というわけで、まだまだ続くホンダコレクションホール大行進、今回は軽車両ではない四輪車を見て行きます。



ホンダの2シータースポーツカーはS500、S600、S800と次々に進化して行くのですが、名前がほぼそのままエンジン排気量を示し、基本的にそれぞれの違いはシリンダーのボア(直径)とストローク(筒長)両者の拡大による排気量増大のみでした。ただしストロークまで変えてるのでシリンダーブロックは完全に新設計になってたと思われます。

それ以外は三車種とも基本的にS500ほぼそのまんまで、なるほど、エンジンのホンダだと思う。このため、1963年10月から1966年1月までのわずか2年3カ月で、S500、S600、S800と次々と進化して行きます(ただし細かい修正は多い。特に外見からでは判らない変更としてS800の後期型よりデフから先の後輪チェーン駆動とそれに伴う特殊なサスペンションをやめている。ミッションも変えた可能性あり)。

玄関にあったのがS500だったので、これはS600…と思ったらこちらもS500で本田宗一郎総司令官の好きだった赤。ちなみにS500は総生産数で500台以下ですから、現存してる内2台がここにあるってのはちょっとスゴイなと思う。



そのSシリーズの心臓部がこのエンジン、ASシリーズでした。最初のS500用がAS280Eで44馬力、写真はS600用のAS285Eで57馬力。800ccまで拡大したS800用のAS800Eでは70馬力まで叩き出してました。
ホンダエンジン設計のエース、後の三代目社長 久米さんの設計によるもので直列4気筒の水冷4サイクル、2バルブのDOHCというスペックでAS800Eでも8000回転まで回せたとされますから、なるほどスピード重視のスポーツカー向け高馬力エンジンだ、という事になります。

既に見たS360とT360用に開発されていた360tのXA250エンジンの進化型ですから直列水冷4気筒で2バルブのDOHCという共通点を持ちます。ついでに前回、T360用エンジンの解説で書き忘れましたが、この系統のエンジンは普通に変速機(ミッション)はクランクケースから独立していました。基本的に世界GPエンジン出身の久米さんの設計ながら、バイクのエンジンとは違うのだ、というのが明確に意識されてるようです。

ちなみにT360のAK250Eエンジンは水平設置型でしたが、こちらは写真のようにほぼ斜め45度に傾いた状態で縦置き搭載されます。写真のこちら側が上面であり、四本の電線が引き込まれてる四角い箱はプラグカバー。
前から見ると、V8エンジンの左半分だけが乗っかってるような変なレイアウトで、なんでこんな形にしたのかはよく判らず。当時のホンダでは単純な垂直置きのエンジンを設計したらナミビア砂漠でスーパーカブを1000台売るまで日本に帰れない、とかの罰ゲームとかでもあったんでしょうか。あるいは、少しでも重心を低く設置できるように、とかですかね。



で、こちらがSシリーズ二代目のS600。
いわゆるエスロク、ですね。展示の車両は屋根付きのクーペ型(1965年2月に追加されたモデル)。
実はワタシ、S600に屋根付きのタイプがあると初めて知りました。クーペ型はS800からだと思ってた。ちなみにS600からは海外輸出が開始され、ホンダはこの車から四輪の世界展開を始めた事になります。

上のS500にはあったヘッドライトの凸型ガラスカバーが無くなっているのが両者の見分け方の一つ(ただしS600も初期生産型にはあったので絶対ではない)。一番判りやすいのは前部バンパーで、単純な直線型ならS500、真ん中が下向きに凹んでればS600となります。あとフロントグリルもちょっと異なるんですが、いずれにせよ一見して両者を見分けるのはかなり困難です(S500に屋根付きクーペ型はないので、屋根があればS600だが。S800との区別は比較的容易。これは後述)。

ちなみにホンダが海外のレーシングカー選手権で最初に勝ったのは1965年のF-1最終戦、メキシコGPですが、ただ単に四輪車のレースでの優勝なら、このS600の方が先でした。1964年9月、西ドイツのニュルブルクリンク サーキットで行われた500q耐久レースに参戦、1000t以下クラスで優勝を遂げたのです(総合で13位)。

1964年ですからホンダのF-1参戦の年で、同年8月2日のドイツGPにおいてホンダはF1デビューを果たしてます(第六戦以降の三戦のみ参加)。中村良夫さんによると、かつての同盟国という事で、ドイツ人は極めて親切で、初めての国際レースで大混乱だったホンダに対し、いろいろな便宜をはかってくれた、との事。
なので、おそらくその流れでの参戦だったのかもしれません。でもって、このレース、当時ホンダと交際があった“爵位持ち”オーストラリア人F-1ドライバー、サー“ジャック”・ブラバム(John Arthur Brabham)が絡んでたらしいのですが、詳細はよく判らず。

ついでにこの時のS600のドライバーは“デニー”ことデニス・ハルム(Denis Clive Hulme)で、彼は翌1965年からブラバムでF-1に参加、後の1967年にはワールドチャンピオンを獲得してます(チームオーナーでもあるブラバムを差し置いての優勝だったのでこの結果、チームを去る事になるが…)。
ついでにこの人、ブラバムが参戦していたヨーロッパF-2にも並行して参戦しており(ブラバム本人もやってた)、例の1966年にホンダエンジンが達成した12戦中11勝の驚異の連勝記録の時も4勝をあげてます(残り7勝はブラバム本人らしい)。

ちなみにこの勝利に驚喜した本田宗一郎総司令官の命令でクラス優勝車は日本に送り返され、同年の全日本自動車ショーに展示された…事になってますが(笑)、どうも中村さんの証言によると9月26日のショー開催に間に合わせるため、ドイツから日本への空輸はとても無理で、ホンダのレーシングチームの活動拠点(ブラバムの工場らしい)、ロンドンにあったスペアカーを送ってごまかしたそうな。

国内外のレースで活躍した事もあり、Sシリーズで最も知名度が高いと思われるS600ですが、その生産期間は1964年春から1965年末まで、わずかに1年8カ月前後でした。それでもその間に1万3千台が製造されたと見られています。月産だと月720台前後、当時の自動車普及率を考えれば、意外に売れたな、という感じです。人気だったと思っていいでしょう。

参考までにS600とS800のライバル、1965年に発売されたトヨタのトヨタスポーツ800、いわゆるヨタハチは総生産数わずか3000台前後で終わってますから、S600、S800の方が人気では圧勝だった事になります。


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