■これもグスク



グスクの周囲はお墓が集まっており、この地域の集団墓所のような感じでした。
これは中でも古い感じの一つですが、漆喰ではなくコンクリート製に見えるので戦後のものかもしれません。

沖縄の場合、血縁の一族意識が極めて強く、
家族どころか村中の一族郎党が同じ墓に入る事も多いようです。
そして火葬でもなく土葬でもない、自然の腐敗に任せて白骨化させてから埋葬する風葬だった上に、
洗骨と呼ばれる一定の時間ごとに遺骨を洗う風習があったため、
墓の内部はかなり大きくなりました(写真のものだとおそらく中に部屋がある)。
このため日本の本土とはかなり異なる墓所となっています。

この形状は中国南部の影響と言われ、実際、似たようなお墓は中国にもあります。
やはり葬式から後、死後の営みは中国の儒教文化の影響下にあったような感じですね。

こういった丘陵の横穴を利用し、そこに円形の屋根と門を付けた墓所は亀甲墓(カーミヌクーバカ)と呼ばれ、
琉球王朝時代には士族にしか許されていない形式でした。
が、これも家屋の瓦屋根と同じく、明治(厳密には廃藩置県の明治12年 1879年以降)には
一般にも解禁され、各地に広まりました。
コンクリート製に見えるものが多いのは、現在の亀甲墓の多くは大正、昭和以降に造られたものだからです。

で、ご覧のように石やコンクリート製の壁に囲まれ、奥は石室になっているため、
沖縄戦では、日本軍が機銃陣地などとして利用しました。
このためアメリカ軍は当時の墓地をしらみつぶしに叩きながら南下することになります。

石灰岩に多い横穴の洞窟を利用し、その入り口をこうやって装飾したのが亀甲墓です。
よって多くが丘陵の麓にある、すなわち天然の壕になっているため、航空攻撃、艦砲射撃にも耐久性があり、
その制圧にはアメリカ軍もそうとうに手を焼いたようです。
当時の米軍の作戦地図を見ると、やたらと墓地(Tombs)の表記があるのは、
連中がお化けを恐れて近づかないようにしたからではなく、
それほ要塞陣地に等しい存在だったからなのです。



その先にはもう少し小規模のお墓が。
これは小型の亀甲墓という感じですが丘陵部をくりぬいたものではなく、
かなり小規模で、火葬が一般的になった後に建てられたものかもしれません。

奥に見えるお墓の前に建てられているのはヒンプン、先に見た住宅の入り口にあったのと同じ壁板です。
お墓に目隠しをしても意味が無いので、やはりヒンプンは魔除けと考えるべきじゃないかと。



これは周囲の開発にあたり、ここに移設されたお墓らしいのですが、名前と移設年度のみの表記があるだけで、
どういったいわれのモノかは一切説明は無し。
が、こうしたものを見ても、やはりこのグスクは墓所として認識されているようです。



丘の上に行くと頂上付近にも墓所が。

亀甲墓ではない様式の石組のお墓です。
亀甲墓の成立は琉球王朝成立前後、15世紀初期と言われているので、
それ以前のかなり古いものか、あるいは士族では無いため亀甲墓にできなかった
地元の有力者のお墓か、どちらかだと思いますがよく判りません。



こちらはかなり新しいお墓。
となると今でも沖縄ではこれが標準的なお墓なんでしょうね。
こちらにもヒンプンの壁が置かれてます。

といった感じで、宇座グスクの見学は終了、那覇へと向かいましょう。


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