■それはかなりの高速で



戦略爆撃の権化、アメリカ陸軍の航空隊が初めて装備した近代的な爆撃機、マーチンB-10。
1932年2月に初飛行した機体ながら、全金属(例によって動翼を除く)、単葉、さらに引き込み脚と、
最先端の構造を取り入れた機体となってました。
そこに加えて機体内に爆弾を搭載する爆弾庫も持っており、従来のように機体の下に
爆弾をぶら下げる必要がなくなった結果、空気抵抗は一気に減る事になります。

さらにライト R1820サイクロンという傑作エンジンを搭載したところ、
このずんぐりむっくりしたスタイルながら時速215マイル、344q/h の速度が出ました。
当時のアメリカの最新戦闘機、先に見たP-26と比べても、
時速20マイル、約32q/h以下の速度差しかないという事になり、驚異的な高性能を誇ったのです。
後に第二次大戦でアメリカ陸軍航空軍を率いて戦略爆撃を指導する事になるアーノルド将軍が、
当時の航空戦力の奇跡だった、と回想してるのも、もっともだと思われます。

が、ここで高速性に目がくらんだアメリカ陸軍は、約10年後に始まる第二次大戦において、
既に戦闘機と爆撃機では100q/h以上あったのに、護衛戦闘機不要論に走ってしまいます。
その結果、護衛戦闘機無しでドイツ爆撃に送り出されたB-17が、大損失を被って狼狽する事になるのです…
その危機は、奇跡のような偶然でそこにあったP-51戦闘機とマーリン61エンジンによって
かろうじて救われる事になるのですが。

展示の機体は世界で唯一のB-10現存機となってます。
1938年にアルゼンチンに売られた輸出型を、
1971年、アルゼンチン政府がこの博物館へ寄贈してくれたものだとか。
それをアメリカ空軍の機体としてレストア、1976年に完成したそうな。



正面から見るとカバのような面構えで、とても高速機には見えませんが、
機体全体が丸みを帯びた形状で、さらに胴体後部に向かって絞り込まれる流線形となっており。
空気抵抗にはかなりの気を使ってるのがわかります。

一番前のアゴが下に出っ張てるのは、ここに爆撃手が座って、爆撃照準をするため。
よく見ると爆撃照準用の下向きの窓が見えてるのが判ります。

ちなみにB-10は、後に日本と戦争中の国民党中国軍に売られるのですが、
当時の国民党軍に爆撃機をまともに運用できる能力はなく、さりとて使わなければもったいない、
という事で1938年5月ごろから九州方面でプロパガンダのビラを投下するのに使われてます。
この辺りは宮崎駿さんの雑想ノートでも取り上げられてましたね。
(ただし一度、鹿児島爆撃を計画した事があったらしい。
義勇兵として参加していたフランス人が提案したが、最終的に拒否されたとか)



アメリカ陸軍は観測機、Observation Plane が大好き、という妙な特徴があります。
機体名にOの字がついた機体たちです。
偵察機(Reconnaissance)ではなく、あくまで観測機であり、
専用の写真撮影機能は持たず、かつ低速で、
着弾観測、部隊間の連絡、敵前線観測などに使うつもりだったようです。
ただし後に戦争が始まると実用性が無い事が速攻で判明するのですが
そうなるまでに大量のこの手の機体を
既にアメリカ陸軍は造ってしまっていたのです(涙)。

写真のノースアメリカン O-47Bもそんな機体の一つでした。
3人がタンデム(縦並び)で乗る、という艦上機のような構造の機体です。
1935年11月に初飛行してるのですが、正規採用は1937年となっています。
後にT-6練習機、B-25爆撃機、そしてP-51戦闘機と傑作機を連発する事になるノースアメリカン社が、
創立間もなくに設計開発した、ほぼ失敗作と言っていい機体でしょう(涙)…。

そもそも観測機なのに中翼、主翼がコクピットの下にあるのでは地上が見えません。
このため、胴体下に窓を付け(写真では車輪の奥でよく見えない)、
別に観測室を造ったらしく、このようなメタボなお腹の機体になってます。
何かが根本から間違ってるような気が…

それでも175機前後が発注され、これは当時、経営危機にあった
ノースアメリカン社を救う契約となっています。
ちなみに後のP-51の設計責任者になるシュムードも、この機体の開発に参加してるのですが、
どの部分を担当していたかはよく判りませぬ。

で、開戦と同時にやはり使い物にならんと判明、
以後は訓練用標的の曳航機として使用されてます…。
展示の機体はこれも個人からの寄贈で、1978年から展示が開始された、との事。
ちなにに塗装はオハイオ州軍のものらしいですが、
この日の丸のようなラウンデルの正体は不明。



それでも観測機が好きでたまらない(笑)アメリカ陸軍が
さらにカーチスに発注して造らせたO-52 オウル。

1940年に初飛行、真珠湾攻撃直前に部隊配備となったものの、速攻で使えない事が判明、
これも主にアメリカ本土で連絡機として使われて終わります…
以後、この手の“O”ナンバーの大型観測機は以後、一切造られなくなり、
より小型の“L”ナンバーの機体が登場して来ます。
その辺りはまた後で。

それでも、この機体は200機ほど造られちゃったんですが、
まあ、大戦期のアメリカ機としてはあって無いようなもんでしょうかね。

ちなみに展示の機体は戦後の1962年まで U.S. Federal Reformatory、直訳すると
連邦少年院が維持していた機体とされてましたが、
なんで少年院が軍用機を?という疑問に対する説明は一切なし。

詳細は不明としておきます…。


ダグラスのO-38F観測機。ね、多いでしょ、観測機(笑)。
その手の機体の中でもごく初期に採用された複葉の機体で、
1931年に運用が開始され、150機前後が生産されたようです。

が、これも特に見るべきところはなく、最後は1940年ごろからアラスカで
寒冷地の航空機運用の実験に使われたとされます。

展示の機体は1941年6月にアラスカで墜落、パイロットたちは生還したものの、
ながらく放っておかれたのを1968年になってから回収、これをレストアしたもので
、1974年から展示が開始されたらしいです。

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