機体正面から。
エンジンカウルの上にあるのがエンジン用(過給機に繋がる)の空気取り入れ口、下側に開いてるのがオイルクーラー用の空気取り入れ口。これがかなりの面積を占めており、機首部が絞り込めなかった原因となってるように見えます。

主翼の付け根にある穴も謎で、これの意味が未だに分かりません。紫電と紫電改はガンカメラ(日本海軍の言う写真銃)は主翼の上に取り付けるので、この穴は違うはず。なんでしょうね、これ。

巨大なプロペラスピナー、プロペラ中央のカバーの中には住友VDMプロペラの可変機構が入っており、これが速度ごとに最適なプロペラの取り付け角になるようにしてます。本来はドイツのVDMプロペラ装置をライセンス生産したものなんですが、住友による国産化に辺り、電動式から油圧式に動作方式が変わってます。

ここで余談。
ホンダの本田宗一郎総司令官が戦時中、エンジン用ピストンリングを製造する会社を経営していたのはよく知られてますが、実はプロペラの製造にも関わったことがありました。といってもプロペラを造ったのではなく、その製造装置です。

まずは木製プロペラの自動切削装置を造りヤマハに納入、それまで職人の手作りだったものを機械製造に切り替え、数十倍の製造効率を達成したとされます。
さらに大戦末期に陸軍がヤマハに試作させた新型定速プロペラの製造用機械の試作にも関わってます。この新型装置ではプロペラを動かす筒部の仕上げが極めて難しく、これにヤマハが苦戦していました。この時、浜松に居た本田宗一郎さんが「ねじ面仕上げ用のラップ盤」の設計を提案、その制作に取り掛かっています。ただし「ねじ面仕上げ用のラップ盤」なるものがどんなものか、私はよく知りませんが。
残念ながら終戦によってこれは完成しなかったのですが、後のヤマハとホンダの関係を考えると、戦時中とはいえ協力関係だった事もあったのかと感慨深いものが。

ちなみに知ってる人は知ってると思いますが、ヤマハは昭和に入ってからは住友と並ぶ二大プロペラメーカーでした。住友が主に海軍だったのに対し、ヤマハが陸軍担当です。この辺りの事情は、もともとは航空機用の木製プロペラの加工技術がピアノの加工技術に近かったため、ヤマハに白羽の矢が立ったからでした。その流れから陸軍向けの金属製プロペラもヤマハが担当しています。本来なら楽器屋であったヤマハの工場が執拗に米軍の爆撃対象になった理由がこれです(その前に東南海地震でも打撃を受けていたが。ついでに言えば海岸線から5q近く内陸にあったのに、日本楽器(ヤマハ)の本社工場は1945年(昭和20年)7月末にアメリカ海軍から夜間艦砲射撃を受けている。アメリカ海軍恐るべしだろう)。

さらにちなみに戦後にヤマハから独立したバイク屋さん、ヤマハ発動機の始まりは、このヤマハ社内のプロペラ製造部門です。
ヤマハのプロペラ工場は終戦後しばらく占領軍に押収されたものの、後に返還されます。磐田の疎開先だったので幸い、被害は少ないままでした。ただし当時はちゃぶ台などの木製加工品で生き延びていたヤマハにはこの工場の機材の使い道がなく、これを活用するため、自転車用エンジンのヒットで急成長したホンダに追随することにしたのが今のヤマハ発動機、二輪のヤマハの始まりとなります。ちなみに、この時、ホンダは気前よくベンリーエンジン工場の見学をヤマハの関係者に許してました。…感慨深いですね。



プロペラ周りと機首部。あまりにキレイ過ぎますが、ほとんどがオリジナルの部品を再生して使ったものとされてます。ただしエンジンカウルの上半分はほぼ新造のようです。

注目は下側のオイルクーラー用空気取り入れ口。
よく見ると、さらにその下にもう一つ口があり、その奥にハチの巣状のオイルクーラーが見えてます。すなわち、手前の大きな口と、その下にさらに小さな口がある、オイルクーラーに対して二つの空気取り入れ口があるのです。他に例を見た事が無い設計で、なんでこんな構造になってるのか、全く判りません。まあ、不思議な戦闘機です。



もうちょっと上から。
作業口と書かれたフタはの上には減速器(プロペラ先端が音速を超えないように歯車で回転速度を落す。同時に大小の歯車のトルクを使ってより大きな力を生じさせる)のオイル溜まり(オイルパン)があるので、そのオイル抜き、あるいは整備用のものだと思われますが、詳細は不明。

エンジン前に見えてる、黒やら銀色やらのいろんな線が接続されてる黒いパイプには電線が入っており、ここからプラグなどの電源を取ってます。ちなみに、この配管は白が正しいような気がするのですが、明確な資料を見たこと無いので断言はしません。

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