N360の後継車として1971年に発売されたホンダ ライフ。
この車からホンダの乗用車がようやく水冷エンジンになるのですが、それにはちょっとしたドラマがありました。
1969年の夏ごろ、空冷エンジンで地獄を見ていたホンダのエンジン開発におけるエース、後の三代目社長となる久米さんと当時の研究所所長だった杉浦英男さん(後に河島社長時代に副社長。その後、後輩の久米さんが社長になったため、社長を経ずに会長職に就任)の二人で営業部門のボス、藤沢副社長(1964年に副社長になっていた)と相談、本田宗一郎総司令官を説得して、なんとか空冷の開発を止めさせる、という方向に話が決まります。

開発現場では空冷では技術的にどうしようもないのは明らかで、本田宗一郎総司令官の思い込みに振り回されてた多くの技術者がやる気を失っており(久米さんもその一人で、すでに二回失踪事件を起こしていた)、営業は営業で満を持して発売したH1300(後で登場)が売れず、空冷はダメだ、という結論に全社が傾きつつあったのです。そこにN360の欠陥車騒ぎが起こり、ホンダは瀬戸際に追い込まれていたのでした。さらにこの頃から研究が本格化していてた低公害エンジン(後のCVCC)でも空冷ではどうしようもないことが明らかになりつつありました。

こういった状況の中、1969年の夏ごろに藤沢副社長の主導で、この三者会議が行われました。例の海老沢さんの本、「F1地上の夢」によれば、以下のような経緯だったとされます。
三人で集まった後、久米さんは空冷の欠点を全てあげ、このままではダメですと藤沢副社長に訴えます。これを聞いた藤沢は「わかった。では本田社長にもそういいなさい」と言い渡します。実は杉浦さんと久米さんは、社内で唯一、本田宗一郎総司令官に正面から意見できる藤沢副社長が伝えてくれるものだと思い込んでいたので、この言葉に愕然としたそうな。

結局、恐る恐る二人で本田宗一郎総司令官の元に出頭、空冷はダメだ、という事を意見具申するのですが、藤澤副社長がすでに電話で同意見である、と伝えていたため、激怒しながらも本田宗一郎総司令官は水冷エンジンの開発を許可するのです。
ただし水冷と空冷を平行開発せよ、という事でしたが、もはや誰も空冷エンジンに未練はありませんでしたから速攻でうやむやにされ、このライフに積まれる水冷エンジンの開発が始まりました。そして後にホンダの主力商品となるシビックのエンジンも同じ方向性で動き出すのです。

このライフに搭載された360t EAエンジンの設計を担当したのが後の四代目社長にしてF1番長の川本信彦さんでした。
EAエンジンは4サイクル2気筒SOHCで出力31馬力、トルクも2.9sfmと数字だけを見ると空冷のN360Eとほとんど変わりませんが、単に水冷としただけでなく、構造的に全く違うモノになってました。
そもそもバイクのエンジンからの発展型では無いので、最初からギアボックスを分離、クランクケースの横に置く形にし一般的な乗用車の構造になります。さらにタイミングベルト(クランクシャフトの回転でカムシャフトを回しバルブを開閉させるための連結ベルト。従来はプッシュロッドや金属製チェーンで回していたがノイズ、振動が大きかった)を日本で初めて採用したエンジンでもあり、静かで振動も少なくなっています。これが以後のホンダのエンジンのひな型となりました。
ついでにホンダの乗用車で、4ドアモデルが追加されたのもこのライフからでした。

ただしN360で被ったホンダの軽のイメージの悪化からN360のような爆発的なヒットとはなりませんでした。
そこに1974年(昭和49年)から免除されいた軽自動車の車検が義務づけられ重量税がその度に掛かる事になったため販売減少が予期されていました。さらに例の排ガス規制が軽自動車にも適用され(昭和48&50年規制)、さらなる新規開発が必要になること、そして1972年に発売されたシビックが世界的な大ヒットになって生産施設の拡充が必要だった事などから、ホンダは1974年で軽の乗用車からの撤退を決定、ライフも1974年で生産が打ち切られてしまう事になります(ただし排ガス規制に関しては昭和48年規制までは後付け装置で対応しているし、軽トラの生産は続けた)。

ちなみに撤収時でもホンダは軽乗用車の売り上げトップであり、これによって棚ぼた式にスズキがその座を占めることになります。



1972年に発売されたステップバン。
正式にはライフの派生型だったので、ホンダ ライフ ステップバンと呼ばれます。右は後から追加されたピックアップトラックモデル。

軽自動車用のエンジンと脚回りに背の高い広い車体を載せたスタイル、軽のボンネットバン型の設計を最初にやった車がこのステップバンです。が、当時としては発想が新しすぎた上に営業用のバン(こちらは軽トラからの改造)と同類と見られた事もあり、あまり売れませんでした。さらに1974年のホンダの軽撤退でわずか2年の製造で終わってるのですが、製造終了後に人気が出てプレミア価格の中古車となりました。この辺り、1970年代後半にサーファーがこれを愛用したため、なぜかオシャレな車といった印象が与えられたのも影響したような気がします。

後の1993年にスズキがワゴンRを発売、これによって以後、軽自動車の人気車種は車内が広くて乗り降りが楽なボンネットバンになって行くのですが、その20年以上前にホンダはこういった車を出していたわけです。



1970年10月に発売されたホンダZ。
すでにある車の設計を流用し、そのボディ外形を変えたり、エンジンをパワーアップしたりて若者向けにしたスペシャリティーカーの一つで、軽自動車としては日本で初めての試みでした。最高グレードとなるZ GSでは5速マニュアル、前輪ディスクブレーキと当時の軽としては珍しい装備も付けてます。その上、この手の車としては珍しく、キチンとした後部席を持ち、大人四人でも乗る事ができたとされ、これらの事から人気車種となりました。

余談ですが、本田宗一郎総司令官の飛行機好きは有名ですが、ホンダ自体でもそういった面があるようで、Zのパンフレットには海軍型ファントムの横に並ぶZ、という写真が掲載されています。厚木辺りで撮影したのだと思いますが、よく許可がとれたな。

ただし初期形はN360を、1971年12月に発売された中期型と1972年11月に発売された後期方はライフを改造のベースにしてるため、同じZでも初期形と後期形は中身が全く別物というちょっと変な車だったりします(なのでホイルベース、車輪の前後長は中後期方の方が少し長い)。同じ名前でモデルチェンジもしてないのですが、ほぼ別の車なのです。ホンダのコレクションホールで展示中の車両はライフを改造基にした中期型となっています。後期型はフロントグリルに縦線が入るので、その識別は容易です。

Zという名称はΩ(オメガ)と同じくアルファベットの最後の文字、最終形態、といった意味だと思いますが、この前年に日産のフェアレディZが発売になってますので何か「Z」ブームでもあったんでしょうか(フェレディZのZはもともとの開発コードがZだった事にちなむ)。
……司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の連載中でもあり、ひょっとして日露戦争のZ旗の影響かとも思いましたが、この時期だとまだ連載は日本海海戦よりはるか前ですから、多分、違いますね。

ついでにマジンガ−Zは1972年12月放送開始ですから、こちらは車の名前からヒントを取ってるとみて間違いないでしょう。あれは「やぶにらみの暴君」に出て来る操縦できる巨大ロボを元ネタに、自動車のような運転装置を組み込んだ話ですから。

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