■三社祭



2000年前の東京は海の底。
これは教科書なんかではサラリと書かれてるけど、
実はもの凄いことなんだが。
まあ、いい。
で、1000年前の東京も半分くらいは海の底。
やがて、歴史上もっとも有能なタヌキこと家康さんが江戸に来て、
ようやく人が増えたら地面も増えた。
さて。

浅草といえば現在では東京都心、チャキチャキの江戸っ子の聖地だが、
その歴史は実はかなり浅い。
都市部に組み込まれたのはおそらく明治期以降で、
それ以前は典型的な郊外だった。
ペリーが来た嘉永六年、1853年の浅草周辺の地図が残ってるが、
浅草寺の裏はいきなり田んぼが広がってる。
川沿いは寺だらけだし、ちょっと北には田んぼに浮かぶラピュタこと(新)吉原がある。

浅草周辺に一般住宅が建ち並ぶのは明治20年ころからではないだろうか。
逆に未開発の地域だったから、あれだけの歓楽街が造れたのだろう。
ここら辺は昭和期の新宿と似たような事情だったと思われる。

なので、浅草の人たちは、厳密には「江戸っ子」ではない。
東京っ子なのだ。
江戸っ子、となると少なくとも日本橋周辺から神田、上野あたりまでと見るべきで、
現代ではもう完全に都心に飲まれてしまっており、事実上、絶滅した。
三代続く「江戸っ子」は夢物語に近い。明治以降に引っ越して来たのは、みな東京っ子である。
ついでに、江戸期に月島は無く、佃島は完全な漁村で、これまた江戸っ子の下町とは異なる。
そもそも、江戸と呼べるエリアは非常に狭いのだ。
新宿、渋谷、池袋、品川、錦糸町、みんな江戸エリアの外である。
明治15年の段階で、これらは東京市にさえ入ってない(錦糸町だけはギリギリ入った)。

首都圏在住の人間が持つ「浅草」のイメージは、戦後に「造り上げられた」ものが多い。
たとえば、いつの間にやら浅草の象徴になってしまった「雷門」だが、
あれは昭和35年に、なぜか大阪人の松下幸之助さんが寄進したものだ。
それ以前は?
震災で崩れた?戦災で焼けた?
実は1865年、明治になる前に焼けてしまい、昭和35年まで、100年近くそのままだったのだ。
ウチの婆ちゃんに言わせると、あんなもん建てたから、
人の流れが仲見世方向にに変わってしまい、
東京一の歓楽街だった浅草六区は凋落したんだよ、との事だったが、これは余談。




で、そもそもの三社祭は、三代将軍家光が贈った神輿が三神あったことに由来するらしい。
これは戦災で灰となった。

その将軍様にいただいた神輿は、当然、三社祭に使ったわけだが、
江戸期には浅草神社から江戸市中まで運ぶのが大変で、
隅田川を船で下って運んだ、というから、浅草は、やはり江戸の郊外だったのだろう

江戸期の三社祭は、知られている限りでは、最長40年近く中断していた時期があったし、
定期的に行われていた時代も1年おきだったようだ。
余談だが、昭和13年から23年までも戦争により中断している。
基本的には、山車を引いてのパレードだったようで、
やはり、今のように派手で「江戸っ子」を前面に押し出すような祭りになったのは、
大正から昭和期にかけて、と見るのが自然だろう。
当然、そこには「歓楽街」にはつき物の、ボディペインティングをユニフォームとする
目立つこと大好きな特殊団体の皆さんが関わってくるわけだが、
ここでは、この点に関してはこれ以上、深入りしない(笑)。

まあ、それでもこの祭り独特の雰囲気があるのは事実で、神田祭の正当な後継者は、
現代の神田祭ではなく、三社祭である、という点に異論はない。

さて、前置きが長くなりすぎた。
そろそろ、本題に入ろう。


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