■そのほかの機体たち



ぶら下げ展示のノースロップYF-5A フリーダムファイター。

1950年代中盤、ノースロップ社が独自に設計を進めていた軽量戦闘機、
N-156を原型に開発された小型で安価な“超音速戦闘機”F-5の先行試作機です。
このN-156は一時期、先に説明した陸軍の独自攻撃機の候補の一つにもなってました。
が、結局それが空軍の横やりで没になってしまい、そこに安価で操縦しやすいところに注目した空軍が、
これを練習機にする事を提案、そこで採用されたのがT-38タロン練習機(冷戦編で登場)でした。

で、戦略爆撃空軍であるアメリカ空軍は、その戦闘機型には全く興味が無かったのですが、
当時、共産勢力が世界中に勢力を伸ばしつつあり、その連中は全て大量にMig戦闘機を装備してました。
となると高価なアメリカ製の機体では数で勝負はできず、そもそもその手の脅威にさらされてる国々は
貧乏な所が多かったため、ファントムIIなんてとても買えないのでした。

そこでそんな国々でも大量に買える、最悪、アメリカが実質買い与える事ができる、
安価であり、一定の能力を持った戦闘機として開発されたのがこのF-5でした。
1959年に初飛行し、ベトナムの雲行きが怪しくなってきた1964年4月(トンキン湾事件の4カ月前)からは
世界中の貧乏同盟国からパイロットをアメリカに集めて操縦訓練を開始してます。
ちなみに最初に召喚されたのは韓国とイランのパイロットたちで、
この人選も時代を感じるところではあります。

最終的にアメリカ空軍はわずかな数を採用しただけで、ほとんどを途上国にばら撒きますが、
後の発展型のE型まで含めると、21世紀まで各国で現役でしたから、
自由諸国の空軍を象徴する機体の一つだったと思っていいでしょう。

展示の機体はなぜかアメリカ空軍のスコシタイガー部隊の塗装にされてますが、
当然、適当であり(笑)、実際はこの先行試作機がベトナムに送られた事はありません。
ちなみに、この部隊(4503rd Tactical Fighter Squadron)は1965年から2年間に渡り
ベトナムにF-5を持ち込み、その戦闘試験を行った部隊で、
スコシタイガー(Skoshi tiger/空軍博物館の展示の記述は綴りを間違えてるので注意)とは
日本語にすると「少し虎」の意味です。

何言ってるんだかさっぱりわからん、という感じですが“伝説”によれば
当時、日本に駐留していた隊員が、行きつけの飲み屋のお姉さんに、
日本語で“Little”は何ていうの?と聞いたのだとか。
当然、これはLittle tiger のLittle であり、正解は“小さな”なんですが、
お酒の量ばかり気にしてた酒場のお姉さんは、ああ“少し”だよ、と教えてしまったのだそうな。
誤訳ではないんですけどね(笑)…

その結果、この部隊はスコシ タイガーという微妙に残念なネーミングになってしまった、との事。
まあ、この辺りはあくまで“伝説”ですがね…。

ちなみにこの機体の開発では、ノースロップ社に移籍していたP-51ムスタングのパパ、
シュムードが設計チーム全体の統括を行ってました(直接の設計はやってない)。
ついでに、この主翼付け根前部のわずかな三角部分がLERXの元祖となるのですが、
この辺りはさんざんもう説明してますから、いいですね(手抜き)。



こちらもベトナムの代名詞であり、自由主義諸国を象徴する戦闘機、マグダネル・ダグラスF-4C ファントムII。

もともとは海軍が艦隊防衛用の遠距離ミサイル戦闘機として開発していた機体で、
それが戦闘爆撃機となってベトナムに持ち込まれたもの。

空軍としては当初、採用の予定は無かったのですが、当時の国防長官マクナマラが、
センチュリーシリーズだけでも6機種もあるという空軍の戦闘機展開の無駄に激怒、
海軍との戦闘機の共同開発を命じて、アメリカ中の戦闘機は一種類だけ、
という“経済的な戦闘機”の採用を押し進めます。
これが次で紹介する空飛ぶ悪夢、F-111という壮大な失敗作へつながるのですが、
その前の段階として空軍、海軍(そして海兵隊)の共通戦闘機となるF-4ファントムIIの採用が強行されます。
当然、海軍大喜びですが、空軍は極めて不満でした。

実際、ファントムIIは元は艦隊防衛用の遠距離ミサイル戦闘機であり、格闘戦なんて考えてませんから、
すでに述べたようにソ連製戦闘機に対して、ほとんど優位な点を持ってませんでした。
(ちなみにその艦隊防衛のために開発されたのが遠距離攻撃できるレーダー誘導のスパローミサイルだった。
ついでに赤外線誘導のサイドワインダーミサイルも海軍の開発。いかにこの時代の空軍が役立たずか判る)
戦闘機としてなら、むしろその前の世代、F-8クルセイダーの方がはるかにマシだったのです。

が、空軍の戦闘機もすでに述べたように相当悲惨な性能でしたから、
性能試験ではファントムIIに敵わず、これがベトナム戦における空軍の主力戦闘機となって行きます。
(軍全体の主力、という意味では先にも述べたようにF-105がそれに当たる)
が、当然、ミグ相手には苦戦を強いられ、既に述べたように
おそらくMig-21には空戦結果でも負けていた可能性があります。
まあ、戦闘機としては確実に二流でしょう。

ただし戦闘爆撃機として考えた場合は、一流の性能を持っており、
とくに機首にヴァルカン砲を搭載した空軍型ファントムの威力は相当なものでした。
このため、F-105から徐々にファントムIIにベトナムの爆撃任務は移管されて行くのです。

このC型は1963年に初飛行した空軍向けの最初の型で、
この段階ではまだ機首のヴァルカン砲はありませんでした。
まだまだ海軍の機体なんて…という不満が渦巻く中での採用でしたが、
最終的にアメリカ空軍は2600機もの大量のファントムIIを採用、これは海軍の倍以上の数でした。

展示の機体は第二次大戦のエースパイロット(13機撃墜)でもあり、
ベトナムではミグの撃墜もしてるロビン・オールズが搭乗していた機体。
ちなみにオールズがミグ撃墜を記録したときはすでに44歳で、
航空団の指令自らの出撃での撃墜だったそうな。

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でもってそのアメリカ軍の大失敗、ジェネラル ダイナミクスF-111A。
愛称のアードヴァーク(AARDVARK)はツチブタの事で、なんでまた?という気はします。
ちなみにこれ、非公式な愛称で、どうも通常型のF-111には最後まで公式の愛称が無かったみたいです。
愛されてませんね…

すでに述べたように元フォード社長(CEOではない)という異色の経歴の国防長官、マクナマラが
軍のコスト削減を目指して、空軍海軍共用の戦闘機、TFXとして開発させた機体です。
が、空軍も海軍も自分達の性能要求を譲らず、この結果、あれもこれも詰め込んでしまい、
戦闘機としては異常なまでに大型の機体となってしまったのでした。
このため初飛行する前からジョン・ボイドに失敗作の烙印を押され、実際、その通りの結果になってしまってます。
海軍に至っては、マクナマラが国防長官の地位を去ると、速攻で受け入れを拒否、
結局、空軍だけが後に戦闘爆撃機、というかほぼ純粋に爆撃機として使う事になります。

ちなみに全天候型の爆撃機を持たなかった空軍としては(ホントにベトナム戦後半まで持って無かったのだ…)、
初めてまともに夜間でも悪天候でも飛ばせる爆撃機であり(海軍にはすでにA-6があった)、
爆撃機としては優秀と言っていい機体ではあります。
ただし、本来は戦闘機だったのだよ、という点からすれば完全な失敗作でした。

さらに戦闘爆撃機としてベトナムに持ち込まれた時のデビュー戦も史上最悪、というべきものでした。
性能試験のため、6機のF-111がベトナムに持ち込まれるのですが、
1968年3月に作戦行動を開始すると、最初の三回の出撃で一機も帰還しない、
すなわち三連続で機体は行方不明、さらに損失原因も不明、
という前代未聞のデビューを果たし、速攻で撤退となりました。
(そもそも初飛行は1964年なので、すでにそこから4年もかかってこれなのだ…)

その後の調査では水平尾翼の強度不足が判明、全機が飛行停止となります。
なんで人が死ぬ前にキチンと調べないのかね、という感じですね、この辺り。
最終的には1972年のベトナム最後の大作戦、ラインバッカー作戦で前線復帰、一定の活躍をするものの、
ダメ戦闘機、殺人(自分に対して)爆撃機というレッテルは残ってしまうのでした。

展示のF-111は1972年からのラインバッカーII 作戦に参加した機体だとの事。



ロッキードEC-121D コンステレーション。
コニーの愛称で知られるロッキードのコンステレーションは軍用でも多く使われており、
この機体はレーダー搭載の早期警戒機に改造されたもの。
ちなみにこの博物館はもう一機、別のコニーも持っており、そちらは大統領専用機の館で登場します。

この状態の展示では見づらいのですが、胴体中心部の腹と背にアンテナ用の大きな出っ張りがあり、
これによって空中から索敵、さらには友軍機をそこまで誘導するという任務を行っていた機体で、
どうも空軍でこの手の任務を最初に担当していたのがEC-121だったようです。
ちなみに、この機体ももともとは海軍による開発です…

といった感じで、ベトナム戦争編はここまで。
これにて第二ハンガーの機体は一通り紹介した事になります。
ちなみにこの段階ですでに午後4時半、閉館の足音が聞こえ始めていました…
という感じで、今回はここまで。
オマケ編も一回お休みとします。


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