■ソ連の時代がやって来た



ミグ21のおそらくFL型。

先にも少し書きましたが、パキスタンとインドは天敵同士であり、中国とインドは極めて仲が悪い状態でした。
でもってパキスタンのバックにはアメリカが付いていたいのです。

この状態のインドに、これもアメリカと中国と仲が悪かったソ連が目を付けて、
インドを自陣営に引き込みに来ます。
この結果、1960年代以降、インド空軍の主力戦闘機はソ連機に替わって行き、
その最初の機体がこのミグ21でした。
ついでにインド空軍初の超音速戦闘機でもあったはず。

1964年から導入が開始され、最終的に約330機とインド空軍が運用した戦闘機としては、
ヴァンパイアに次ぐ数が配備されました。
(ミグ21には練習機型が無いので、戦闘用の機体としてなら最大)
とりあえずインド空軍では2013年まで現役だったようです。



こちらはソ連製の超音速攻撃機スホーイ Su-7。
1968年から140機ほど導入、86年ごろ引退と、インドの機体にしては短命だったようです。
この機体は初めて見た、というかこんな機体初めて知りました(笑)。

単発で馬鹿みたいにデカい胴体の超音速爆撃機、となるとアメリカのF-105に近い機体であり、
実際、この機体は戦術核攻撃を前提にしていたようです。
ただしインドの核武装はこの機体の配備から大分経ってから(1970年代後半)、
しかも実用性がどの程度あったのかずっと疑問視されてるので、
おそらくそういった戦術核任務には使う予定は無かったはず。

機首横に空気抜き用らしいフラップがあるんですけど、何の意味があるんだ、あれ。
あるいはソ連機がよく付けてる荒れ地で異物を吸い込まないようにする地上用空気取り入れ口?



でもって混沌のインド空軍、フランスからも機体を購入してまして、
これはダッソー ミスティール Mk.IV(4) Aですね。

ミスティールの最終生産型で、1957年から100機前後を導入開始、1976年引退と、これもやや短命でした。
ちなみに先に見たハンターの導入が1957年、ナットが1958年ですから、
このミスティールIVを含めて制空戦闘機を同時に3機平行で運用していた事になります。
補給、整備、そしてパイロットの訓練と、どれをとっても何のメリットも無い運用のはずで、
正直、何を考えていたのかさっぱり判りませぬ…

ちなみにミスティールの先代とも言えるダッソー社のウーラガンも
インド空軍は1953年から100機ほど運用しており、
これを運用中にさらにこの機体を導入した事になります。
…ホントに何考えてるんでしょうね…




さて、この博物館の最大の目玉がこれ、HAL HF-24マル―ト。
1961年に初飛行しており、これはアジアで二番目の自国開発のジェット機でした。
(最初は日本のT-1。ただし戦闘用の機体であるならおそらくアジア初)
全部で140機前後が生産され、1990年まで現役でした。
その間に、少なくとも1971年の第三次印パ戦争に投入されてるのですが、
かなりの損害を被ってしまったようです。

…ということは、これも同じタイプの機体、Su-7と平行運用されていたわけで。
なんだかなあ…

インドの国産ジェット攻撃機ですが、空飛ぶゲルマン設計野郎、
あのFW190やTa153のクルト・タンク博士が主任設計者を務めた機体でもあります。
ただし悲しいかな、タンク博士ではすでに時代遅れになっており、開発は迷走、
当初はマッハ2の超音速戦闘機を目指しながら最後まで音速すら超えられず
(最大1112q/hとまさに音の壁直前の速度)、
さらには初飛行から部隊配備まで6年と、この時代の機体にしては異常な遅れを取りました。
このデザイン、タンクさんが全くエリアルールに気が付いてなかった事がよく判ってちょっと悲しい…

ちなみに音速突破失敗は、機体設計の失敗と同時にエンジンが非力だったという面もあります。
このサイズの機体なのに、エンジンは先に見た豆ジェット戦闘機、ナットとほぼ同じものでした。
いや、だったら小型機にすれば…と思いますけども。

設計の迷走として象徴的なのが空気取り入れ口の形状で、
層流を避けるためにわずかに浮かせたものの、
整流板がどうも中途半端で、これほとんど役に立ってないと思います。
さらに本来なら超音速飛行対策のショックコーン(衝撃波円錐)が中に入ってますが、
明らかに小さすぎ、これが何のための構造か、
よく理解できてないまま、形だけコピーしたんじゃないかと…。
この辺りはミラージュIIIの構造をまんまパクッてる気がしますし。

ちなみに敗戦国の設計屋でもっとも活発に活動したのがタンク博士で、
終戦後は中国、イギリス、ソ連に自らを売り込みながら失敗、
だったらとナチ残党およびドイツ軍関係者がたくさん居たアルゼンチンに
設計チームごと渡ってプルキII(Pulqui II)を開発します。
ただし、この機体は最終的に失敗作に終わり、量産もされませんでした。
(そもそもこれ、第二次大戦中に原寸大模型まで造って終戦を迎えたTa183を土台にしていた)

その後も1955年ごろまでアルゼンチンにに留まったものの、
彼を支援していたペロン大統領が失脚、その結果、彼の弟子(何時の時代かは不明)が居た
インドに招かれ、またチームごとインドに移動、そこでこの機体の設計を行ったのでした。
(一部のメンバーはアメリカに行ってしまったらしいが詳細不明)

ちなみにタンク博士は1967年ごろまでインドに居たはずで、その後、25年ぶりくらいにドイツに帰国、
最後はドイツで1983年に亡くなっています。
ついでにインド時代の1959年、まさにこの機体を開発中に
当時開発中だったT-1練習機のジェットエンジンの艤装を見たい、と
アポなしで富士重工の宇都宮試作所を訪問したという伝説が残ってます。
ホントかなあ、と思ってたんですが、改めて調べて見たら、
それらしい写真も残っており、どうも実話らしいですね。
タンクと中島飛行機の意外な関係でした。



フォード ギャラクシー1967年型。
主翼も無いのにどうやって飛ぶのかと思ったんですが、これは乗用車のようです。
ナンバープレートにあるIAFはインド空軍の事ですから、その1号車で、
どうもインド空軍の一番偉い人が載ってた公用車っぽいですね。

ちなみにインド政府の車には、ボンネット上の卒塔婆のような棒あり、
さらに屋根の上に小さな帽子のようなモノが付いていて、しかも基本は白なので目立ちます。
ニューデリー地区を走ってると、こういった車をやたら見るのですが、全て政府の公用車なのでした。


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