125ccクラスの二輪レーサー 2RC143。
前回見たホンダが世界GPで初優勝したRC143の発展型で本田宗一郎総司令官の夢、マン島TTレースで1961年に初優勝したマシンです。1961年の125tクラスは前回も見たように11戦中8勝と圧勝に終わるのですが、その8勝の中にマン島TTレースが含まれているわけです。ちなみにライダーは地元イギリス人のヘイルウッドでした。

1961年用に開発が進められていたRC144に見切りをつけてフレーム(車体)だけ転用、エンジンは前年のRC143のものを改良しながら使用したもの。第三戦のフランスから投入され、4ストローク、空冷2気筒、そして125tながらDOHC4バルブのエンジンは最大23psまで叩き出したとされます。

マン島TTレース(The Isle of Man Tourist Trophy Race )、と聞いても普通の人はなんだそれ、という感じですが1907年初開催の歴史ある二輪車のレースでした(四輪レースはそれ以前からあったが後に廃止)。一周37.5マイル(約60.4q)という一般道を利用した長距離コースで戦われるタフなレースとして戦前から世界的に有名だったものです。
20世紀後半以降の感覚だと、F-1のモナコ、インディーカーのインディ500、そしてルマン24時間耐久のような知名度と歴史を持つ二輪車レースだったと思えばいいでしょう。

レース好きの本田宗一郎総司令官はおそらく戦前から雑誌などによってその名を知っていたと思われ、戦後、日本の有力なバイクメーカーの一つにホンダが育つと、これに参加したい、それだけではなく勝って世界一になりたい、と考え始めます。
(二代目社長の河島さんによるとドリーム号が発売された1949年、同じ浜松出身である水泳の古橋廣之進選手が全米水泳選手権の自由形で三つの世界新記録を樹立したのに強く刺激され、俺も世界一を目指すと言い出したらしい)

そこで1954年(昭和29年)3月にマン島TTレース優勝「宣言」を発表、国際バイクレースに日本のメーカーとして初めて挑む事を表明、5年後の1959年に125tクラスで初参戦を果たす事になります(宣言から参戦まで5年もかかったのは本田技研工業が二度目の経営危機に見舞われていたから。というか、宣言そものものが経営危機で挫けかけていた社員を鼓舞するためという面があった。その間、国内のレースに参戦しても居るが、正直、パッとしなかった)。

ちなみに1959年に現地に乗り込んだ日本人ライダーの一人がマン島のコースが全て舗装されてるのに驚いた、と言ってますから、当時の日本の道路状況、そしてモータースポーツのレベルが推測できます。その状況で参加から2年で勝ってしまったんですから、ホンダすげえ、としか言いようが無い世界でしょう。
さらに言えば当時のホンダは世界GPがどんなものかもよく判っておらず、レースの一カ月前に現地に入ったら他のチームが見当たらず、マン島以外にも年間に複数のGPが開催されてる事に初めて気が付いた、と河島さんが証言してます。

それでも、この時出走した5台の内4台が完走、6位、7位、8位、11位を記録しました。ちなみに6位に入った谷口尚巳は日本人として初のGP入賞であり、同時にホンダはデビュー戦でいきなりポイントを獲得した事になります。ちなみに日本人ライダーの四人の他に、もう一人、アメリカ人ライダーのビル・ハントがいたのですが、彼は唯一のリタイアとなってます。
ついでに完走した内の3台が10位以内だったため、ホンダは125tで最優秀メーカーチームの賞も獲得していますから、いきなりの参戦としては上出来でしょう。

が、本田宗一郎総司令官の目標はあくまで優勝でした。実際、レース後の社内報で「よくやった」と褒めた後から「しかし、まだ1番から5番までが残っている」と書いています(笑)。そして翌1960年のレースからは250tにも参戦、125tで最高6位、250tで最高4位を獲得、この年はマン島TTレース以降の6レースの世界GPにもスポット参戦し(計7戦)、250tクラスで最高2位まで獲れるようになっていました。
さらに1961年からは世界GP全戦参戦を開始し、既に見たような圧勝を収めてしまうのです。

ちなみにホンダによる最初の海外遠征はそれより前の1954年、サンパウロ市400年記念レースでした。この時も125tクラスに参加して13位となっています。この時は250tクラスに当時はまだ健在だった老舗のメグロがエントリーしてたものの練習中の事故で出走できず、ホンダが日本初の国際レース参戦メーカーの栄誉を一人で受ける事になりました。ちなみに会場はあのインテルラゴス サーキット。



その1959年、最初のマン島レース参戦に使われた125ccエンジン、RC142。
2気筒のシリンダーは横並び、すなわち横置きで、下のギアボックスも一体化されておりホンダの1500t F-1エンジンと同じ構造です。これは同じ設計者、新村さんの手によるものだから、という面もあるかもしれません。

ちなみにホンダのチームは2バルブのRC141というエンジンを日本から持って行ったのですが、ヨーロッパ勢の高馬力エンジンを見て驚き、あわてて日本からDOHCの4バルブのヘッドを取り寄せて現地で改造このRC142にしています(ただし5台全部は間に合わず3台だけ改造)。この4バルブヘッドは船便では間に合わない、という事で社員が手持ちで航空便で運んだとされますが、これはホンダの得意技で後のF-1でもよくやってますね。

初期の二輪GP監督は例の二代目社長の河島さんですが、エンジンの設計は直接手がけてはおらず「やりたいやつは手を上げろ」という事で車内から人材を引っ張って来て彼の指揮の下で開発チームを組んでます。この結果、監督の河島さんを含め、ほぼ全員が20代の若手というメンバーでしたが、この辺りは本田宗一郎総司令官の意向でもあったと思われます。
その中の一人が、後の三代目社長の久米是志さんでした。1960年以降の125tエンジン設計はこの人の担当となってます。その後に乗用車部門へ転属、ホンダ初の市販四輪車のエンジン設計を手掛けた上で、前回見たようにF-2エンジンで今度は四輪のGPチャンピオンを取る事になります。

ちなみにもう一人のエンジン設計担当が新村公男さんで、この人は1960年以降は250tのエンジンを担当、後には1500t F-1エンジンの設計責任者も務めた人物です。この方も後にS-500に繋がる四輪部門のエンジン開発を担当したようです。
とりあえず久米さん、新村さん、ともにバイクでも四輪でも世界GPで優勝したエンジンを設計した事になります。久米さんは後に社長になってますが、世界中探してもこういった経歴を持つ大企業社長は珍しいんじゃないでしょうか(ちなみに久米さんはあの空冷3000t F-1エンジンの設計もやったが、こちらは当然のごとく未勝利で終わった)。

ついでに、このホンダの世界GPでの活躍はニュース映画で全国に報道されホンダの知名度向上に大きく貢献しました。これを見て感激した多くの若き技術者がホンダへと集まり(後のF-1大将にして四代目社長の川本さんもその一人)、この人たちが後のホンダを支えることになりましたから、この世界GP参戦は予想以上の対価をホンダにもたらした事になるのです。



幻のホンダの四輪一号車、S360。ちなみにこれもレプリカですが、現地の解説板でも復刻車とちゃんと書かれてました。
軽でツーシーター、そしてオープンカーという野心的な車であり、エンジンはホンダらしい356t(当時の軽の規格は360t)ながら当然4サイクル(当時の軽自動車はバイクのような2サイクルが普通だった)、DOHC4バルブを採用して9000rpmで33psまで出る、というものでした。
1962年6月に鈴鹿サーキットでお披露目され、本田宗一郎総司令官が自ら運転してデモ走行までしてます。当時、すでに日本を代表するバイクメーカーの一つとなり世界GPレースにも連勝していたホンダのスポーツカーとして、大きく注目されたようです。

ただしホンダとしては最初から輸出を前提に考えていた事、例の特振法案対策で軽ではない500ccクラスの車の方が既成事実として得策とされた事、さらにお役所と対立していたので軽らしからぬスポーツカーでは形式認定が下りない恐れがあること、などの理由で最終的に生産には至りませんでした。ただしその一部と言うかエンジンが意外な復活を遂げます。これはまた後で。

ついでにホンダは四輪に参入した時、軽トラックとスポーツカーをほぼ同時にデビューさせていますが、これは技術部門の長で社長の本田宗一郎総司令官はスポーツカーを、営業のトップで専務だった藤澤からは軽トラをやれ、とそれぞれ言われて困った結果、最終的に両者ともに採用したからだそうな。

この車の開発も例の特振法案対策の“既成事実造り”のためかなり無理なスケジュールで行われ、設計開始から実質4カ月半で試作車を造り上げたとされます。
ちなみにこれも有名な「一般車が消防車と同じ赤色を使ってはならない」という当時の法律を変えるきっかけになった車でもありました。当初の試作車は真っ赤に塗装されており、そのまま販売できるようにホンダの担当者が運輸省と交渉を重ね、ようやくその許可を得たのです。結局、S360は発売されたなかったものの、以後、赤い一般車も普通に市販できるようになったわけです。



360ccの軽自動車としては意外に広い運転席という感じがします。
オープンで窓枠も細いため、車内のミラーがダッシュボードの上にあるんですが、これ、後ろ見えたのかなあ…

後輪駆動のFRですから運転席と助手席との間には凸部が存在し、その中にギアボックスがあり、当然その後ろはドライブシャフトが入ってます。が、さらにその後ろ、デフの左右にはチェーン駆動部があり、これで車輪を回す、という妙な構造の車となってます(S-500も同じ構造を持つ。発案者は本田宗一郎総司令官)。この辺りの構造は言葉での説明は難しいので、興味のある人は各自調べてみてください。

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