スピットファイアのエンジンたち

第二次大戦期にとにかく大量に造られた機体、といえば3万機以上造られたドイツのMe109
ソ連のIL-2シュトルモビクなどが思い浮かぶ。
まあ3万機を超える、というのは、尋常な数ではない。
全長10mの機体なら、縦一列に並べると、その長さは300kmを超すことになる。
1号機の横に集合して、君の乗機は30000機目だ、などと笑顔で言われた日には、
自分の機体の場所に行くのに、新幹線で1時間半、高速をスピード違反で吹っ飛ばして2時間、
自転車なら15時間程度で、歩くと75時間だから、実に一週間はかかるのである。
どうしろってんだ(笑)。

では航空機に搭載されるエンジンの生産数はどうなるのか。
このマーリン、その生産数を調べると、
アメリカでライセンス生産されたパッカード マーリンも含めて実に168,000近い数になる。
10万を軽く超えてしまっているのだ。
戦闘機のエンジンは事実上、消耗品なので、1機の機体に対し
エンジンは2台以上ぐらいに考えた方がいいのだが、それにしても膨大だ。
実はマーリン、後継エンジンのグリフォン登場後も生産は続けられ、
戦後には500、600、700シリーズといった民間機用のラインナップまで登場した。
その能力、生産数ともに、まさに空前絶後のエンジンなのだ。






アメリカの高級車メーカー、パッカードがライセンス生産したマーリン、
いわゆるパッカード マーリンであるV-1650。
なんかシリンダーヘッド部に堂々とロールス-ロイスの刻印があるのだが、
ダックスフォードの解説板でパッカードマーリンと断言してたから、多分、そうなのだろう(笑)。
本国では数え切れないほどのバリエーションを作り、
ご丁寧に片っ端からスピットに搭載していったが、
P51ムスタングは2段2速過給器を搭載した後のマーリンエンジンだけ
基本的には3タイプしか採用していない(試作機を除く)。
P-51B&Cに積まれた1650-3、D&Kに積まれた1650-7、Hに積んだ1650-9だ。
1650-9には改良版の9Aというのが存在するが、
ロールス-ロイス社の狂ったようなラインナップに比べれば、はるかにシンプル。
写真のエンジンの赤い部分は排気管やら補器類やらがつながる部分を示す。



マーリンエンジンの開発は、冷却問題などにトラブルを抱えながらも確実に進み、
1934年の7月には早くも試運転に成功、形式認証試験も合格し、正式採用の見込みが立つ。
冷却問題については、前に書いた、沸点の高いエチレングリコールを冷却液に採用することで解決を計った。

最初に造られたプロトタイプエンジンはマーリンAと呼ばれ、後に試作型はマーリンGまで続く。
が、実は最終の一つ前にあたるF型がすでにマーリン I として正式採用となっていた。
最後のGはマーリンII となったようだ。
この段階でのスペックは高度4000mで790馬力(HP)、というものだったらしい。
ここから次々に改良が加えられて行き、1935年の2月には950馬力(HP)を達成、
この段階で当時設計の進んでいたハリケーンとスピットファイアへの搭載が正式に決定した。
最終的に正式採用となるマーリンIでは、87オクタンの燃料を使用して、
高度5400mで1030馬力(HP)というスペックとなる。
この段階では、後のマーリンの発展を支える過給器は、まだ1速で、単速式に過ぎなかった。
ちなみに1937年に、陸上機による速度記録を、まだできたばかりのスピットファイアで打ち立てる、
というプロジェクトが行われたのだが、この時使われたマーリンII をベースにフルチューンされたエンジンは、
2160馬力(HP)を絞り出し、マーリンエンジンのポテンシャルの高さを予感させている。
日本じゃまだ昭和12年の段階であった。

さて、マーリンエンジンの優秀さは、エンジン本体だけではなく、その過給器にもあった。
ご存知だと思うが、高度が上がれば上がるほど、空気は薄くなる。
空気とガソリンの混合気に高圧をかけ、プラグの火花で爆発を起こす、
というピストン式エンジンにとって、これは重大な問題だった。
薄い空気ではシリンダー内でまともな爆発が起きなくなる。

すでに第一次大戦の段階でこの問題は発見されており、羽根車、まあ換気扇のようなものを使って
空気をガーッと、シリンダーに詰め込む、という過給器は採用されていた。
第二次大戦前後のエンジン開発は、ある意味、これら過給器の高性能化の戦いという状況になってゆく。

で、その過給機には二つの方式があった。
簡単に言うと、エンジン動力、クランクシャフトの回転を使って過給器を回すスーパーチャージャーと、
シリンダーから吐き出される排気ガスの風圧を使って過給器を回す排気タービン、すなわちターボの2系統だ。
ここら辺をきちんと書くと、また原稿の終わるメドが立たなくなるし(泣)、
私自身の知識も怪しいもんなので、仔細は省く(涙)。
結論から言って、アメリカ以外の国では、スーパーチャージャー方式が主流だった。
これはエンジンパワーを多少なりともロスしてしまうのだが、
技術的なハードルはやや低めで、排気タービンよりは小型化しやすい、というメリットがあった。
ちなみにどちらであれ、根本的な能力差というのは存在しないので、
「ターボが実用化されなかったので高空での飛行が困難だった」
という未だに見受けられる、日本機に対する考え方は間違っている。
日本は「過給器」そのものがヘッポコだったのであって、ターボチャージャーがダメでも、
スーパーチャージャーで代用はきくのだ。
そして、実際にマーリンエンジンはそうしている。



B24に積まれている排気タービン。
エンジンからすごい勢いで噴き出す排気ガスで羽根車を回し、
その先に付けた別の羽根車で空気を圧縮するだけ、
といえばその通りなのだが、いろいろと複雑な要素が絡んで、
その実用化にはどの国も手こずった。
1920年代から、「空気圧縮タービンのゴッド閣下」ことサンフォード・モス(日本じゃ無名…)の指揮下で、
その開発に当たってきたアメリカの将軍電気ことジェネラルエレクトリック(GE)のみが量産化に成功。
第二次大戦中、アメリカの重爆撃機とP38、P47などに使われた。
他国では、事実上、実用化されていない。


マーリンは、それに搭載されていたスーパーチャージャーの優秀さで、
第二次大戦全般を通じて、第一線にとどまることができたと見ていい。
その基本は1935年、ファルマン(Farman)社からライセンスを購入して採用した2速加給器(2-speed drive)だった。
当時としては、低速時から始動でき、エンジンパワーのロスも最小限になっていた、
ということだが、すみません、専門外なのでよく知りません(ヘタレ)。
このタイプの過給器は、マーリンのXから搭載されている。

で、その後の過給器の開発において、大きな働きをするのが、あの“サー” スタンリー・フカー(Stanley Hooker)だ。
後に垂直離着陸機、ハリアーに積まれたペガサスエンジンの開発で、一躍名を馳せる事になる彼だが、
(1949年にブリストルに移籍後。後にまた帰ってくるけども)
その最初の大きな仕事が、マーリンの過給器まわりの開発だったのである。
ただし、彼自身は2年ちょっとでチームを去って、以後はジェットエンジンの開発に移ってしまう。
と、ここまで書いたが、彼も、どーも日本では無名なようだなあ…。




垂直離着陸可能なハリアーに積まれてるペガサスエンジンは、
通常のジェットエンジンとは違い、後方に向けたジェットノズルが無い。
ハリアーの後部はプロペラ機のように細く絞り込まれてしまっているのだ。
んじゃ、どうやって推力を得て飛んでるねん、というと、それを説明するには
最低限、ターボファンエンジンの理解が必要となる。
ここでは、世界人類の126%は目をつぶっていてもターボファンエンジンの組み立てができる、
という最近の世論調査(by私)に基づき、いきなり説明に入る。入るぞ。

まずターボファンエンジンのファンの真後ろから、いきなりその出力(送風)を行ってしまい、
これを前部のダクトから噴出させる。
(厳密には一部を駆動用にエンジン後部に送っている)
上の写真で主翼の下にある2つのノズルのうち、前方にあるのがそれだ。
無論、機体の反対側にも同じ位置にノズルがある。

さらに通常のジェット排気はエンジンの真後ろに出さず、二股に分かれたダクトに吹き込ませ、
これまた機体左右のノズルから噴出させる。
上の写真で後方にあるノズルがそれだ。
これによって、機体の横腹4箇所から機体を動かすための推力が発生し、
バランスよく機体を持ち上げることができる。
さらに、このノズルの向きを下方向から横方向にまで変えることができ、
垂直離着陸と水平飛行を一つのエンジンで可能にした。
1960年に初飛行をおこなってから50年近いが、別エンジンやファンの類を必要とせず、
単体でジェット機のVTOLが行えるシステムは、未だにこれしか実用化されてない。

この開発の中心となったのが、
マーリンエンジンの過給器周りを作り上げたフカーなのだ。

1937年にロールス・ロイスにフカーは入社し、
まもなくマーリン用スーパーチャージャーの開発に関わるようになった。
余談だが、フカーはロールス・ロイス入社直後からその活躍が始まる、という
「恐るべき新入社員」だったのだが、実は学究生活が長くて(笑)、この段階で既に30歳だった(1907年生まれ)。
まあ身につけた学問を、最高の形で活かせた、という意味ではフカーほど幸運な男も珍しいだろう。

さて、数学と流体力学に深い知識のあったフカーの参加により、
マーリンは超の字がつく一流エンジンになってゆく。
彼が開発に関わった、2段2速過給器(Two Stage, two speed)を採用したマーリン60以降と、
パッカードのV-1650以降のタイプで、マーリンエンジンは一つの頂点を迎えることになる。
高空性能も、そのパワーも、すべてにおいて高いレベルでバランスが取れていたのだ。
これらはスピットファイアMk.IX(9)、さらにP51ムスタングという傑作機に搭載されてゆく。

パワー、高空性能ともにすでに十分となったこの後は、主に高出力に耐えられるような、
エンジン強度の向上が改良ポイントとなって行ったらしい。

また、エンジニアの人たちに言わせると、マーリン、吸気、排気まわりのデザインがよく出来ており、
「空気の流れ」がかなり計算されてるように見える、との話がある。
正直言ってケストレルエンジンに源流があるロールス-ロイスのエンジンたちに、
その手の技術が組み込まれていた、という話は聞かないし、
当時のエンジン設計者に流体力学の専門家がいたとも考えがたい。
フカーがマーリンの開発に参加したのは1938年以降、
その成果が現れるのはマーリン45以降なのだが、
2段2速過給器がついたマーリン60以降のタイプや、パッカードマーリンあたりでは、
既に彼の手によって排気、吸気まわりがいじられていたのではないかとも思う。
証拠はないけれども(涙)。
初期のマーリンと60あたりを分解して並べた写真があれば一発なのだが、
残念ながら、そんな都合のいい資料は見つからなかった(笑)。



さて、ちょっと余談。

当時、イギリス初のジェットエンジンの試作は、自動車メーカーのローヴァーに発注されていた。
まあ、これは無理な話で、やはり全くパーツ制作ができなかった。
航空省の連中は、ジェットエンジンをピストンエンジンの延長ぐらいにしか考えてなかったのだろう。
結局、エンジンテストすらままならなかったらしい。
これにキレた開発責任者である「イギリスのジェットパパ」ことフランク・ホイットルが航空省を通じて
ロールス-ロイスに協力を要請したようだ。
ジェットエンジンの心臓部はようするに羽根車(タービン)で空気をギュっと圧縮するのが仕事なので、
実は、スーパーチャージャーなどの過給器と構造的には似た部分が多い。

で、この事態に今度はローヴァーがトサカに来て、ジェットエンジン開発を放棄、
ロールス-ロイスの戦車用エンジン、ミーティアを生産していた工場と引き換えに、
彼らのジェットエンジン工場をロールス-ロイスに引き渡してしまう。
この時、1941年にフーカーはホイットルに紹介され、その研究に完全に魅了されてしまったようだ。
で、その後は、42年から、ジェットエンジンの開発へと移行してしまうのだが、
まあこの段階では、既にマーリンは円熟期に入っていたと考えていいだろう。

本来、ジェットエンジンとは無縁もいいとこだったロールス-ロイスが
その事業に乗り出せ、後に同社の主要事業に育て上げることができたのは、
フーカーを採用出来た事と、このローヴァーのヒステリーのおかげなのだ。
この後の展開もそれなりに興味深いのだが、
またドンドン本題から離れて行く気がするので(笑)、ここではこれ以上述べない。


ちなみに有名な話だが、マーリンのキャブレターはマイナス(ネガティヴ)Gの状態になると働かなくなり、
エンジンが停止してしまう、という致命的な欠点があった。
マイナスG、というのはエレベータ、あるいはジェットコースターなどで下降してる時に、
一瞬、からだがふわっと、浮きあがるような状態だから、飛行機では急降下時などに発生する。
これは致命的だった。
ドイツパイロットはすぐにこのことに気づき、やばいと思ったら急降下ダイブで逃げてしまう。
マーリンエンジン搭載の機体では、これを追撃しようにも、エンジンが一時停止してしまうため、打つ手がなかった。
逆に言うと、スピットファイアの側は、急降下で離脱したら、確実にドイツ機にカモとされてしまったのだ。
これは後に単純な工夫で解決されるのだが、結局、スピットファイアの全盛期においては、
この問題は未解決のまま残されてしまうことになる。

余談だが、スピットファイアのVが、1943年にオーストラリアでゼロ戦に惨敗をきっしたことがある。
これは両者とも急降下が苦手、格闘戦が得意、という機体で行われた、貴重な戦闘だった。
スピット側のパイロットは、ドイツ機との戦闘では格闘戦に持ち込め、
ということを叩き込まれていたはずで、おそらくその通りに闘ったのだろう。
だが、相手のゼロ戦乗りはベテラン揃いで、格闘戦はまさに待ってました、という状況だった。
まあ、スピットファイアと経験の浅いオーストラリア人パイロットにとってはこれ以上ない、不幸な出会いだったと思う。
速度を生かして一撃離脱に徹していれば、あそこまで悲惨な結果にはならなかったはずだ。


■グリフォン エンジン

スピットファイアに搭載されたもう一つのエンジン、37リッターで2000馬力と言う、
グリフォンエンジンの開発は1940年6月には一応の完成を見ていた。
が、どうもこのエンジン、ロールス-ロイス社でも積極的に開発していた様子が感じられず、
一時のつなぎ、と考えていたマーリンが予想以上に高性能なったので、そっちで手一杯だったように見える。
そもそも、本来は低高度用大出力エンジンとして考えらていたらしく、
実際、多目的艦載機、というか使い道のよくわからない(笑)ファイアフライにまずは採用された。



多目的攻撃機、とでも言えば聞こえがいいが
一体何がしたかったのかイマイチわからんフェアリー ファイアフライ。
グリフォンエンジン、イキナリこんな機体に搭載してるあたり、あんまり期待されてなかったような気も…。



だが、1939年になって、ミッチェルの後をついでスピットファイアの開発を続けていたジョー・スミスから、
スピットファイアにも積みたい、という打診があり、ロールスロイスはようやくその開発を加速させたようだ。
1941年には実験機のスピットファイアMk.IIIに搭載して、初飛行までこぎ着けている。結果は良好だったらしい。
だが、なんせマーリンが優秀すぎて(笑)、その後の開発もややマイペースとなり、
2段3速(two-stage, three-speed)過給器まで搭載するものの、主流エンジンとなるにはいたらなかった。
実際、空軍機で採用されたのはスピットファイアの後期型くらいで、あとは海軍の例のファイアフライ、
戦後に開発された大戦哨戒機、アブロシャックルトンくらいにしか使われていない。
優れたエンジンだったとは思うが、マーリンと同時代に産まれたのが不幸だった。
ケンシロウに対するトキみたいなもんだろうか(違います)。


 
そのパワーの割には小型で、スピットに搭載することができたグリフォンだが、
さすがにそのままでは入らなかった。
シリンダーヘッド部のはみ出しを収めるため、
グリフォンエンジン搭載のスピットには、機首上部に細長いコブができることになる。


はい、今回はここまで。
次回、ついにスピットファイアに名前が付くぞ!

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