど…



ここの展示車両は後に1973年になってから発売された1500cc CVCCエンジン搭載タイプ。いわゆるシビックCVCCで、フロントグリルの向かって右にCVCCのロゴが見えます。

デビュー時のシビックのエンジンは1200cc、SOHCの“水冷”直列4気筒60馬力、すなわちH1300から100tの排気量低下、さらに3割以上の馬力ダウンとなっていました。それまでのホンダからは考えられない大人しいエンジンだったと言えます。

ただしトルクは9.5sfmでH1300のシングルキャブ型(10.5skgfm)と1割前後しか変わってませんから、必要最低限の推力を維持した上で高回転までブン回して馬力は稼がない、すなわち最高速度を追求しない方向性になった、と見ていいでしょう。
これはS500以来、常に他社の同クラス車より高馬力である(すなわち高速である)というホンダの伝統を撃ち破った車でもあったことを意味します。必要な力があり、必要十分な速度が出ればそれでいい、という現実的な選択ですね。

ちなみにこのエンジンを基に1433ccまで排気量を拡大、これを積んだH145という水冷エンジンの車がH1300の後継として同じ1972年に発売となっています。ただし全く人気が出ず、わずか2年で生産中止となった上に9000台前後しか造られてなかったため、ほとんど知られてない幻のホンダ車となってしまいました。この車は私も現物を見た事がありません。実際、ここにも展示が無かったです。

シビックでは後に排気量が1500tに拡大されたCVCCエンジンでも最大5500回転で63馬力に過ぎず(H1300は7200回転で100馬力以上)、かつてのホンダから見れば信じられない位に実用性に徹した車であり、それが大ヒットにつながったとも言えます(ちなみにCVCCエンジンはSOHC3バルブという妙なスペックになるが、これは例の副燃焼室に吸気バルブが一つ追加されるため)。

この大馬力万歳方針からの変更は、本田宗一郎総司令官の社内における立ち位置の変化が大きく関係してました。
社内で育ちつつあった優秀な技術者たちに対し、熱力学の基本すらキチンと理解してない(でなければ簡単な計算で空冷の不利は判ったはずだ)本田宗一郎総司令官の立場は、H1300の営業的な失敗により極めて弱くなりつつあったのです。

このため、シビックはホンダでは初めて、本田宗一郎総司令官が陣頭指揮を執らずに開発された市販車となりました(軽自動車のライフもそれほど首を突っ込んでないが)。よって開発総責任者、ホンダでLPL(Large Project Leader)と呼ばれる役職の人物がその開発を主導します。当初はあの久米さんであり、その後、実際に細部の設計が始まってからは木澤博司さんが引き継いでます。木澤さんは中村良夫さんが他社から引き抜いた人物で、後に中村さんが日本に帰れなくなってから(詳しくはレーシングカー編で後述)ヨーロッパに彼を訪ねて欧州車の研究を行い、これがシビック、そして後のアコードに活かされたと言われています。

もっともこういった方向転換が面白く無い人も居て、F-1番長にして後の四代目社長、川本さんなんかはホンダを辞めることにし、イギリスのレーシングエンジンメーカー、コスワースへの転職を決めてしまったわけですが(後に久米さんに説得され復帰)。

話をシビックに戻しましょう。
発売翌年の1973年12月には、例のアメリカにおけるマスキー法の施行、すなわち排気ガス規制に備え1500cc CVCCエンジン搭載型も発売になります。これが世界で初めてマスキー法をクリアしたCVCCエンジン搭載市販車、いわゆるシビックCVCCでした(ただしアメリカでの発売開始は1975年から)。

ちなみに1500ccに排気量が拡大されたのはパワーアップのためだけではなく、CVCCはその構造上、小排気量エンジンには向かなかったからで(薄い混合気を一定容量の燃焼室内で完全燃焼させる必要があった)、当初は2000cc以上必要とされていたのをなんとか1500tにまで小型化したものでした。
ちなみに息を吹き返したとはいえ、当時のホンダはまだ余力はない状態でしたから完全な新型エンジンなんて開発する余裕はなく、このため従来の1200tエンジンの排気量拡大と、シリンダーヘッド部回りをCVCC用に換装したエンジンでした。



デザインの方向性は直前に発売されていた同社の軽自動車、ライフと同じなのですが、トランクではなくハッチバック式まで投入したのがホンダの英断だったと思います。
(展示車は車体後部の下側にトランク式の収納庫が付いてる4ドアモデル。これに加えて背面全部がドアになっていて車体後部が全て荷物室になるハッチバック式の5ドアモデル、その他に2ドア&3ドアモデルがあった)

ちなみに車体のデザイナーは、例のS800のボンネットにコブを造ってしまった岩倉信弥さん。彼によると、最初はちゃんと後ろに出っ張ったトランクありの車体だったらしいのですが、車内空間を広げた結果、どんどん寸詰まりでカッコ悪いくなり、最後は取ってしまえとこのデザインになったそうな。





前年1971年に発売となっていたホンダの“水冷”エンジン軽自動車、ライフ。
これがシビックの前身となったデザインであることがよく判ります(ただし後部ドアが全開となるハッチバックはなし、トランクのみ)。くりかえしますが、こちらは岩倉さんのデザインではありませんから、まあ言葉は悪いけどシビックは社内デザインからのパクリとなります。やはり岩倉さん、あまり褒められたデザイナーではないような…

軽自動車を別にすれば日本車でほとんど前例が無かった後部にトランクの無いボディは斬新で、社内でも果たして売れるのか、これでホンダはオシマイになるのではないか、という懸念の声が多く出ました。
ちなみに前席2ドア+ハッチバックの3ドアタイプのシビックの説明を社内の営業部門に行ったところ、3枚目のドアは後部座席の左右どちらに付くのか、と真顔で質問されたこともあったそうで、当時は自動車で飯食ってる人間にとっても、なかなか斬新な形式だったようです。よって売れるかどうかは賭けでした。

実際、1972年7月に最初のシビック、1200t 2ドア(トランク式)が発売された時はそれほどの反応は無く、ああ、やはりと思われたのですが、9月になってハッチバック式の3ドアが登場すると爆発的な人気を呼び、半年しか発売期間が無かった1972年に2万1千台、翌1973年にはいきなり8万台を売り上げる大ヒットとなりました。

これは最初の1年半でH1300の3年分を超える売り上げを達成した、という事ですから倍以上のペースで売れた事になります。しかもH1300に比べて大幅に低コストでしたから十分な利幅があったはずでホンダにとってはまさに9回裏ツーアウトからの逆転満塁ホームランとなりました(両車の価格はほぼ同額でCVCC、4ドアタイプのシビックは66万2千円。対してH1300の最上グレードS99が約68万円+送料)。最終的に1979年まで7年近く生産が続いた初代シビックは90万台を超える生産数を記録することになるのです。

日本国内では1972、73、74と3年連続でカーオブザイヤーを受賞(現在のカーオブザイヤーの前身、雑誌の「モーターファン」が独自に行っていた時代のものだが)、その間に累計販売数は約22万5千台を達成、生産が追い付かないことからホンダは軽自動車から撤退、そちらの生産施設を転用するまでになります。

そして既に見たようにCVCCは低燃費でもあったので、オイルショック後のガソリン値上がりの中、この点も人気の要因になりました。
これは燃料が希薄な(リーン)混合気を燃やしたからでしたが、ホンダの技術陣は当初、この大きなメリットにあまり注目してませんでした。このため排気ガス適合試験をアメリカ合衆国環境保護庁(EPA)で行った際、その試験官からこの点を指摘されて初めて大きな利点であると認識した、と現地に入っていた福井威夫さん(後の六代目社長)が証言しています。

さらについでに今では誰にも理解できないメリットとして、CVCCは有鉛でも無鉛のガソリンでも使えた、というのがありました。
他社の酸化触媒式の排ガス規制車は鉛害対策済みの無鉛ガソリン専用だったのです。これに間違えて旧来の有鉛ガソリンを入れてしまうとその機能が低下して効果が無くなってしまいます。このため触媒式の車に有鉛ガソリンを給油する事は禁止されており(違反すると罰金刑となる州もあった)、その上困ったことにアメリカ中のガソリンスタンドでは有鉛、無鉛の両方のガソリンを揃えてないところが多数あったのです。
この点、燃焼で排ガスを制御するCVCCは何の問題も無くどちらのガソリンも使えたので、これがアメリカでの発売当初、意外なセールスポイントになりました。実際、アメリカではANY KIND OF GAS、どんなガソリンでも、の文句が初期のシビックの宣伝には使われています。

ちなみにシビックの発売直前、1971年8月には円とドルが固定レートでは無い変動相場制になり、いきなり2割近い円高になる(輸出には不利)というドルショックが発生しており、その荒波の中での出発でした。それでも世界規模でのヒット作となり、ホンダは息を吹き返す事になります。

ただしシビックは後にアメリカで大規模なリコールの対象になってしまいました。
アメリカ北部のフリーウェイ(高速道路)などでは当時から雪の凍結対策として路面に塩をまいていたのですが、この塩害によってタイヤ周辺のボディにサビがでて腐食が進み、危険な状態になる、と判断されたのです。さらに後にはサスペンション周りの腐食も指摘されています。最終的これらはリコール、無償修理の対象になってしまいました。

これは当時のアメリカにおける輸入車において、最大規模のリコールとなり(購入後、3年以内のサビによる腐食は無償修理、パーツ交換の対象となった)、以後、中古車市場におけるホンダ車の価格下落を引き起こしてしまいます。ついでに、初代シビックは日本製だったので(後に一部だけニュージーランドで組み立てを行ったが)、パーツの輸出だけでも修理はかなり高いものについたはずです。

それでも、シビックがホンダのアメリカ定着に大きく貢献したことは事実で、後のアコードの大ヒットにも繋がってゆくことになります。それまでN600、Z600(N360、Zの600t版輸出車) というニッチな市場しか埋められなかったホンダが、アメリカでも普通の四輪メーカーとして認められることになったのはシビックによると考えていいでしょう。



ワシントンDCにあるアメリカ国立歴史博物館( National Museum of American History )で展示されているシビック。
先に見たシカゴのN600といい、アメリカを代表する博物館にある日本車は常にホンダ、という感じでして、ホンダがいかにうまくアメリカ進出をやったのかが感じられます。展示されてるのは1977年型シビック。CVCCのロゴが見えませんがシビックCVCCだそうです。アメリカではロゴなしで売ってたんですかね。2003年まで現役で頑張った後、スミソニアン協会に寄贈されたものだとか。レストアしてるのかもしれませんが、状態はいいです。

展示の解説にはアメリカにおける海外の車、というタイトルの元、1970年代半ばからアメリカでも小型車の需要が高まり、展示のシビックなどが人気となった、と書かれてました。ちなみに小型車が人気になった理由として各家庭に二台目の車の必要が生じたこと、すなわち女性の職場進出により奥さんが車を持つようになった事と、オイルショックによるガソリンの値上がりを指摘していました。ちなみに1980年の段階で日本車の販売台数は200万台を超え、これは全米で販売された車の20%になるそうな。そりゃ貿易摩擦にもなるわな。


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