■さあヴェトナムの地獄へ



さて、今回は2号ハンガーの残り半分、ベトナム戦争編を見て行きます。
ちなみにここの展示では「東南アジア戦争」という、ある意味で正確なような、
微妙に本質を誤魔化してるようなコーナー名になってました。

ただし年代的に冷戦期と完全に重なるため、あれ、何でこの機体が?
というのが冷戦期の展示に回ってたりしますし、
同じ機体が(微妙に型番が異なるが)両方に展示されてたりします。
まあ、この点は朝鮮戦争編も同じですが。
ついでに言うなら、この写真に写ってる天井からのぶら下げ展示のT-28、写真撮って来るの忘れてます…
まあ、これも冷戦編でもう一回登場しますから、いいですよ…ね?



まずはボーイングB-52D。
この巨大な機体が余裕で入ってしまってるこの展示ハンガーの大さも見て置いてくださいませ。

第二次大戦終結からわずか7年後の1952年4月に初飛行し、
アメリカがベトナムに本格介入する前、1962年には生産が終わっていた大型戦略爆撃機がこのB-52です。
それが21世紀でも未だに現役なんだからスゴイ世界ですな。
ちなみに生産数は全部で約740機となっています。

参考までにライト兄弟の初飛行から第二次大戦でジェット戦闘機が登場するまでわずか40年ですから、
65年近く現役の機体がどれだけスゴイか、という話です。
本来ならそろそろ定年、孫も居る、という年齢ですからねえ…

朝鮮戦争では最新鋭のB-36爆撃機(冷戦編で登場)の投入をためらったアメリカ空軍ですが、
ベトナムでは迷わず最新鋭のB-52をほぼ介入直後(1965年初夏)から投入して来ました。
これはルメイ率いるキチガイ戦略爆撃部門、核兵器を担当するSAC(戦略空軍司令部)が空軍内(というか米軍全体で)
異常なまでに誇大化した影響を持っていた結果、強引に自分たちの実績つくりのために投入してきたからです。

このためB-52の爆撃部隊は、現地の指揮はおろか、ハワイの太平洋空軍(PACAF)の指揮すら受けておらず、
アメリカ本土に陣取ったSAC独自の判断で作戦行動をしてました。
よって実績作りだけが目的なので、対空ミサイルとミグがウヨウヨしてる北ベトナムには飛ばさず、
戦争の行方にはほとんど影響が無い安全な南ベトナムの大地を、この巨大な爆撃機で爆撃する、
という茶番が4年近くも続けられました。
これが他の航空部隊から戦略爆撃機が馬鹿にされ、嫌悪される要因となって行きます。

なのでベトナム戦の最後の最後、1972年のラインバッカー作戦で
初めて北ベトナムに飛ぶまで、B-52ほとんど南ベトナムで戦っていたため、
事実上役に立って無かった、と言っていいのですが、
(その代わりラインバッカー作戦以降での破壊力は凄まじかったのだが)
とりあず8万回を超える出撃数(Sorties)をこなし、戦闘での損失は17機でした。
ちなみに太平洋戦争中のB-29の対日爆撃出撃数(Sorties)は
33000回前後と見られてますから(中国からの出撃含む)実に2倍以上の回数となってます。
その9割が意味の無い爆撃だったと思っておいて間違いないでしょうから(涙)
ホントに狂った戦争だったのです。

ついでにこの展示機もそうですが、少なくとも1966年ごろ(参戦二年目)から機体下を黒くする、
つまり夜間爆撃機対策と思われる塗装がB-52では標準となって行きます。
と言ってもどの程度まで本格的に夜間爆撃をやったのか、どうもよく判りませぬ。
最後の最後の大作戦、1972年のラインバッカーと、ラインバッカーII作戦では北ベトナムへ侵入するため、
B-52も夜間爆撃をやってるのですが、それ以前、ミグもSAMも無い南ベトナム相手に
果たしてB-52がどこまで本気で夜間爆撃をやったのか、これまたどうもよく判りませぬ。
ベトコンの輸送トラックは夜間に移動しており、このためF-105やA-1は夜間爆撃に投入されてましたが、
果たしてB-52でベトコンのトラックをどこまで爆撃していたのやら。
いずれにせよ馬鹿だね、というほかない使用法ですが。

展示の機体は1957年から引き渡しが始まったD型で(正確には1機だけ先行して56年に部隊配備されてるが)
最初に100機以上が生産されたB-52がこのD型でした。
この機体は実際にベトナム戦に投入された機体で、戦闘による損傷もあったそうな。
1978年に退役後、この博物館に自力で飛来、展示が開始された、との事です。



言うまでもなく戦略爆撃機ですから、胴体の中に爆弾庫を持つのですが、
主翼下のパイロンにも爆弾を搭載出来ました。

ベトナム戦時の映像などを見る限り、これを付けての出撃が普通だったように見えます。
かなりの空気抵抗になるはずで、速度は結構低下したんじゃないでしょうか。
ちなみに南ベトナムはベトコンがウヨウヨしてるため危なくって(笑)B-52の基地が造れず、
当初はグアムからわざわざベトナムまで飛んで行き
その爆撃をやってたんですが、この長距離爆撃でも機外爆弾を搭載してるのが確認できます。
そこまでして爆撃する対象が南ベトナムにあったとは思えず、馬鹿だなあというほか無いですね。
やはりあの時代のアメリカ空軍は狂ってるなあ、と思うのです。



第二次世界大戦時、アメリカ陸軍の航空部隊にまともな地上攻撃機は無く、
ドロナワな展開になったのは既に説明しました。
それに懲りて反省したか、といえばそんな事は全く無かったのです(笑)。
それどころか戦後独立に成功した空軍は、これからは核武装さえあれば、一撃で敵国を塵に出来ますから、
通常兵器なんて要りませんよ、という売込みで海軍、陸軍の予算まで奪ってたため、
通常航空兵器の装備はお粗末の一言な展開となってました。

この結果、ベトナムではまたも攻撃機を海軍から導入するハメになったどころか、
主力戦闘機に至るまで、海軍の世話になる、という屈辱を受けることになります。
海軍では原子力潜水艦から発射する弾道ミサイルが戦略核兵器を、空母が戦術核兵器を、
それぞれ運用するという計画になってました。
すなわち核戦争時代でも軍の屋台骨である空母艦隊を破棄するつもりはさらさら無かったので、
空軍に比べ、はるかに現実的な航空戦力を持っていたのでした。

それでも海軍も戦術核戦を主に考えていたので、第二次大戦期の機体、A-1スカイレイダーと、
すでに旧型になりつつあったジェット戦闘機F-8クルセイダーを別にすると、
あまり褒められたラインナップではありませんでしたが…。

で、その数少ない有用だった機体の一つ、スカイレイダー攻撃機を空軍が採用したのが展示の機体、
ダグラスA-1Eスカイレイダーです。
海軍向けの機体は1945年3月初飛行ですから第二次大戦世代の機体ですが、
ベトナム戦のほぼ全期間を通じて一線で使用され続けました。

海軍型のADはAD-1からAD-7まであったのですが、後にマクナマラ国防長官時代に
海軍、空軍の機体名称がバラバラなのを統一した時に全てA-1とされ、
後はアルファベットでサブタイプを識別されるようになりました。
展示の機体はA-1Eで、海軍時代はAD-5と呼ばれていたもの。
空軍での非公式の愛称はスパッド(Spad)で、こちらの方が通りがいいかもしれません。
(元フランス統治領のベトナムだからスパッド?)

ちなみにこの機体、A-1E(AD-5)はちょっと変わったスカイレーダーで、操縦士と副操縦士が居て、
これが横に並んで座る、という多発機のような複座コクピットになっています。
ジェット機でこれをやったのはヴァンパイアの練習機型やA-6、F-111などがありますが、
単発のレシプロ機でこういった座席配置をやったのはこれくらいじゃないでしょうか。

後部の座席には電子機器操作のための搭乗員が乗ってましたが、
キャノピーが青いのはガラスが割れたのでビニールシートで覆ってるからではなく、
電子機器の表示をよく見えるよう、座席周辺をある程度暗くするためのもの。

ついでにスカイレイダーは1957年、ベトナム戦のはるか以前に生産は終了しており、
1963年から空軍が運用した機体は全て海軍のお古でした。
当時、ベトナムへの参戦が近いと判断した空軍は1962年4月からフロリダのエグリン基地で
ベトナム戦対策を練り始めてましたが、当然(笑)地上攻撃機は全く無く、どうするんだよという話になってきました。
その中で練習機のT-28を地上攻撃機に改造したり、これも第二次大戦世代の
B-26(A-26)インヴェーダーをさらに改造してたわけです。

で、その過程で試験された海軍のスカイレーダーの性能に驚き、
余剰となっていたA-1Eの150機前後を海軍から譲り受ける事にしたのだとか。
ちなみに海軍も一時はもう時代遅れ、と考えていたフシがあり、
参戦前には空軍だけではなく、南ベトナム軍にまで余剰機を譲渡してました。



さすがにベトナム戦中盤以降になると第二次大戦世代のレシプロ機ではきつい、
という事で攻撃機もジェット化が望まれ始めます。
が、ここでも空軍はそういった開発を一切やってなかったので、またも海軍の機体を導入するハメになるのでした。
それがこのLTV A-7DコルセアIIです。
もともとはヴォート社の戦闘機、F-8から開発された艦載攻撃機で、空軍では約450機を採用してます。

ただしこの機体に関しては当時のマクナマラ国防長官に押し付けられた、という面が大きく、
このため空軍としては妙に意地を張って、空軍専用のD型ではエンジンを別のモノに替えてしまいました。

ちなみに開発は元チャンス・ヴォート社で、このためF-4Uの後継者、という意味でコルセア II となったのですが、
1961年にチャンス・ヴォート社は敵対的買収で電気メーカーのリング・テムコ(Ling temco)社に吸収されたため、
リング・テムコ・ヴォート社というやけに長い名前になってました。
あまりに長くて面倒なので、通常はLTVと表記され、これが事実上の会社名になってます。


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