■次は中村さんの家



さて、お次の目的地は重文に指定されてる沖縄の古民家、中村家住宅です。
江戸期の18世紀中ごろ、すなわち琉球王国時代に建てられ琉球式の住宅とされます。
ただし、母屋以外は実は明治期のもので、母屋もおそらく大幅に手が入ってしまってますが…。
まあ、それでも見る価値はありました。

ここは地雷映画男が、沖縄の古い家を見たい、という私の希望を聞いて見つけてくれたもので、
おお、それはぜひ見たい、と座喜味城から50分ほど車で走って到着。
が、駐車場から見えるこの家、どうもごく普通の家のような…、テレビアンテナとかも付いてるし…
と思ったら、こちらは券売所のある管理棟&お土産屋さんでした。
中村家はこの奥で、ここで入場券を買って向かいます。



というわけで、こちらがその入り口。
18世紀半ば、薩摩藩の支配を受けるようになった後に建てられた住宅ですが、沖縄の伝統的な建物だとか。
ちなみにその塀はこのように極めて精密な石垣となっており、
民家でこれか、沖縄の石組技術すげえ、とあらためて思いました。
ただしここは地頭職、庄屋階級の家だったらしいので、ちょっと「特別な豪邸」ではあるようですが。
ちなみに手前の道路はコンクリートではなく、石灰岩による石畳です。

ちょっと余談。
ペルリ提督ことマシュー・C・ペリーは黒船連れて浦賀に来る前に実は琉球に寄ってます。
(太平洋を横断したのではなくアフリカ、インド洋周りでやって来たから)
この時、彼は那覇の港に入り、そこから首里の王宮まで向かうのですが、
彼の日記(The Japan Expedition 1852-1854/邦訳 ペリー提督日本遠征記(ただし抄訳で省略が多いので注意))によると、
港から王宮までは全て石灰石で舗装されており、道の両側の家は高い塀に囲まれていた、としてるので、
当時の那覇中心部から首里にかけては、まさにこんな感じだったんでしょうね。

ペリーは那覇の美しさを称賛し、これほど清潔な街も都市も見たことが無い、中国とは大違いだ、
と驚嘆してますから、昔はこういった美しい塀と道が普通だったのだと思います。
ちなみに彼によれば料理も中国よりうまい、という事で、すげえな琉球王朝、という感じです。

ただし、琉球王朝の政治についてはかなり批判的で、人民の大半は裸に近く、
奴隷に近い形で農民たちを搾取してる、と非難してます。
が、実際は琉球の支配者であった薩摩藩が半分以上悪い気がしますね、この点は(笑)。
ちなみに琉球の農民の生活が極めて悲惨だったのは間違いないのですが、
なにせほぼ識字率ゼロ、という状況だったため、明治以前の記録は事実上存在せず、
どこまで過酷だったのかすらよく判らん、という部分が大きいのです。

少なくともノンキな南国の楽園では無かったのは確かでしょうね。



門から中を見る。
いや、この構造、戦闘を前提としてません(笑)?
台風対策程度でここまで石組を造る必要あるのかなあ、と思う。
奥に見えてるのは人が撮影中に横切った地雷映画男、その奥には例の家の前の石壁が見えてます。
ここの解説によると、ヒンプンと呼ばれる目隠し、としてますが個人的には魔除けの要素がある気がします。

ついでに女性はこの壁の左手から、男性は右手から庭に入る、という風習があったそうな。
それって清朝の中国にもあったヤツですから、やはり微妙に中国風。
ちなみに中国、少なくとも上海周辺では逆で女性が右から入ってました。
沖縄では台所が左手にあったのでそうなった、という説明もあり。

この一帯はアメリカ軍上陸直後に一気に制圧されてしまったはずですが、
それでも戦場にはなっておりよく無事に残ったなあ、と思います。



中に入るとこんな感じ。
こちらが女性入り口の左手側。



こちらが右手側で、アシャギと呼ばれる離れの建物に繋がってます。
アシャギって呼称は、例の村の礼拝所、神アシャギと同じもので、
家の中では特別な場所、といったような意味でしょうかね。

本来は琉球時代の役人が宿泊所として利用したらしいのですが、建物は恐らく明治期のもので、
明らかに日本建築になってしまっています。ただの離れ、と考えるべきでしょう。
ちょっと残念。

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