入口ホールの右手にあるのがホンダの歴史と伝説といった内容の展示室。
ここにも興味深いものがいくつかありましたが、ご覧のように平日の午後3時過ぎは閑散としており、唯一左手に見えてる見学者は同行のダメ人間兼コック。



そこで展示されていたレーシングカー、カーチス号。
東京の本郷区湯島に在った自動車修理工場、アート商会が造ったもので、1924年11月23日の第5回日本自動車競争大会で優勝した車でした。車体は当時のアメリカ製レーシングカー、ミッチェルの流用との事ですが詳細不明。

なんの説明もなしに走行可能、と書いてあったので一瞬、オリジナルかと思ってしまいましたが帰宅後に確認したら1981年ごろに制作された復元車でした。まあ、そうだよね。
ホンダコレクションホール、展示内容は間違いなく一級品なんですが、解説板がかなり適当、かついい加減で、この点は少々残念でした。

本田宗一郎総司令官はアート商会に奉公に入って2年目ながら、このレーシングカーの制作を手伝い、さらに機関士と言う名目で車の整備を理由に助手席に乗って参加していたそうな。なんで整備をするのが機関士で、それが助手席に乗るのかよく判りませんが、当時はそういうものだったのか。

ちなみに後に1928年、のれん分けの形で本田宗一郎総司令官は地元の浜松にアート商会浜松店を開業しており、これが彼の経営者としてのスタートでした。ただし戦争前の1937年には修理業なんかいつまでやっていてもつまらん、ということで別の会社、東海精機重工業(ピストンリングの製造を中心とした会社だった)を始めちゃうんですけどね。ちなみに本田技研工業の設立はさらにあと、戦後の1946年です。

余談ですがアート商会は本郷区(現在の文京区東部)の湯島五丁目にあったとされ、あれまウチの近所じゃんと、昔いろいろ調べてみた事がありました。関東大震災前の東京の地名は今と全く異なるので注意が必要でして、現在の湯島とかつての湯島は全く別の場所となります。震災前の湯島は御茶ノ水駅の向い側あたり、五丁目は現在もある順天堂大病院の辺りで当時は都電の湯島五丁目駅がありました。
五丁目は狭い上に昔から順天堂大病院がその大半を占めていたのでアート商会の場所の特定は容易で、現在の順天堂大病院の裏、本郷通り沿いの辺りにアート商会はあったと考えてほぼ間違いないと思います。
ちなみにこのアート商会、関東大震災後は神田駅周辺の赤レンガ高架線下の一角に引っ越したようです(宗一郎総司令官は両者にて仕事の経験あり)。

なので宗一郎さん、戦後に本田技研工業をレースに巻き込むにあたり技術力の育成うんぬんとか言ってますが、所詮は後付けのどうでもいい理屈に過ぎず(笑)、あの方はこの時代から死ぬほど自動車レースが好きだったのでした。

とりあえずボンネットが皮のベルト留めってすごい構造ですよねえ…。
ドライバー席の前に縦置きになってる黒い板状のものはオイルクーラー、ボンネットの左右に出っ張ってるのはエンジンのシリンダーヘッド部の出っ張りを収容するためのもの。

なんかエンジンがやけに大きくない?ボンネット周辺がグリフォンエンジン積んだスピットファイアみたいな構造になってるじゃんと思いながら、解説板を見ると、エンジンはカーチスOX-5だとか。あ、それでカーチス号か、なるほどね………いやそれ第一次大戦期の航空用エンジンじゃねえか、おい。



アメリカ空軍博物館で展示されていたカーチスの液冷V8航空用エンジン OX-5。
V型8気筒エンジンですから、V8エンジンと言えばV8エンジンですけど、全長1.44m(シャフト部含む)、乾燥重量で177sのエンジンを車に積みますか…。

さすがに展示のレプリカでは別のエンジンを積んでると思われますが、確認はしてません。



このエンジンは写真の第一次大戦期におけるアメリカ製の練習機、カーチスJN-4 ジェニーなどに積まれてたもので第一次世界大戦後、軍から大量に民間に払い下げられ出回りました(ホンダのホームページだとA-1複葉機から取ったとされるが少なくとも私はそんな名前の機体にOX-5が積まれたという話は知らない)。が、どういった経路で日本のアート商会に流れ着いたのかは謎です。

アメリカやイギリスでは航空用のV形エンジンを車に積んでるの見た事ありますし、バイクにまで積んだアタマのネジが吹っ飛んだ奴もいたらしいですが、大正の日本でやっちゃうとは…すげえな、アート商会&本田宗一郎総司令官。

排気量8200t(503 in³ )、通常出力で90hp(1400rpm)、チューンすれば105hp(1800rpm)まで出たとされ、当時の一般的な自動車、T型フォードが2900cc(177in³ )で20hpだったことを考えれば、まさに化け物級のエンジンだったわけです。
ただし航空機用のエンジンですから高回転では回せません(プロペラの回転速度が850q/h前後を超えると翼面上衝撃波で推力を生まなくなるから)。よってトルク(力)は大きくても回転数(力の使用速度。通常はエンジンの力をタイヤの回転数へ変換する効率と思っていい)は低く、チューンされた状態でも1800rpm(1分間に1800回転)でしかありません。

高馬力(馬力=トルク×回転数)と言ってもトルクが大きく回転数が低い形態なので高速が必要なレースエンジンには向いてない気もしますが、それでも滅茶苦茶な数字ですから、当時の日本では敵なしだったのかも。この時代は力がモノを言うダートコースですしね。

ちなみに後に1932年にデビューとなる有名なフォードのV8エンジン(アメリカ人のV8エンジン信仰の教祖である)は2800rpmまで回せ、OX-5の半分以下、約3600ccの排気量でほぼ遜色のない85hp出ました。つまり高回転によって、はるかに効率よく高速が出せたわけで、やはり航空エンジンは単純に高速を目指すだけなら不利でしょう。

そしてトルク(力)は強烈ですから、ギアとかクラッチとかどうしてたんでしょう。自前で造ったんでしょうが、当時の日本の町工場レベルではかなり難しかったはずで、しょっちゅう壊れたんじゃないかなあ。ついでに後輪を駆動するので航空機とは前後逆に積む事になり、吸気とか大丈夫ったのか、と思っちゃうところですが、優勝しちゃってるんだからなんとかなったんでしょうね。



本田宗一郎総司令官が戦後の1946年に本田技研工業を立ち上げた後(1948年9月に株式会社化)、主力商品となったのが既成の自転車に後付けで載せる小型補助エンジンでした(当時は無免許で乗れた)。いわゆるバタバタです(ホンダというか浜松周辺ではポンポンと呼んだらしい)。
当初は旧陸軍が使っていた三国商工製の無線用発電エンジンを大量に買い付け(500基前後とされる)、これを改造して販売していたのですが、エンジンの在庫が無くなればお終いで、売れ筋商品である以上、新たに自社でエンジンの設計開発をする必要に迫られます。

そんな中で最初に造られたのが展示の試作エンジンとなります。ただし市販はされずに終わってます。
売るのはあくまでエンジン回りだけなので、試作車ではガソリンタンクを湯たんぽで代用してますが、後に実際に市販されたホンダ A型エンジンでは専用の燃料タンクも同梱されていました。ちなみにこれも展示には何の説明もありませんでしたがレプリカです。

2サイクル50tですが、ピストンが普通の円形ではなく、真ん中に細い筒が飛び出て横から見ると凸型という特殊なものとなってました。これで2ストエンジンとしては優良な燃費を実現しようとしたものらしく展示には図解もあったのですが私にはよく構造が理解できなかったので解説はしません。

ちなみに基本的な構造のアイデアは宗一郎司令官によるものですが、後の二代目社長にして最初の技術者(浜松高等工業学校、現静岡大学工学部卒でキチンとした力学の勉強をした最初の社員)、河島喜好さんがこの前年、1946年に入社してますから、実際の設計は河島さんだと思われます。

ついでに本田技研工業では1950年ごろまで定期的な社員採用は無く、必要があれば人づてに紹介してもらう形だったとされます。面接らしい面接も無く、本田宗一郎司令官は会って話をして気に入ると「明日からおいで」の一言で決定してしまっており、河島さんもその一人でした。ついでに、翌日が休日だろうが「明日からおいで」と言うらしく、一部の人は混乱したそうな。

それでも本田宗一郎総司令官の人を見る目は確かでしたから、この時期に河島さんを始め、後にホンダの基礎を築く多くの人材が入社してます。ちなみに、この時期のホンダはまさに自転車操業状態で、給料の遅配もあり、いつ倒産してもおかしくないと思われていたそうな。このためか、優秀な人材には株を譲渡して引き留める、という1970年代以降のアメリカのような事をすでに宗一郎司令官はやってました。スゴイ人なんですよ、ホントに。



ホンダ最初の完成品製品、1949年8月発売のドリーム号D型。2サイクル、98tで3psとやや心もとないエンジンですが、当時としては十分だったのでしょう(今さらだが同じ馬力の量でもhp(インチ式)とps(メートル式)では微妙に量が異なるがここでは資料ごとの表記に従う。といっても差は1.5%以下だから100馬力以下なら誤差の範囲)。

最初の製品がいきなりD型なのは例の後付け自転車用エンジンなどでA型からC型までの型番を既に使ってしまっていたから。まあ、単なるドリーム号でいいんじゃないか、という気もしますが…
(自転車への後付けエンジンがホンダA型、製品化せず試作で終わった96tの小型オート三輪がB型、後付けエンジンだけでなく車体フレームまで組み込んだ96tのエンジン付き自転車がC型で、これも試作で終わった)

ついでに製品にA型からの連番で型番を付ける、というのはアメリカやドイツの軍用機ではお馴染みの命名法で、飛行機好きの本田宗一郎総司令官はこれを知っていてやったんじゃないかと思います。ちなみにD形だからドリーム号なのか、と思ったら名付けの親の本田宗一郎総司令官が「なんでドリーム号にしたのか忘れた」と証言しているため、謎となってしまっています…

このエンジンも後に二代目社長となる河島さんの設計。独特の形状の車体は生産性を考慮した鋼板プレス加工の簡易フレームで、鋼管を溶接して組み上げられた他のバイクより製造工程が簡略化されてました。
意外と知られてませんが、本田宗一郎総司令官は、フォードの大量生産方式が根付かなかった日本で、戦後、真っ先に生産の効率化に取り組み、コンベヤラインによる流れ作業を取り入れた一人だったります。単なるレース好きの社長じゃないのです。
ついでにクラッチ無し、ハイ、ローの二段だけのギアを足だけで操作できるようになってるなど、いろいろホンダらしい工夫もしてありました(ただしこのギアは操作性に問題があり不評だった)。

ホンダ期待の新製品だったのですが、1949年はアメリカ占領軍が金融引き締め政策、あのドッジ ラインを実施して強烈なデフレが発生、いわゆる安定不況に突入する事になった年であり、このためこのドリーム号は予想したほどは売れませんでした。
そしてその結果訪れた経営危機において、辣腕経営者、藤澤武夫が常務取締役としてホンダに招き入れられる事になります(直後の100万円資本金増資に自ら25万円を出しているから最大株主の一人でもあった)。これをもって後にホンダにおいて技術の本田、経営の藤澤と呼ばれる名コンビの誕生となったわけです。

この藤澤さんの手腕によって、走り出したばかりのところでいきなり転倒した本田技研工業は、なんとかその体制を立て直します。ちなみにこの時期のホンダの経営はいろいろ言われてますが、藤澤の商才もあったものの、1950年に始まった朝鮮戦争に救われた、という面も強く、米軍から大量の2サイクルエンジンの発注を受け本田技研工業は息を吹き返したようです。ちなみにホンダがその活動拠点を地元浜松から東京に移したのも、この1950年末でした。

藤澤は東京の小石川区(現在の文京区の西側)の出身で、すなわちアート商会から歩ける距離に住んでました。1910年産まれですから、本田宗一郎総司令官が湯島のアート商会に居た頃には近所で生活していたはずで、そこら辺りで共通の“出身地”を持っていた事になります。ついでに戦中、中島飛行機相手に商売してた、というのも共通してます。

もっとも、それ以外の面では全て正反対に近い二人であり、両者が手を組んだのは「こっちの持っていないものを、あっちが持っていたから」なのでした。
ただし、両者とも人の能力を見る目は確かでした。これは人間が最も手に入れにくい能力の一つですから(そんなものがあるとすら知らないまま人生を終える人が7割だろう)、その才能で適材適所の人材配置と後継者の育成を行い、20世紀一杯は二人によって見出された世代によってホンダは大きく躍進する事になります。

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