■要塞に行こう



さて、前回でHTMSメークロンの見学は終了、
次はこの施設の存在理由とも言える砲台跡を見て行きましょう。

例の現地模型で再度確認しておくと、この要塞跡の南側、
海に向った側に7つあるのが沿岸防御用の砲台です。

7つの砲台は弾薬庫を兼ねた地下通路で繋がれていて、
砲台への直撃弾を受けない限り、被害は出ないようになっていました。
ちなみに入口は裏側に一箇所しかなく、
その先に横長の広場があって、そこから地下通路に入って砲台に出る、
という構造になっています。

建設に当たっては、おそらくイギリス辺りの
援助、助言があったと思われますが(大砲はイギリス製)、
あまり詳しくはわかりませぬ。
さらに言うなら、砲台の建設された1893年の状態を、
どこまで維持してるのかは、ちょっと微妙な部分もあります。

そもそもこの要塞の建設は、
19世紀末、インドシナ半島に進出した
フランスの動きが引き金となってます。
当時はサイアム王国(現タイ王国)の配下にあった
ラオス周辺の支配を狙い始めたのが発端でした。

ラオスを巡り、両者の対立が激化した結果、
1893年にバンコクの入口ともいえる
チャオプラヤー川河口西岸のこの地に、
首都防衛用の7つの砲台が建設される事になります。

そして、その完成直後に、
フランス サイアム戦争(Franco-Siamese War)が勃発、
1893年の夏にこの要塞の砲台は
チャオプラヤー川からバンコクに侵入しようとした
フランス艦隊と砲火を交える事になるのです。

この時の砲台側の損害はよくわからないものの、
結果的には、チャオプラヤー河口を突破され、
バンコクへのフランス艦隊侵入を許してしまいました。
この結果、フランス艦隊からの最後通告を受けたサイアム王国は、
フランスが欲しがったラオスを割譲する事になるわけです。
(5日目に見るようにバンコクの王宮は川沿いにあるので、
艦隊の脅威に直接さらされる事になる)

ちなみにこれ、日清戦争の前年であり、
この時期のアジアは結構キナ臭かった、という印象がありますね。

で、この屈辱から約50年後、
フランスがナチスドイツに降伏したのにつけ込んで(笑)
タイはラオスやカンボジア南西部の奪回を目論むわけです。
そして再度フランスに戦争を挑んで、
再び痛い目にあうことになります…。
(ただしこの時はタイびいきの日本が仲裁に入って有利に休戦)



さて、HTMSメークロンの見学は終了。
次の要塞見学に向いましょう。

ただし、この段階では全く予備知識が無かったので、
いつの間にか要塞内の砲台跡に迷い込む形になります(笑)。




とりあえず、要塞の南側の堤防の上を歩いてみる。
こちら側は、すでに海といっていいでしょう。
よく見ると、干潟にはハゼのような魚や、小さなカニがたくさん居ました。
豊かだなあ、ここだけは遠浅のマングローブ林、
いつまでも残して欲しいなあ、と思いけり。



その先で、白い壁に囲まれた構造物を発見。

その中に、何らかの軍艦のマストと思われるものが立ってましたが、
何の解説も無かったので正体不明。
ちなみに、ここで掲揚されてる旗、タイの国旗の真ん中に
赤丸と象が描かれたものはタイの海軍旗のようです。

で、この壁の中が砲台跡なのですが、どうもコンクリート壁に見えます。
が、1893年建築となると、ドイツ初のコンクリート要塞、
カイザー ヴィルヘルム2世城砦(Feste Kaiser Wilhelm II)
と全く同時代の建築であり(あっちは完成まで10年以上かかったらしいが)、
ヨーロッパでもようやくコンクリート要塞が登場した時期です。

アメリカ東海岸に残るコンクリート製の沿岸砲台も
1890年代後半建設のものが多く、
果たしてタイでこの時期、コンクリート製の要塞が作れたか、
というのはやや疑問ではありにけり…。

そもそも壁が低すぎて要塞の形になって無いように見えますし、
この周囲の壁は砲台の一般公開にあたって作り直したものじゃないかと。


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