■戦争と戦争の間で



さて、今回は第一次大戦と第二次大戦の戦間期、
1918〜1939年まで、約20年間のアメリカの軍用機たちを見て行きます。
この期間もずっとアメリカは航空機の後進国であり続けたのですが、
いくつもの野心的な実験、研究をやっており、これが第二次大戦期に
一気に花開いて世界の頂点に立つことになります。

そしてこの時代にあの爆撃魔王ミッチェルが陸軍航空隊で台頭してきます。
その後、彼に引きずられるようにアメリカ陸軍の航空部隊は
戦略爆撃で空から自由に敵を粉砕する究極の軍隊を目指す事になります。
これが第二次大戦でドイツと日本を粉砕することになる戦略爆撃空軍の道の始まりでした。
この結果、アメリカは異常なまでの爆撃機の充実、対して貧相な戦闘機という、
妙にアンバランスな陸上航空戦力で第二次大戦に突入する事になるのですが…。

その第二次大戦の戦略爆撃に必要な基本的な実験、そして技術の多くが、
この20年間で産み出されたものだったりします。

そして当然、その行き着く果ては核爆弾による瞬殺であり、
ICBM、大陸間弾道ミサイルによる恐怖の核戦略となってゆくのですが、それはまた後で。



私も含めた人類の125%が知らないであろう、アメリカの国産戦闘機、パッカード リプル ルサック11。

妙に名前が長いのは、開発者のフランス人、リプル(LePERE)の名が入ってるからで、
ルザック(LUSAC)というのは、リプル+USA、そしてCombat、すなわち戦闘機の各頭文字を集めたもの。
この時代、アメリカ英語ではFighter という単語が無く、Combat と呼んでたようです。
後にフランスに合わせて(フランス空軍の機体でフランス式に戦ったので)追撃機 Pursuit という単語を導入、
このため第二次大戦まで戦闘機の型番はPでした(P-40、P-51など)。
後に第二次大戦後になってから、ようやくイギリス英語と同じFighter 戦闘機と呼ぶようになるのです。

当時、完全に航空後進国だったアメリカはヨーロッパの最新技術を得るため、参戦直後の1917年に
フランスの軍人で航空機設計者でもあったリプルに戦闘機の設計を依頼しました。
それをアメリカで生産したのがこの機体です。
この辺り、日本も後に似たような事をやるのですが、アメリカの方が先にやっていた、という感じですかね。

1918年4月には試作1号機が完成、5月には初飛行にも成功、
性能も十分だったが、結局、生産が終戦には間に合わなかった…
といった説明があり、解説によると二人乗りながら
スパッドのXIII(13)に匹敵する時速136マイル、約218km/hでたそうな。
ホントかなあ(笑)…

ちなみに製造会社のパッカードは、第二次大戦にパッカード マーリンを生産する、
あの高級車メーカーのパッカードで、当初、軍からの依頼を請けて試作機を3機制作してます。
おそらくこの機体に搭載された傑作エンジン、リバティーL-12をパッカードが生産してたからでしょう。
(リバティエンジンは途中で“あの”量産マニア、ヘンリー・フォードが乱入、フォード社でも生産したが)

その後、性能に満足した軍から本格的な発注が入るのですが、
その段階では戦争は終わってたようで、
最終的にたった28機の生産で終わってます。
まあ、あって無かったような機体でしょう。

本来ならそれで忘れられてしまうはずでしたが、
この機体、使い道が無かった割には性能が良かったので、後に実験機に採用されました。
そしてその実験で搭載されてのが、当時最新の過給器、
すなわち排気タービン搭載のリバティ エンジンだったのです。

展示の機体は唯一の現存機で、どうも戦闘には間に合わなかったものの、
一部の機体はフランスに送られており、そのままフランスに置き去りにされた機体らしいです。
1989年にフランスの航空博物館(ル・ブルージュの?)から返還されたものだとか。



これが1920年ごろアメリカ陸軍が開発した世界で最初の航空用排気タービン搭載エンジン。

リバティーL12に後付けの排気タービンを取り付けたもので、
左下に見えてるのが排気タービン部ですね。
その上側の黒いパイプがエンジン排気を圧縮タービンに導くもの。
この排気ガスを羽車にぶつけて圧縮器を回します。
マフラーなどを通してない大排気量エンジンの排気はスゴイ力を持つのです。

その下にあるもう一つの短い黒いパイプが圧縮空気をエンジンに送りこむものですが、
その横にある縦長の網付きの箱、どうもこれ中間冷却器、インタークーラーの冷却部のような感じです。
この時代からそこまでやってたなら、スゴイとしか言いようがないですね。

これに利用されたリバティーL12もスゴイ開発歴を持つエンジンで、
パッカード社のヴィンセントとホールスコット社のホール・スコット(社長だ)がアメリカ参戦直後の1917年5月、
ワシントンDCに呼び出された挙句にホテルに缶詰めにされ
僅か5、6日で基本の図面を描いてしまった奇跡のようなエンジンでした。
ある意味、典型的な泥縄設計なエンジンなのですが、それが傑作エンジンとなり、
2万基近くが製造されて以後のアメリカの航空機の多くに搭載されます。
さらに海を渡ったイギリスでは戦車用エンジン(笑)として大活躍するのです。

そしてこの世界初の航空機用排気タービンのテストにも使われたわけです。
1920年から飛行テストは始まっており、これは日本で言えば大正9年でした。
直後の1921年9月には高度40800フィート(約12436m)の高高度飛行記録を樹立してます。

後のB-17やB-29に搭載されその威力を発揮しまくる排気タービンの開発を
大正時代から、すでにアメリカはスタートさせていたのでした。
他の国の排気タービンとは、年季が違うんですね。



後ろから。
手前中央に見えてる銀色の円盤部とその横の黒い部分が
排気タービンの圧縮用の羽車、速度調整ギアなどが入ってる過給器です。

空気が薄い高高度でエンジンを回すには
燃焼に必要な空気をガーっと詰め込む必要があるのですが、
通常はエンジンの出力の一部を食いつぶして(クランクシャフトに付けて)圧縮タービンを回します。
対して、本来なら捨てるだけの排気ガスの力を使って効率よく過給器を回すのが排気タービンです。

高高度を飛ばなくても、エンジン出力を上げる効果もあるため(燃費は悪化する)
過給器はかなり早くから研究されており、エンジンの出力を使って圧縮タービンを回する
機械式スーパーチャージャーは1907年ごろにすでに登場してました。
が、当然、これはエンジンの出力の一部を食いつぶしてしまいます。

これに対して排気の力を使って圧縮タービンを回せばそんな欠点はなくなるじゃん、
と考えて、これを最初に実用化させたのがスイスのビュヒ(Buchi)でした。
彼はより過給器の必要性が高いディーゼルエンジン用に排気タービン式過給器の設計を行い、
1911年に実験に成功しています。

ただし問題も多く、最終的に実用的な完成を見たのは1915年となりました。
さらに実際のディーゼルエンジンに搭載される製品が登場するのは1926年ころからでしたから、
1920年から実験が始まったこの航空エンジン用排気タービンは、
かなり早い時期から研究が進められていた事になります。
アメリカの先見性、恐るべし、と言っていいでしょう。



こちらは1920年代後期、かなり完成型となってきた過給タービン部。
左から出てるクチバシみたいなのは羽車周辺部冷却用の空気取り入れ口かなあ。
ちなみにこの段階では高高度専用の実験機、XCO-5という機体が実験に使われてました。
(機体は現存しないため、この博物館でも展示は無い)

後の排気タービンと同じく、すでにGE社製のものです。
電気屋のGE(ゼネラルエレクトリック)社がなんで排気タービンに、といえば
発電用の蒸気タービンの技術から高速回転するタービンの技術を持っていたからで、
さらに同じ理由でジェットエンジンの開発にも関わって行く事になります。
技術ってのは意外な所で、意外な形で役に立つことがあるようです。


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