■国宝たまうどぅん



とりあえず首里城前の交差点を那覇側に横断、そのまま西に迎えば玉陵らしいので、そちらに向かいます。



おお、ここだ。
ちなみにずっと玉陵と書いて“ぎょくりょう”と読ませるんだと思ってたんですが、
この入り口の看板を見て、たまうどぅん、と発音するのだと知る。
あれ、さっきのお店の人、ぎょくりょう、で普通に対応してくれてましたが、
みんな同じような間違いをするのでもう慣れてるのか。

ちなみに沖縄地区では“うどぅん”という発音には「御殿」の字を当てるのが普通で、
陵の字を当てるのは珍しいでしょう。
ここら辺りは中国語から来てると思われるので、玉陵なら身分の高い者の美しい墓の意味、
発音の通りに玉御殿の意味なら、美しい屋敷の意味で両者は内容が異なります。
実態はあきらかに前者ですから、たまりょう、で読みはいい気がするんですけどね。



そこからゆるい石段を登ってゆく。左は後付けの車椅子用スロープ。

周辺は普通に住宅街なんですが、
この一帯は旧王家の人々、そしてその周辺の特権階級の皆さん、
いわゆる親方(ウエーカタ)、親雲上(ペーチン)の皆さんが土地の所有者だった一帯で、
今でもその子孫の方が多く住んでいるとされます。
こうした人々は首里人(現地読みではスインチュ)と呼ばれるようです。

でもって、何がスゴイってこの人たちのプライドで、
韓国人に今でも貴族階級、両班(ヤンパン)出身を自慢にする人が居るように、
この地区でもその出身階級を未だに誇る家がいらっしゃるそうな。

実際「戦前の首里は首里人(スインチュ)によるエリートの街でした」
と真顔で語ってる人を見たので、本気なのでしょう。
ちなみに数字の出どころが不明ながら、首里振興会という組織が公表してるデータによると
現在の首里一帯の人口は約6万人、今でもその半分が旧王朝時代からの首里人なんだそうな。

ついでながら沖縄で古い血筋を誇る人々に、もう一つ、那覇の海沿いの一帯、
久米地区に住む久米村人(クニンダンチュ)という集団が居ます。
こちらは琉球王朝が明に朝貢した見返しに渡来した中国人(福建人)の技能集団の末裔さんとされます。
(ただしこれを裏付ける資料は中国側には無い。よってだたの商売人が土着後、
中国皇帝公認を勝手に自称した可能性もある。大和朝廷の秦氏のような感じだろう)
沖縄の建築や風習に強い中国文化、道教の影響が見られるのは恐らくこの人たちが原因です。
そして後に琉球王朝で高い地位に就いた人が多いため、この人たちもまた、その血筋を誇ります。

ちなみに今回お世話になったK山さん、
そして次の2019年3月の訪問で今帰仁城において少し話をした地元の人、
どちらも首里人、久米村人の話題にはあまり良い反応が無く、
ああそういった人たちなのか、と思う。

なので、那覇と言うのははどうも南の京都じゃないか。、
やたら革新系の首長が当選してるし、と私は思ったのでした。



その先にあった建物。
これは入場券売り場と事務所と博物館を兼ねた建物でした。
尚王家(厳密にはそれを乗っ取ってしまった第二尚家。倒した王家の名をそのまま引き継いだ)
の墓所ですから、尚さん一家の私有地であり、戦後、1974年から行われた大規模修復は、
当時の尚家の当主の方が自腹で行っています。
ちなみに修復後、1992年にこの玉陵は那覇市に寄贈され、現在は市の管理下にあるようです。

ついでながら、その尚家が戦後、沖縄に寄贈した尚家文書が沖縄初の国宝であり(2006年指定)、
この玉陵が建築物として初めての沖縄の国宝なので、王家の影響、
未だ偉大なり、というところでしょうか。



建物内部。地下が博物館です。


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