■スピットファイアへの道




ロンドンのRAF博物館に展示されている「第二次大戦当時の技術者の部屋」。
ダムバスータズこと617飛行隊がメーネダム爆撃に使ったことで知られる、
大型スキップボム爆弾の設計者が使っていた部屋を再現したもの。
ミッチェルやロイスもこういう空間で仕事をしていたのかもしれない




スピットファイアは、強力な心臓、流麗なボディ、時代を先取りした翼を持って産まれ、
その時代の、その場所でしかできなかった活躍により、イギリスを救った。

この機体を生み出すのに、大きな役割を果たした男が二人いる。
機体を作り上げたR.J.ミッチェル(R. J. Mitchell)と
心臓部であるエンジンの基礎を作り上げたフレデリック・ヘンリー・ロイス(Frederick Henry Royce)である。

彼らは階級意識の強く残る、20世紀初頭のイギリスの社会で、
エリートでもなく、一流の教育を受けることも無かった。
だが、二人とも、必死に働き、学び、自らの力だけで這い上がり、
そして「成すべき事」を全て片付けると、あっさりこの世を去ってしまう、
という不思議な共通点を持っている。

書いてたら予想外に長くなってしまったので、とりあえず一人ずつ紹介したい。

まず、そのうちの一人、スピットファイアの主任設計者であるR.J.ミッチェルは、
1895年に教師夫婦の子として生まれた。
16歳で鉄道会社に入ってから、夜学に通い、そこで自らの数学的才能に気づいたらしい。
1917年、22歳の時にサザンプトンにあったスーパーマリン社に職を得ることに成功する。
当時はほとんど無名に近い会社で、だからこそ潜り込めたのだろうが、
この出会いは、ミッチェルにとっても会社にとっても極めて幸運なことだったように思われる。
入社後の彼の活躍はめざましく、小さな会社だったとはいえ、25歳にしてチーフデザイナーの座に着く。
彼がチーフデザイナーになった1920年から、その職を去る1936年までの期間、
その製作に関わった機体は実に24機種にもなるらしい。
ちなみに後のスピットファイアのサブタイプも最終的に24まで行ってしまうのだが、
これは一種の運命のいたずらみたいなものだろうか。
いずれにせよ、在職16年でこれだけの機体の設計を監督した勤勉さには、驚くほか無い。

彼は、シャイで人見知りが激しかったとも言われ、一度考え事を始めると一切口をきかなくなる、
といった、いかにも天才肌の技術者にありがちなタイプだったようだ。
ただ、人の話を聞く、提案に耳を傾ける、と言う点で、彼は非常に優れていたらしい。
ミッチェルの仕事のスタイルは、彼が造るべき機体の全体像をつかんだ後、
各部の設計は、適任者と見なした部下に引き渡し一任する、という分業制だった。
責任は自分に、権限は部下に、というスタイルだったらしく、
任せた後の仕事の結果ついて、ミッチェルが部下に非難がましい事を言ったのを聞いた事が無い、
という「伝説」が残ってる。

薄型楕円翼という、スピットのもっとも重要な部分の開発を行った、
ビヴァリー・シェンストン(Beverly Shenstone )もそんなミッチェルに見出された人間の一人だ。
カナダ出身のシェンストンは、大学卒業後、一時ドイツで働いていたが、
その後、イギリスに移り住むため、職を探していくつかの航空会社を訪れている。
この時、シェンストンが先に訪れたのは「あの」“サー” シドニー・カムの方だった。
だが、カムは目の前の男の才能を見抜けず、シェンストンはミッチェルの元にやって来ることになる。
また、後にスピットファイアの開発チームを率い、その発展改良を支え続けることになる、
スピットの「育ての親」ことジョセフ(ジョー)・スミス(Joseph ("Joe") Smith )も
ミッチェルにその才能を見いだされた男の一人だろう。





イギリス帝国戦争博物館のダックスフォード分館にある「バトル オブ ブリテン館」、
そこに展示されてるスピットファイアの模型。
1/32クラスの大型のもので、最初は風洞実験用模型?とも思いましたが、
いくらなんでもこの主翼は分厚すぎ。
玩具とも思えないので、パイロットの識別訓練用か何かでしょう。
MK.Iですかね?



スピットファイアは、戦闘機の世界ではなんの実績もなかったスーパーマリン社が、
ミッチェルの力によって産み出した奇跡のような機体だ。
ただし、その誕生は極めて難産であり、まるでその誕生と引き換えるかのように、
ミッチェルはこの世を去る事になってしまう。

さて、31年にシュナイダー トロフィー レースは完全終了してしまった。
スーパーマリン社としては、会社の存続のために、新たな仕事を探さなければならない。
このため、その高速機設計の経験が活かせると思われた、
空軍向け戦闘機の開発を行うことに決定し、ミッチェルの指揮下で、すぐに制作に入ってゆくことになる。
ここらへん、親会社になっていたヴィッカースの意向もあっただろうと思う。
当初、かなり早いペースで設計は進んだが、やがて初めて制作した戦闘機、
社内名称224型(type224)は明らかに失敗作であることが判明する。
あきらめきれなかったミッチェルは、その後、何年かかけて改良を重ねたが、結局モノにならなかった。

悪い事は重なる。
ミッチェルの直腸ガンが発見されたのは、まさに224型がどうにもならなくなっていた、1933年のことだった。
その年の8月には大手術を受けることになってしまう。

最悪のタイミングだったと思う。
何もかもがうまくいかない、そんな思いに捕われてもしかたなかったろう。
手術により彼は日常生活にも困難を伴う体となってしまい、周囲は彼が主任設計者を引退するだろうと思った。
あるいは自宅療養しながら、個人でできる範囲で仕事を続けるのではないか、と考えた者もいた。
スーパーマリンに多額の投資をしていた、親会社のヴィッカース-アームストロングも気をもんだことだろう。
しかし、これらすべての予測は、ミッチェル自身の手で葬り去られる。
ミッチェルの心は折れず、くじけず、病への敗北を認めなかったのである。

手術後、退院すると間もなく、彼は当然のように職場に復帰する。周囲は驚いただろう。
彼の体に必要な医療器具、全てを入れたバッグを常に傍らにおいての勤務だったと言う。
それだけではない。
なんとか一命を取り留めた手術からわずか3ヶ月後の1933年11月に、
ミッチェルは航空機操縦の訓練を受け始める。
1934年6月にはパイロット免許を手にいれてるから、
健康体とはほど遠い体で、相当な努力があったはずだ。

他にも見逃してはならないことがある。

シュナイダー トロフィーが終わった後の彼の業績としては、常にスピットファイアがついて回る。
だが、最初に書いたように彼が16年間でその手をかけた機体は実に24機にもなるのだ。
手術から復帰した後も、ハイペースな航空機開発は続いていたのである。
1933年から亡くなる36年までの間だけでも、前回紹介した複葉飛行艇Stranraer、
さらに社内名称でB12/36という、4発エンジンの大型爆撃機の設計まで行っていた。
計画的にはランカスター並みの爆弾を搭載し、時速600km近くを出す気だったらしい。
この爆撃機は、1940年9月、試作一号機の制作中にドイツの爆撃で破壊され、そのまま開発は中止となったようだ。
これら全ての仕事は、スピットファイアの開発と平行して行われていた。
恐るべきバイタリティーの持ち主である。

彼のユニークな点は、仕事にも熱心だったが、息抜きも十分に取っていた、という点だろう。
ひたすら仕事に熱中するだけではなく、家族ともよく出かけたし、手術後もテニスなどをやっている。
中でもヨットは、彼のお気に入りだったらしい。
勤務時間中に職場を抜け出し、工場の前にある海でヨットに乗っているのを、何度も目撃されている。
ミッチャルは、ガンの手術から復帰した後も、熱心に仕事に励んだだけでなく、
全てにおいて、つとめてこれまでと同じ生活を続けようとしていたようだ。
病気に負けて、人生をあきらめる、というのを断固拒否していたようにも見える。

しかし、やがて彼は自らの命の「残り時間」に気づく。
そして「スピットファイア」という機体を産み出す事に、その残された情熱のほとんどを捧げる事になってゆく。

さて、ミッチェルたちの開発陣が224型に見切りをつけ、
後のスピットファイアの原型となる社内名称300型(Type300)の設計に入ったのは、
おそらく彼が手術から復帰した1933年末以降のことだと思われる。
そんな中、ミッチェルは1934年、新聞に彼のイギリス航空界に対する考えを寄稿している。
「イギリスの航空機はレースなどには強かったが、大量生産される機体は、アメリカやドイツに比べ優秀とは言えない」
と言う主旨からなるその内容は、彼の本音だったろう。
この前年にドイツではナチスが政権を奪取しているから、なんらかの危機感があったのかもしれない。
とはいえ、彼がどこまで戦争を予感していたのか、正直わからない。
少なくとも1934年の段階で、世界大戦を予測するのは簡単なことではなかったろうと思われる。

同時に、このころからミッチェルは、衰え始めた自分の体に、気づいてたように見える。
自らに残された時間を、必死の想いで計算しただろう。間に合わないかもしれない、という焦りもあったはずだ。
彼は「スピットファイア」の完成に向け、その仕事のペースをあげて行く。

ロールスロイスが開発していた新型エンジンを搭載し、さらに引き込み脚を採用、
コクピットも密閉型にした新世代戦闘機として、300型、後のスピットファイアの開発はスタートする。
やがて1935年の初頭には設計がほぼ終了、すぐに実寸大模型の完成にまでこぎ着けることができた。
この段階でロールスロイスの新型エンジンPV12、のちのマーリンの原型もなんとか完成。
一時、どうなるかと思われていた冷却問題も、冷却液に沸点の高いエチレングリコール液を使うことで解決、
スピットファイアは、ついに最強の心臓を手に入れる。

1935年、ミッチェルは一年間を通し、スピットファイアを完成だけさせることだけに没頭した。
地上審査において、空軍から主翼に大幅な修正要請が入るものの、
先に紹介した空力担当のシェンストンが薄型楕円翼の採用を提案、
ミッチャルはこれを受け入れ、実際の主翼の構造設計を、
後にスピットファイア改良チームのリーダーとなる彼の片腕、“ジョー”・スミスに一任した。
ミッチェルが見出した才能たちは、見事にその期待に応える。
彼らの活躍によって、主翼改造という難事を無事に切り抜けることに成功し、
早くも翌年の1936年3月5日 、スピットファイアは初飛行を行うところまでたどり着く。
初飛行時に垣間見せたその高性能ぶりは、空軍関係者を驚かすに充分だった。
やがて第二次大戦を戦い抜くことになるスピットファイアは、ここに完成を見たのだ。
ミッチャルは間に合ったのである。

だが、ミッチェルの自らの余命に対する計算は、残酷なまでに正しかったことが判明する。
ようやくスピットが初飛行を終えた直後、1936年に彼の体は再びガンに蝕まれていることが発見された。
この時、入院も手術もミッチェルは受けつけなかったらしい。
彼は自分の寿命を、あとに残された最後の時間を、完全に把握していたのかも知れない。
36年中、ミッチェルは仕事を続行する。
その後のスピットファイアのテスト飛行は順調にこなされ、量産化も決定。
ジョー・スミスは自分の仕事はMk.II からだった、と言ってるらしいので、
おそらく、最初の生産型にして基本的な完成系であるMk. I までは
ミッチェルが設計全般を行っていたと考えてよいだろう。

翌1937年2月、ミッチェルはついに倒れ、ロンドンの病院に運び込まれる。
だが、彼はすぐに病院を出て自宅に戻り、最後に残された仕事を片付けに入ろうとする。
しかし、さすがにもはやこれ以上は無理だった。
この頃から自宅療養を余儀なくされるのだが、それでも何度か車で飛行場に向かい、
テスト飛行にも立ち会っていた、というから、もはや執念に近い。
同年4月には最後の望みをたくし、ウィーンに治療のため向かうが、
当時の最先端医療でもすでに打つ手はなく、まもなくイギリスに帰国。
あとは静かに自宅で過ごした。

1937年6月11日、鋼の意志を持った男はガンとの苦痛に満ちた戦いを終え、永眠。
その死の4ヶ月前まで、最前線で指揮を取り続けたのは、壮絶と表現するほか思いつかない。
最後の一ヶ月、自宅の庭で初夏の草花を見て過ごす事を好んだ、という話が残っている。

戦争は目前にまで迫っていた。
その中で、まだ42歳の偉大なる才能を、イギリスは失ったのだ。

彼の死後、2年を経て戦争は始まり、やがて絶望的な状況の中で1940年の夏が訪れた。
ヨーロッパの大半はすでにドイツの手に落ちている。
アメリカは議会の反対で身動きが取れず、援軍はおろかまともな物資の支援すら期待出来ない。
イギリスの味方は、ヨーロッパにも、世界にも、どこにもいなかった。
チャーチルの強気の発言は、裏返せばイギリスがいかに追い込まれているかを雄弁に物語っているのだ。

無敵のドイツ空軍、ルフトバッフェをバックに、ゲーリングは自信満々にイギリスを粉砕すると息巻いていた。
やがて突き抜けるようなヨーロッパの夏空をバックに、空を埋め尽くすドイツ機が押し寄せてくる。
この状態でイギリスに何ができるのだろう?
大陸では完膚なきまでに叩きのめされ、イギリス陸軍はダンケルクの撤退戦で、その主要な装備の多くを失っている。
誰もが口には出さなかったが、その顔には不安がのぞく。
果たして、空軍は勝てるのだろうか?

少数の空軍関係者だけが、その答えを知っていた。

数はまだ充分とは言えなかったが、彼らはスピットファイアという、
冴えない名前で呼ばれる戦闘機をこの時のために温存していた。
美しいフォルムと、視界の悪いコクピット、そして力強いエンジン。
流麗な楕円翼で夏の空気を切り裂き、北緯50度の蒼空へ、それらが次々と舞上がって行く。
それは鋼の意志を持つ男が、己の命を削りながら、その余命を必死で計算しながら、造りあげた戦闘機。



負けるはずがなかった。



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