2輪レーサー RC143。

ホンダが初めてバイクの世界選手権(WGP)の全戦に参戦した1961年、その第一戦のスペインGPにおいてトム・フィリスがホンダにGP初優勝をもたらしたマシンです。
ちなみにスポット参戦(特定のレースのみに参加)はその2年前の1959年、有名な本田宗一郎総司令官の参戦宣言で知られるマン島TTレースから始まっていましたが、まだ未勝利のまま1961年のフル参戦を迎え、その第一戦で優勝してしまったのでした。

RC143はそもそも前年、1960年用のマシンだったのですが新型のRC144の開発が遅れ、1961年の初戦にも投入されたもの。が、トップ走行していた別チームのマシンがリタイアしたのにも助けられ、ホンダのWGP初優勝車になったのです。
ちなみに1961年に投入予定だった新型RC144はトラブル続きで最後まで完成せず、最終的にフレームだけを流用、このRC143のエンジンを改良して搭載した2RC-143という変な名前のマシンでこの年の125CCクラスのGPを戦い抜く事になります。それでも11戦中8勝という圧倒的な強さを見せてタイトルを獲得、さらにこのマシンに乗ったフィリスも最終的に4勝を挙げ1961年の125ccクラスチャンピオンになっています。

ちなみにホンダは同時参戦した250ccクラスでも圧倒的な強さを見せ、1961年は11戦中10勝(しかも第3戦以降表彰台独占を9連続達成)という偉業を成し遂げました。ホンダの二輪レーサー開発は1959年のマン島TTレース参戦から始まり、それはわずか2年で圧倒的な力で世界制覇をするほどのものになったのです。そしてこの1961年に本田宗一郎総司令官の悲願、マン島TTレースでもホンダが初優勝を果たす事になるのですが、この点はまた後で。

とりあえず日本の技術が初めて世界に通用した年がこの1961年であり、それを成し遂げたのが本田宗一郎率いる本田技研工業、すなわちホンダだったと考えていいように思います。
ただし後にこの経験を基に1964年から自信満々に四輪のF-1GPに参戦したホンダは大いに苦戦を強いられることになりますが…。

ちなみに最初のホンダ2輪GPチームの監督は1973年に本田宗一郎総司令官の跡を継いで二代目本田技研工業(ホンダ)社長となる河島喜好(きよし)さんでした(後に1966年イギリスGPの一戦だけ第一期ホンダF1の監督もした)。
さらにちなみに、その次の三代目社長の久米 是志(ただし)さんも当初二輪GPのエンジン開発チームに在籍していた人です。さらに後に伝説的な強さを誇ったホンダの第一期 F-2全盛時代(1966-67)のブラバム・ホンダF2チームのエンジン設計担当者となり、同時にホンダ側の責任者を務めた人でした(66年第三戦まで。この年ブラバム・ホンダはヨーロッパF2で12戦中11勝)。
その次の四代目社長 川本信彦さんは久米さんの下でF-2エンジンの改良を担当した後、その後を継いで責任者に就任、さらに第一期ホンダF1最後の3000tエンジンの設計を担当し(後にイタリアGPで1勝をあげる)、その後ホンダの黄金期、第二期F1参戦を主導して最初のエンジン設計と初代監督を務めた人物となっています。

つまりホンダの社長は第四代目までレース責任者を経験した人物が続いたことになるわけです。
五代目以降の社長はレース監督以外が続いてますが、それでも六代目の福井威夫(あの福井静夫さんの三男である)さんは、バイクのGPマシン、NR500やNS500の開発責任者でしたから、2019年までのホンダ全8人の社長のうち、レース関係者で無いのは3人だけなのです(本田宗一郎総司令官は国内レース時代にさんざん参戦済み)。

さらに言えば未だに全員が技術者出身、すなわち理系社長であり、中でもエンジン開発担当者が多い(8人中6人)というのもまた特徴となっています。エンジン屋がこれだけ社長を務めた世界的企業は他にあまり無いでしょう。しかもその内二人(久米、川本)は国際レースで優勝したエンジンの設計者なのです。
そしてエンジン部門以外出身の最初の社長、七代目伊藤社長が現在に至る最悪のホンダを造ってしまった事を考えると、なるほどホンダというのは人も物もすべてエンジンの会社だったのだなあ、と改めて思ったりもします。



ホンダF1第一期2年目、1500cc世代の二代目マシン、ホンダRA272の1965年最終型。すなわちホンダF-1初優勝マシン。
以後、シャシーまで全ホンダのマシンは一勝もできなかったので、唯一のオールホンダ製で優勝した車でもあります。
今のF1と違ってダウンフォース(下向きに車体を押し付けてタイヤのグリップを得る)を稼ぐウィングはないし、車体の正面に穴まで開いてますが(ラジエターが入ってる)、れっきとしたF1マシンです。

海老沢泰久さんの「F-1地上の夢」を読んだことがある人なら大興奮ですな。あの本は、めちゃくちゃな情報量なのに、あまりに面白くて三日ぐらい徹夜して読んでしまう内容なので、未読の人は注意の上で読んでみてください。
私、この世代のホンダF-1の実車を見るのは初めてなので狂喜乱舞でございました。

1965年の最終戦、そして1500tエンジンF1の最終戦(翌1966年から3000tに移行)でもあったメキシコGPで優勝したのがこのRA272。ただし展示の車体は優勝したギンザ―のものではなく、メキシコでは5位入賞となった同僚、バックナムのもの。
ちなみにRAというのはRacing Automobileの頭文字らしいです。

このメキシコGPは第一期ホンダF1チームを率いた中村監督による初勝利でしたが、実は彼はこの年、直前のレースまで監督を外れており、最後に志願してメキシコに乗り込んでの優勝でした(ちなみにホンダと同時に使用していたグッドイヤータイヤにとっても初勝利)。
当時、前年のデビュー年が不調であったのと現場介入を繰り返す本田宗一郎総司令官と衝突しまくったことで彼はF1チームの監督を一度解任され、国内で新車開発の責任者となっていたのです。が、F1チームはさらに混迷、先に見たように後の社長である河島さん(当時の開発部門で宗一郎司令官に次ぐ地位にあった)まで監督に引っ張り出されたのに調子が出ず、最後の三戦、イタリア、アメリカ、メキシコGPでは再び中村さんに監督就任の指示が出ていました。ところが解任に激怒していた中村さんはこの要請を拒否してしまいます(ちなみアメリカGPは本田宗一郎が第一期F1で唯一視察に行ったレースだったが惨敗)。会社の命令を拒否してもクビにもならない、というのが当時のホンダのすごさかもしれません。
ついでながら、後の社長、久米さん、川本さんも会社に不満で一か月以上出社拒否をした事があり、それでも両者ともクビにもらならず、それどころか最後は社長にまでなってしまったのでした。スゴイ会社だなと思います。

そんな状況でしたが、とにかく混乱に混乱を重ねるホンダF1チームを見て1500t最後のメキシコGPだけは自分が見る、とようやく中村さんは監督に志願して復帰、そこでいきなり勝利してしまったのでした(ドライバーはリッチー・ギンザー)。よく言われるように高地レースで空気が希薄だったため、戦中に航空機エンジンの開発を経験していた中村さんの知識が生かされた結果です。それに加えてまだ3回目のメキシコGPだったので、他のチームもろくにセッティングデータを持っていなかったのが幸いしたのだと思われます。

ちなみに優勝に驚喜した中村さんは以前から決めていたカエサルの名文句、"Veni Vidi Vici" (来た、見た、勝った)をラテン語のまま打電したため(まだ国際通信は電報だった)、理系ばかりの朝霞の本田技術研究所では誰も意味が分からず、優勝したのだ、と判明するまでしばらく時間がかかったと言われてます(笑)。

ホンダ初の市販四輪車、軽トラックのT-360発売が1963年8月、対してF-1発参戦が1964年7月31日のドイツGPですからホンダはトラックで四輪市場に参入したわずか一年後にいきなりF1GPに参戦(ただし参戦初年の1964年はドイツ、イタリア、アメリカGPの三戦のみで走った)、そしてその翌年には初優勝してしまったのです。恐ろしいな、という他に無い技術力とレースにかける執念でしょう。

そもそも当時のホンダ四輪部門の開発責任者 中村良夫は勤務していたオート三輪会社のクロガネが倒産後、1958年にホンダに移籍する時に「F-1をやるならホンダに入ります。やらないなら入りません」と宣言、それを受けた本田宗一郎総司令官は「会社はどうだか知らねえが、俺はやりたいと思ってるよ」と答え、そこで中村のホンダ入りが決定した、という経緯があったのです。
どいつもこいつもレースに参加して勝ちたくてしかたない、といった連中が集まっていたのが当時の本田技研工業の四輪部門だったとも言えます。

ただし社長の本田宗一郎総司令官は熱力学をキチンと学んだことが無いので(自分で勉強そのものが嫌いだと認めてる)、カンと経験の技術者であり、バイクの4サイクル250tエンジン位までがその限界でした。F-1参戦、さらには市販車の1000CC以上のエンジン開発といった部分では、過去の成功経験に縛られた時代遅れの発想と、その独裁的な立場からの開発現場への介入がむしろホンダの足枷とでも言うべき存在になってしまうのです。

ちなみにこの時代のF1マシンはカーボンなんてありませんから、シャシー(車体)部は軽量金属の総アルミ製が普通であり、溶接が困難なので第二次大戦の戦闘機のように枕頭鋲によるリベット止めになっています。
が、ホンダは単なるアルミではなくより強度のあるアルミ合金であるジュラルミンを最初のマシン、RA-271で使用しF1GPに殴り込みます(ただしフロント周りのカウルは樹脂製、車体内部の隔壁は鋼製)。ちなみに一部のパーツには削り出しのチタンまで使ってました。しかも当時まだ新しかったモノコックシャシーにまでホンダは果敢に挑戦しています(パイプで単純で頑丈な箱型フレームを組み、これに強度を維持させた上で薄い外板を張りつけるのが従来のパイプフレーム式、対して実際の形状に近い骨組を造り、そこに厚めの外板を張って全体の強度を維持するのがモノコック式。強度、重量(同じ強度を維持するなら)ともに後者が有利だがより高い技術力が求められる。この辺りは第二次世界大戦直前の航空機の進化にそっくりである)。

が、ジュラルミンの加工はそれなりのノウハウが必要なのに当時にホンダにそんなものがあるわけがなく、結局肝心の強度は劣り、アルミよりわずかに重くしかもベラボーに高価というシャシーになってしまいます(後に強度確保には成功したが今度は硬くて加工できないという問題が発生、それなら元のままでいいとなってしまったらしい)。
シャシー開発担当者、佐野章一さんの証言によれば本田宗一郎総司令官による「航空機はジュラルミンで造られてる。ジュラルミンの方がいいに決まっている」の一言によってこの方針が決まったのだとか。結局、これでホンダのF1チームはいらん苦労を一つ背負い込むことになりました。
ちなみに展示のマシン、参戦2年目のRA272からはさすがに耐食アルミ製に変更された、という資料がありますが設計者の佐野さんはRA272もジュラルミンを使った、と証言しているので、このマシンもジュラルミン製の可能性が高いです。

ついでにリベット打ちの技術もホンダにはなく、このため調布飛行場にあった伊藤忠航空整備にその作業を依頼したのですが、表面はキレイに枕頭処理されていたのに、胴体内側は出っ張ったままなのを見た本田宗一郎総司令官は手抜きだと怒り、作業が一時中断してしまったそうです。
設計の佐野さんが間に入って、胴体内側は空力に影響がないんだからこれでいいんだ、と言っても納得せず、結局、後日、本田宗一郎総司令官が見学に来なかった日にこっそり全作業を片付けてしまったのだとか。

以後、ホンダのF1はこういった本田宗一郎総司令官の非論理的としか言いようが無い横やりに悩まされ続けます。その最終終着点が3000ccエンジン参戦最後の年の“空冷エンジンのF1マシン”で死者まで出す悲劇を引き起こすのですが、この話はまた後で。



RA272は総ホンダ製マシンであり、当然エンジンもホンダ製。
というよりエンジンが主で当初はエンジン供給のみで参戦予定でした。
が、参戦直前、それまでチームを組む予定だったロータスの責任者のチャプマンが突然、ホンダを裏切ってコベントリー・クライマックスエンジンの搭載を決めてしまい、せっかくのエンジンは宙に浮いた存在になってしまいます。
が、レースがしたくてたまらない本田宗一郎総司令官は、だったらシャシーもてめえで造ればいい、と全ホンダでの参戦を決定、これまたレースがしたくてしかたなかったF1マシン開発責任者の中村さんもこれに乗ってしまったのでした。有名な電報文「ホンダはホンダの道を進む」はこの時、中村さんがチャプマンあてに送ったものです。

ちなみに1500tながらV型12気筒(気筒1本あたり125cc…)、しかもDOHCで4バルブ、12000rpmまで回って(14000でも大丈夫だった説あり)最終的には230馬力を出した、というスゴイしろもので、数字だけ見れば十分に世界レベルのエンジンでした。ただしこの凝った設計のために大幅な重量増を招き、他のメーカーのF1エンジンに比べ当初は30s近く重かったと言われています。
この馬力はあるけど重い、は最後まで第一期ホンダF1に付きまとった問題でもありました。

このエンジンはそれでまで国際レースで十分な成績を残していた二輪のレース開発部門が担当してました。1500tで12気筒というのも、彼らが得意としていた一気筒125t×12=1500tという単純な計算から出たものだったという説があります(ただしこの話はやや怪しい。当時のホンダ2輪レーサーは小排気量なのに多気筒が特徴で、125ccで4気筒、250tに至っては6気筒エンジンで1気筒125tなんてエンジンは無かった)。

先にちょっと説明した久米さんのF2用傑作エンジンが登場後、F1のエンジン開発も四輪部門に移るのですが、当初はすでに世界を制覇していた二輪レーサーの開発部門が鼻息もあらくF1にも参加していたのです。
このため、二輪車のエンジン設計手法がそのまま持ち込まれるという前代未聞のエンジンとなり、シリンダーケースは横置き、当然、クランクケースも横置きとなります。が、これではその後ろ(というか構造上横になる)に並べてギアボックスが置けないので、二段構造にして、シリンダーケースの下、やや手前に出っ張った下段に横並びに収めました。さらにエンジン本体とギアボックスは一体型で分離不能となってます。この辺りの構造は2輪の成功で自信満々だった本田宗一郎総司令官の意向だった、という話もあります。

が、この構造が後に整備性の悪化で大問題となります。例えばギア比を変える、あるいはギアが摩耗したので変える、という場合通常のF1マシンではエンジンの後ろに直結されてるギアボックスを外して蓋を開ければ済んだのが、ホンダではそのたびにただでさえ重いエンジンを降ろし、全部を分解したうえでギアを変える、という手間がかかる事になります。

V12の横置きレイアウトですから、エンジンの横幅がデカいので、車体後部の左右に空間が全くない状態になってしまいました。それどころか普通にシャシーを組んでいたら後部だけが大きく左右に張り出してしまう事になります。このため車体後部のシャシーは取り払われエンジンのみが置かれる構造となります。すなわち前半のシャシー後部に懸架式にエンジンが直結され、そのエンジンに直接サスペンションの支持部を取り付ける、という構造になってました(車体横に四本の支柱が後ろまで伸び、これでエンジンとサスペンションを支えた)。
これは第二次大戦期のエンジンの取り付け方を参考にした、という事ですが、さらに車体後半部の強度維持をエンジンが担う構造だったわけです。



1500t時代のホンダF1が、V12エンジンなのに運転席後ろのエンジン部が妙に短いのは横置きレイアウトだったから。そして運転席後部の車体横から片側二本の懸架支持棒がタイヤ脇のサスペンション構造に伸びてるのが判るかと。

そして先に説明したように、当時のホンダはそもそも四輪の設計経験が無かったので全て手探りでした。
シャシー設計は四輪部門の担当だったので、これがデビュー作だった入社4年目の若手、佐野章一さん(東大の航空学科出身だったのでアルミモノコックボディに適任とされた)、サスペンションなどの足回りは日野自動車からF1がやりたくて移籍してきた武田英夫さんが担当したのですが、実際の四輪設計経験者は武田さんなどごく少数で、このため基本中の基本の研究から開発が始まっています。

よって四輪設計では常識とされる事すら議論の対象になり、ある日、車体の剛性は強い方がいいか弱い方がいいか、という問題が話し合われました。車体の剛性が低いとカーブなどで歪んでしまい、そこに繋がるタイヤを支えるサスペンションがきちんと働かなくなりますし、大馬力の車なら車輪が摩擦で車体を前に押し出すときも、その力の一部が前進にではなく、車体の変形に消費されてしまい不利です。
設計者なら常識の範疇でしたが、ホンダF1の設計中にこれが検討されると、驚くべきことにシャシーの剛性は低い方がいいと主張する連中が議論に勝ってしまい、数少ない実務経験者だった武田さんなどはあわてて止めに入ったそうな。

そういった中で参戦二年目にして戦前からレースに明け暮れていた連中相手に一勝をあげてしまったんだから、当時のホンダ、おそるべしでしょう。

といった感じで、まだ入り口ホールに入ったばかりですが、とりあえず今回はここまで。
まだまだ続くのであります。


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