■不運は続くよどこまでも



というわけで、入れたのはここまで。
正面入り口のアーチはほぼ建設当時のままのものだとされます。
この門の中には日本統治時代に料亭などが建てられていたそうで、
手前の石橋はそのころの遺構らしいです。
本来は要塞ですから、こんな敵軍ウェルカムな橋は付けませぬ。
要塞時代は跳ね上げ式の橋だったと思われます。

ついでにこの砲台の主砲だった口径25.4pのアームストロング砲は
日露戦争時にどこかに持ち去られたそうですが、
そんな骨董品、どこで使ったんでしょう?

門の左右の防壁は、先ほどの場所よりは高いものの、それでもこの程度。
しかもどうも壁は土塁のような気が。
この辺りは1920年ごろの写真が残っており、それで見ても確かに同じような状態なのですが、
その段階で建築から40年を超えてますから、既に破壊が進んでいた可能性もあります。

そもそも、この要塞建設とほぼ同時期に発生していた南北戦争では、
レンガ造りでガチガチの固めていたサムタ―要塞でさえ、
奪回に来た北軍の艦砲砲撃で廃墟のようにボロボロにされてます。
同じ時代の要塞ですから土塁でなんとかなるとは思えんのですが…。

ちなみにオランダが17世紀初頭に台湾占拠の拠点にしていた
ゼーランジャ城(中華名で安平古堡)がこのすぐ近所にあったんですが、
当時、すでに廃墟同然になっていたここから、大量のレンガを持ち込んで
安価に(笑)この要塞を建築した、という話もあります。

なので本来、周囲の防壁はある程度、レンガ積みだったのではないか、
要塞が要らなくなった後、これは使えるね、持って帰るアルネ、と皆さんで
わっと解体してしまったんじゃないかと思うんですが、確証は無し。



入れないんじゃしょうがない。とりあえず対岸の要塞部だけでも写しておきますか。
やはり普通に考えると、あれは防壁の土台で、
あの上に砲台があったわけでは無いと思いますがねえ…

ちなみにここの設計者はフランス人のM.berthault という人物らしいんですが、
フランス人の沿岸砲台設計能力ってどうなんでしょ、実際のところ。



そこに停泊していたスワンボート軍団。
日本以外で足漕ぎスワンボートを見たのは初めてかもしれぬと思う。

…一艘だけ、妙に中華的にキャラが立ってるのが居ますね。
あれがこの船団の旗艦でしょうか。
そういや上海ではより大型のを見ましたから、中華圏ではおなじみのデザインなのか。



休憩所と売店は開いてたので、せめてそこで一休みする事に。
1975年ごろからこの一帯は史跡として整備され、公園として公開されたとの事。
まだまだ台湾民主化のはるか前、蒋介石がようやく死んだ年ですから、
いろいろ考えるところもありますが、まあ、それは置いときましょう。

全体的にはいい感じの公園で、時間と精神的余裕があれば(涙)
少しゆっくりして行ってもよかったんですがね。



タクシーに乗る前から、実は何も飲み物を持っていない、という
9月の熱帯地方をなめてるのか、タイで学習しなかったのか状態だったので、
こでこジュースをようやく買って水分補給。
ノドが渇いてたので、とりあえず一口飲んでから、写真も撮っておくかとようやく思いつく。


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