ホンダの軽トラ伝説その2、ドアも無ければまともな屋根も無い(幌だけ)360tエンジンの軽トラ、1970年発売のバモス(Vamos)。
前に見た軽トラ、TN360のエンジンと足回りをそのまま使って開発されたもので、私が最も好きな車の一つです。
その名はスペイン語で、さあ〜しよう、と誘いかける言葉から取られました。
(展示の解説だと英語のLet's goの意味とされていたが、間違いでは無いものの Come on の意味でも使われれるスペイン語なので、さあ、という呼びかけと考えるのが一番近い)

ちなみにドアは無いものの転落防止用の棒だけはついてました(開閉可能)。展示の車は4人乗りタイプですが2人乗りタイプのものもあり。

工事現場や農場などで使う安価で頑丈な作業用の車として開発されたと言われてますが、ほとんど売れず、わずかにレジャー用に受け入れらて終わります。まあ、これ、雨の日には乗れないですからね。当然、エアコンも無いですから(ヒーターはグレードによるらしい。少なくとも商用設定車には無かった)乗れる日の条件は極めて限られるのです。でも好き。

ちなみに一部で有名な、ラビットパンダという謎なネーミングで地獄のチンドン屋がデザインした悪夢のようにステキな車はこれの改造車です。



軽トラと2シーター オープンカーで四輪業界に殴り込んだホンダが初めて発売したまともな乗用車N360。

発売は1967年で、T360から4年もかかっての一般乗用車の発売となったわけです。この時期はF-1活動第一期と重なってますから(1964-1968)、それがこういった市販車の開発の遅れにつながった可能性もあります。とりあえず、これでようやくホンダは自動車メーカーとして世に認められるようになるわけです。

発売当初の31万3000円という価格は当時としてはかなりお買い得で、結果的にはホンダの四輪車では初めて売れに売れる大ヒットとなりました。
そのヒットを受けてエンジンを拡大した輸出用も造られ、N400、N600として発売、海外展開が行われています(数字がそのまま排気量。また一部は国内発売もされたがこっちはあまり売れなかった)。



シカゴの産業科学博物館で展示されていたN600。わざわざアメリカを代表する博物館で展示されてるので、当時、それなりに売れたのだ思われますが、詳細はわからず。



この車に採用されたN360Eエンジン。バイクのドリームCB450用エンジンから改造したもの。
ただしホンダのバイクエンジンですから、元はDOHC(ただし2バルブ)で、これをSOHCに簡素化してました。おそらくコスト対策でしょう。4サイクルで2気筒空冷、2バルブのSOHCで31馬力を出してます。当時の他社の軽が20馬力前後、2サイクルエンジンすらあったことと比べると十分なものでした。空冷なのでシリンダー周辺の冷却フィンも目につきますね。

また、結果的にそうなった、という部分が大きいと思われますが、当時のホンダの販売網はバイクの特約店だった所が多く、このため四輪車のサービスセンター、整備工場としては機能しませんでした。が、幸いこのエンジンはバイクのエンジンからの改造ですから、ホンダのバイクを売っていたお店の整備員でもある程度までは面倒が見れたようです。

そういった来歴を持つため、自動車用エンジンとしてはちょっと変わった構造をいくつか持っていました。
まずエンジン下、この裏側に変速機がクランクケースと一体化された状態で積まれてます。これは1500t F-1でもやっていたバイク式の構造なんですが、N360Eの場合、その変速機までシンクロメッシュなしの直結式ドッグミッション、すなわちバイクに近い簡易な構造のミッションがそのまま使われています(レーシングカーなどでも使われるが)。
シビアなドッグミッションの手での操作を素人が使いこなせるのか、と思ってしまう所ですが、慣れてしまえば普通にギア変換可能だったようです。実際、筆者の知人の親に乗っていた人が居ましたが、その人によればそんな特殊なミッションだとは最後まで気が付かなかったそうな。

T360やS500以降のスポーツカーが全てラジエターを必要とする水冷エンジンだったのに対し、ホンダはこのN360では空冷エンジンに切り替えて来ました。これは、おそらくコスト削減が目的だったと思われるのですが、このN360の大ヒットにより、以後、本田宗一郎総司令官は空冷エンジンに夢中になってしまうのです。

未だになんで本田宗一郎総司令官がそこまで空冷エンジンに夢中になったのか、明確な理由は判らないのですが、彼の興味が低公害エンジンの方に向かうまで(CVCCである)、ホンダは空冷エンジンを巡り、技術的な迷走を重ねて行きます。
この本田宗一郎総司令官の空冷エンジンブームに巻き込まれる形でホンダは三度目の重大な経営危機を迎える事になり、その間に生み出されたのが、一部で有名な空冷エンジン搭載のF-1マシンであり、市販車としては失敗作となったH1300でした。この点はまた後で。

そしてこの空冷エンジンによって本田宗一郎総司令官は技術者としての知識と勘の限界を自ら示してしまう結果になり、もはや技術の現場の責任者にふさわしくない、という事から周囲からじわじわと社長退任の道へ追いやられる事になります。

ただし彼が見事だったのは、最後の最後は、きっぱりと非を認めてあっさり社長の座を捨てさっと身を引き、二度と経営にも現場にも口を挟まなかった事(デザイン部門などに多少はやっていたが)、そして退任に当たり、社内のもう一人のボス、営業部門の責任者だった藤沢武夫さんを一緒に退任させ、以後は若い世代が自由にやれる環境を造ってしまったことでしょう。功罪ともに大きな社長でしたが、最後は見事でした。美しい引き際だったと思います。

そしてわずか45歳で二代目社長となった河島さんが指揮をとった10年間で、世界規模の自動車メーカーとしてのホンダは爆発的に発展する事になります。



ちょっとピンボケなのはご容赦を。
N360を横から見るとよく判りますが、イギリスで1959年に発売されたミニの設計思想に強い影響を受けており、そのスタイルだけではなく、横置きエンジン(ただしこれは元がバイクのエンジンだから構造的にそうなったのだが)でFF(前部エンジン前輪駆動)式の駆動部など共通点が多いです。なんでも自前で開発したオリジナルでなければ気が済まなかった本田宗一郎総司令官時代のホンダにしては珍しい、といっていい欧米車から強い影響を受けた車とも言えます。おそらく中村良夫さんの影響だと思いますが詳細は不明。…ひょっとして本田宗一郎総司令官、ミニの存在を知らなかった?

本田宗一郎総司令官は前輪駆動が嫌いで、中村良夫さんが責任者となり最初にホンダで造った試作車、XA-170が前輪駆動だったのをいやがったと言われています。この結果、その後に造られたS360、S500のスポーツ車系統、そしてT360以降の軽トラでも全て当時としては常識的な後輪駆動だったのです。
このN360が発売された1967年は技術部門のトップとして本田宗一郎総司令官がまだまだ猛威を振るっていた時期ですから、よくこの構造を採用したな、と思います。

M360の開発開始は意外に遅く、T360の発売から2年半近く経った1966年の一月とされます。そこから広い車内をもった軽らしからぬ乗用車として開発がスタート、その結果、後輪を駆動するのためのドライブシャフトが無く、室内を広くとれる前輪駆動、FF駆動方式が採用となったようです。
ちなみにホンダでデザイナーをしていた岩倉信弥さんによると、本田宗一郎総司令官は当時、「月に1万台売れる軽乗用車をつくれ」と社内に号令をかけており、これもN360開発開始の原動力だったと思われます(ちなみにN360の売り上げは最大でほぼ2万5000台までゆく)。

ただし前輪を駆動するドライブシャフトの長さが左右で違ったため、アクセルを踏み込むと左右の車輪に伝わる動力に差が出て真っすぐ走らなくなる、という欠陥も抱える事になります。これは同じ力で左右の車輪が回らないので車体が斜めを向いてしまうというFF車にはよくある傾向で、お手本になったミニにも似たような癖がありました(特に全力でぶん回すミニ クーパー)。
なのでN360だけの致命的な欠陥車と言うわけでは無いのですが、当時、世界的に消費運動が盛り上がってる時期に当たり、このN360の馬鹿みたいにアクセルを踏むとハンドルを取られて転倒する傾向がある、という事が後に大きく取り上げられ、欠陥車としてマスコミで大きく報道されてしまうのです。

この辺りは例によってアメリカの動きに日本も影響を受けたものでした。
ラルフ・ネーダー(Ralph Nader 後に何度も大統領選挙に出馬しした事でも有名)が1965年に出版した「あらゆる速度において危険(Unsafe at Any Speed)」がきっかけとなってます。この本はアメリカで市販されてる自動車、特にGMの車が安全性を軽視して販売されており、消費者は危険にさらされてる、と告発したモノでした。
これが最終的にはアメリカ政府をも動かし、自動車の安全性を規制した国家交通自動車安全法(National Traffic Motor Vehicle. Safety Act of 1966)の成立をみます。これ以後、アメリカの自動車業界は政府と消費者から厳しい目を向けられ、その安全性に多くの予算を割く事を余儀なくされるのです。

この運動が、やや遅れて1969年ごろになってから日本にも入って来たのでした(きっかけはニューヨークタイムズが1969年5月に日本の自動車メーカーが欠陥車のリコールを公表して無いと非難した記事だった)。
当時の日本の自動車メーカーも到底、安全性を重視してるとは言い難い状況でしたからマスコミからさまざまな告発を受け、大騒ぎになるのです。この結果、一時的に各メーカーとも、その対応に精いっぱいで売り上げが激減する事態を迎えます。
なので世界がアポロ11号による月着陸に大興奮だったこの時期、日本の自動車メーカーはそれどころじゃない、という事態に見舞われていたのでした。

そしてその矛先はホンダにも向けられました。標的となったのは爆発的なヒットとなっていたN360です。
N360は珍しいFF構造だったため、先に見た高速時に真っすぐ走らなくなる現象により、ハンドルが取られて転倒の可能性があり危険である、としてマスコミから攻撃されたのです。これを受け、消費者の反応に人一倍敏感だった本田宗一郎総司令官は速攻で対策を打ち、ホンダはすぐにリコールを届け出て、回収、必要があれば修理を行いました(ただし欠陥車であるという指摘には徹底的に対抗した)。

が、一度できてしまった、ハンドルを取られて危険、というイメージは払しょくできず、以後、急激にN360はその売り上げを減らす事になってしまいます。これにより販売の大黒柱を失ったホンダは三度目の経営危機を迎えるのです。
さらに悪いことに救世主的な役割を期待されたホンダ初の普通乗用車H1300が発売されたのに思ったほど売れませんでした。本田宗一郎総司令官の空冷エンジン熱の結果生まれた空冷1300ccエンジンを搭載したこの車は一般に受け入れられなかったのです。ここからしばらくホンダ冬の時代が始まります。これはCVCCとシビックの登場で大逆転となるのですが、この点はまた後で。
こうしてN360は異例の大ヒット車だったのに、5年後の1972年には生産中止となり、その名を継ぐ車も登場しませんでした(1971年には既に後継車のライフが発売されており、実質的な販売期間は4年)。

ついでながら、日本の消費者運動、特に自動車の安全性に対する告発は1970年以降、過激な民間団体が主導するようになり、本田宗一郎を殺人罪で告訴するまでに至ります。最終的に不起訴に終わりましたが、この間に、この団体がホンダに対して高額な示談金を要求した事から、今度は逆にホンダが彼らを恐喝罪で告訴し、1987年、15年もの長期裁判の結果、執行猶予付きながら有罪とされています。
色んな意味で後味の悪い事件ではありました。


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