■高いところがスキだが、理由は聞くな


さて、では2階通路と言うか、タワーブリッジの歩行者用の橋を渡ってゆきますよ。
とりあえず、東西二本に分かれてまして、最初は東側の橋から。



そこからみたロンドン東部。
こっちは街の中心部の反対側なんですが、ごらんのように高層ビルが建ち並んでます。
エッフェル塔からもパリ中心部の外にある高層ビルが見えてましたが、
ロンドンも同様に、やや中心から離れた辺りに東京で言うとこの新都心を造ってるみたいです。

この写真で見えるテームズの左側辺りがいわゆるイーストエンドになります。
前回うろついた貿易港としてのドックはもう少し左の手前で、ギリギリ写真に写ってませんね。




ここら辺りから東に向けてテームズは蛇行して行き、そのところどころに突き出た凸部の陸地に、
19世紀から多くの造船ドックが作られてゆく事になるわけです。
宮崎版ホームズの「海底の財宝」でモロアッチ教授が
潜航艇のパーツを盗んで歩いたのが、あの辺りです。

でもって、今回は訪れてないので断言はできませんが、あの高層ビル街は、
どうもその造船ドック跡周辺の再開発で造られたものらしいですね。

ついでながら、運がいいという理由で連合艦隊の指令官になって、
さらにホントに勝っちゃったあの東郷平八郎のダンナ。
イギリス留学時の終盤、日本海軍の扶桑(初代の方)の建造の立会いに
この造船ドック地帯まで来てたはずなので、
1877年ごろから帰国する78年3月にかけて、彼がウロウロしてたのもあの辺りでしょう。

余談。
イギリスでも東郷元帥はそれなりの知名度があり、
それなりの評価を受けてますが、以下の二点を忘れないこと(笑)。
(ただし、あくまでそれなり、なので誰もが知ってるわけじゃない)

その1:
平八郎ちゃんは、実に7年間に渡り、イギリスで勉強している。
なので彼の海軍人としての基礎はイギリスにあり、その事をイギリス人は知っている。

その2:
ミスター 東郷が乗ってた船は戦艦 三笠だが、これはイギリス製の戦艦だ。

結論:
日本海海戦はイギリスで教育を受けた東洋人が、
イギリスの戦艦に乗って勝利した戦いだ。

…イギリス人が東郷のダンナをなぜ褒めるのか、なんとなくわかりましたね(笑)?

脱線ついでに、意外に知られて無い平八郎さんのイギリスでの足取りをちょっとだけ。
この人、実は7年間という長大な期間、留学の名目でイギリスに暮らしてたのです。

イギリス側の記録だと、彼は最初ケンブリッジの街に行き、
そこで牧師の家庭に下宿、個人教授から英語と数学を学んでます。
日本海海戦後、この下宿先の牧師、キャペル(A.S. Capel)さんが当時を回想したものを
英国で人気だった雑誌ストランド・マガジン(The Strand Magazine)に寄稿しており、
(シャーロック・ホームズを連載していた雑誌だよ)
それによれば東郷閣下は海軍軍人(制服組)になるつもりは毛頭無く、
官僚、あるいは政治家として軍の上に立ちたい、と考えていたそうな。

実際、彼はイギリスに行くまで軍人になる気はまるで無かったようで、
留学先のイギリスでも最初からその手の勉強を選んでないわけです。
ケンブリッジで英語を習うかたわら、彼は数学の勉強を始めています。
ただし、あくまでケンブリッジの街で勉強してた、という話で、
ケンブリッジ大学とは何の関係もありませんから、要注意。

が、ここで東郷さんにとって不幸な事に、ケンブリッジに来てからわずか3ヶ月前後で
重度の眼の病気にかかってしまい、
地元の病院では治療が難しいと判断されたため、どうします?
と日本の大使館に連絡が行きます。

でもって、これ幸いと平八郎を回収した日本大使館は、
彼を商船学校に放り込んでしまうのです(笑)。
最初はポーツマスにあった学校に入るのですが、どうも本人の希望で、
そこを途中でやめてしまったようです。

この結果、1872年に彼はロンドン近郊、標準時刻と天文台で有名なグリニッジにあった
テームズ海運学校(Thames Nautical Training College)に再入学する事になるのでした。

ちなみに、これは民間の商船学校であり、軍の学校ではありません。
ある意味、船のイロハを最初から教える学校で、どうも東郷のダンナは
この段階では船に関しては全くの素人だったみたいですね。

3年そこに在籍して卒業後、1875年研修をかねて
オーストラリア経由の世界一周航海に参加してます。
その後、イギリスにもどって1876年から1、2年の間、ようやく海軍軍人としての勉強を始めます。
ポーツマスにあった海軍学校(Royal Naval Academy)、
グリニッジにあった海軍大学(Royal Naval College)に通ったとされますが、
その間、扶桑の建造に立ち会ったりしてる上、
1878年3月には帰国してしまいますから、キチンとした入学と卒業はしてないように思います。

ちなみに、キャペルさんはかなり好意的に東郷の事を書いてますが、
それでも要約すると、彼は英語が全く上達せず、とりあえず子供好きだった、
とうい話だけ、となってしまうのでした…。
人間の将来なんて、わからないもんですね…。

以上、余談までに。




タワーブリッジには、元々撥ね上げる中央部分に歩道がなかったようで、
ここは、その部分の歩行者用通路として設けられたものらしいです。

が、当時からエレベータはあったものの
水面上44mの高さのここまで混雑時には階段で上り下りする必要があり、
その面倒さが、橋が開通した直後から問題になっていたようです。
さらにここがスリや引ったくりといった犯罪の巣窟になってしまったため、
後から撥ね上げ部分に歩道を取り付けて下の橋を歩いて渡れるように変更されます。
その結果、この歩道橋は1910年にから1982年にこの展示が始まるまで、
70年以上にわたり、完全に閉鎖されてたのだとか。

さて、ここに入ってきたときには、先に見学してた人がいたのですが、
間もなく誰も居なくなってしまい、貸切状態に。

朝早くだからか、と思ったのですが、二日目に同じような時間に行った
セント・ポール寺院は日本人で溢れてたわけで、人気ないんでしょうか、ここ(笑)。
個人的には、セント・ポールより面白いと思うんですけどね。



この廊下(?)の左右には、テームズ川にまつわるさまざまな説明のパネルがあります。
これは例のテームズビーチの解説。
読めないと思いますが、複数の言語で書かれた説明の一番下は日本語です。

で、左側の2枚の写真が当時のもので、ご覧のように子供達に大人気。
衛生的な問題、あったと思うんですけどね…。


ちなみに右端の少年はその跡地で調べ物をしてるところらしいのですが、
その手に持ってるのは骨です(笑)。
この海岸には骨がある、ってのはどうも周知の事実らしいですが、
やっぱりその理由はどこにも書いてありませんでした。



ちなみに西側を見ると、もう一本の橋が視界をふさいでおります。
良く見ると、ハスに交差する鉄骨の組み方が上下対象になってないですが、
これは下側は手すりで一部隠れてしまっているため。


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