■とりあえず回廊を巡ろう



その先の広場でスプリンクラーが故障したのか、水が出っぱなしになってる場所で、
ハトが集団で水浴びしてました。



さて、ミナールの周辺は廃墟になってるとは言え、一部の建築が残っており、
往時のマスジドの規模を忍ばせています。
ざっと一周して見て置きましょうか。



イスラム寺院ではお馴染み回廊部。
妙にきれいなので補修後か再建されたものみたいです。
ついでにここはスルタン王朝の出身地、アフガニスタン周辺のイスラム様式がそのまま持ち込まれてるため、
一般にイスラムと聞いて想像するような建設様式とは微妙に異なってました。
この点もちょっと興味深いところではあります。



その奥になにか巨大な廃墟のようなモノが。



あ、これもミナールだけど、ほぼ廃墟ですね。
倒壊したのか、と思ったんですがその逆で、建築途中で放棄されてしまったものらしい。
アライ・ミナールと呼ばれてるそうで、直径は先のクトゥブ ミナールの2倍近くあり、
完成後は倍近い高さにするつもりだったとされます。

ちなみにイスラム建築でミナールは普通、複数建立するのですが、ここは当初から一本のみで、
この二本目のミナールはクトゥブ ミナールの建築後、100年近く経ってからの計画でした。
どうもアフガニスタン方面のイスラム建築がこうらしく、
そこからやって来た連中が建てたこのマスジドも同じ形式になっていたようです。
個人的にこの単体ミナールと仏教の五重塔(中国の多重の塔)は
おなじルーツのような気がするんですが、確証は無し。
でもガンダーラはアフガニスタンの近所であり、この建築様式は
イスラム教到来以前からあるみたいなんですよね。

とりあえずこの巨大ミナールの建造をもくろんだハルジー朝のスルタン、
アラーウッディン ハルジー(Alauddin Khilji)が1316年に死んだ後、建設は中止になってしまってます。
理由は不明ですが、金が無かった説が有力らしいです…

ちなみにこのスルタンの時代に北部インドはモンゴル帝国の侵入を受けたのですが、
モンゴル側のやる気の無さ(デリー近郊まで来て街を包囲しながら自主的に撤退してしまった)にも助けられ、
その撃退に成功、彼のおかげでインドはモンゴルの支配を受けずに済んだ、とされております。
ただしこの辺り、モンゴル側の記録が例によって無いので、詳細は怪しいところもあります。


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