■NASAのなさった事の足あと

さて、ジュピターロケットでアメリカの宇宙開発の主導権を握ったブラウンたちは、
直後の1958年7月にNACAを再編して誕生したNASAにおいて、
(実際の活動開始は少し遅れて1958年の秋から)
人類発の有人宇宙飛行の成功に向けて邁進する事になります。
まあ、ブラウンにとっては子供のころの夢ですから、願ったりかなったりだったでしょう。

ただし、この段階までに、宇宙飛行に関しては、
アメリカはすでにソ連から大きく差を付けられてました。

1957年10月に人類初の人工衛星、スプートニクをソ連が打ち上げたのに対し、
アメリカがその最初人工衛星、エクスプローラー1号を
打ち上げたのが3か月後の1958年の1月でした。
これがブラウンたちの開発によるジュノー1 ロケットによるのは先に書いた通り。

この段階でソ連の宇宙開発の速さに驚いたアメリカがあわてて設立したのが、
その年、1958年の7月に誕生したNASAだったわけで、
当然、その最初の目標は有人宇宙飛行をソ連より先に成功させる、でした。
そのために最初に立ち上げられたのが1958年に開始されたマーキュリー計画でした。

が、今回もまた1961年4月にソ連がガガーリンの乗る有人宇宙船の打ち上げに成功、
人類初の宇宙飛行の栄誉もソ連に持って行かれてしまいます。
(ちなみに、その前にはライカ犬を載せた宇宙船の打ち上げ、回収にも成功してる。
よって地球生物史上、初めて生きたまま大気圏外に出た脊椎動物は人類ではなく犬なのだ。
ちなみに生きたまま、という条件でなければ、数回に渡る巨大隕石の衝突時の
大爆発によって大気圏外にはじき出された連中がかなりいるはず)

これによってアメリカは再び劣勢に立たされます。
とりあえず、ガガーリンの成功から4か月後、61年の5月に
アラン・シェパードを載せたマーキュリーカプセルを打ち上げるのに成功したものの、
これはV2ミサイルと同じで、弾道軌道で上まで上がって落っこちて来ただけでした。
ガガーリンが地球一周の周回飛行をしたのと比べると、かなり見劣りがします。
アメリカがようやく周回飛行に成功したのは、その後、9カ月もたった
1962年2月の事で、今度はジョン・グレンが飛行士となってました。

ちなみに、このマーキュリー計画には7人の宇宙飛行士が選抜されており、
彼らはマーキュリーセブンと呼ばれてました。
ただし、マーキュリー計画の有人飛行は6回だけですから、1人あまるのですが、
それがディーク・スレイトン(Deke Slayton)で、かれは選抜後に病気が発見され、
宇宙飛行を禁止されてしまったのでした。
が、この人も不屈の人で、後に病気を克服、1975年7月に51歳の高齢で
アポロ・ソユーズ飛行に参加、ついに宇宙飛行を実現させています。

余談ながら、マーキュリーセブンの内、宇宙飛行に成功した6人の名前は、
サンダーバードの5兄弟の元ネタになってます。
(アラン、スコット、バージル、ジョン、ゴードン)
が、なぜかウォルター・シラーだけがサンダバード兄弟に入れてもらってません(笑)。
なんででしょうねえ…。

ついでになぜかは知りませんが(笑)、50年〜60年代はセブンが大流行の時代でした。
まず1954年に7人の侍が公開され
(海外タイトルはSeven Samurai …侍って複数形の無い名詞なのか?)
1957年にロータスのやりすぎスポーツカー ロータス セブンが発売、
1959年にこのマーキュリー セブンが選抜され、1962年に映画007の一作目が公開、
1967年には宇宙からウルトラセブンがやってきて、
さらに1969年に日本でセブンスターのタバコが発売されてます。

余談ですが、個人的にはマーキュリーセブンの元ネタは
黒澤明の7人の侍じゃないかなあ、と思ってます。
(1956年7月にロサンゼルスで試験的に公開、11月に全米公開)



そのアメリカ初の有人宇宙船となったマーキュリーカプセル。
写真はスミソニアン協会が保有してる未使用の機体で、
現在はウドヴァー・ハジー センターで展示中。

この機体はマーキュリーカプセル フリーダム7 II が正式名称で、
本来はマーキュリー計画の最後、7番目に打ち上げる予定だったもの。
(カプセルはマーキュリーセブンに合わせて7機用意されてた。
ちなみにフリーダム7はマーキュリー7の7人から取られた名前で7号機の意味ではない
ただしスレイトンの病気のため、この7号機には再びシェパードが乗る予定だったらしい。
彼が最初に載ったカプセルがフリーダム7だったので、これはそのIIとなったようだ)

ところが、後で説明するケネディ月計画発動があって、
次のより大型なカプセルを使ったジェミニ計画が前倒しとなったため、
これが未使用のまま残される事になったのです。

なのでマーキュリー計画は約2年間に全6機の宇宙船を打ち上げて、
1963年5月の段階で事実上、終了となりました。

マーキューリー カプセルは直径1.854m、全長2.87mとかなり小型で、
よくまあこれで宇宙に行ったな、という感じです。
(スミソニアンの解説による。実は諸説あってNASAのデータはもっと小さいが
ここでは実際に計ったらしいスミソニアンの数値を信用する)

居住部の上、写真の右側に見えてる醤油のフタみたいな部分は、
地球帰還時に開くパラシュートの収容部。
居住部の中が見えるように透明のパネルが張られた部分は
乗降用のハッチがあった所。

ちなみに、地球帰還時には盛大に衝撃波を発生させ、
速度による運動エネルギーを熱に変換する事で機体を減速させるため、
左側の、機体のオシリ側から大気圏突入を行います。
とがった形状より、丸みを帯びてる方が盛大に衝撃波が出て、
凄まじい高温と引き換えに、運動エネルギーが熱に変換されることで、
十分な減速が行われるからです。
(自動車のブレーキなども、運動エネルギーを摩擦で熱に変えて
速度を低下させてるのだから、ある意味、原理は一緒か)

ここら辺りの衝撃波の研究にはNACA時代からのアメリカの得意技、
巨大風洞による実験が大きく貢献しています。

ちなみにスペースシャトルの軌道船が、超音速飛行機なのに
正面部が丸っこいのは、そういった意味もあります。

でもってこのマーキュリー計画時代のアメリカ大統領が
あのケネディでした(1961年1月就任)。
いろいろ暴走癖のあったこの人は、グレンがようやく地球周回飛行を終えた3カ月後、
1962年5月に、あの有名な“月に行く決意(The Decision to Go to the Moon)”
演説を行い、この1960年代末までに、
アメリカ人を月まで送り込む、と宣言したわけです。
これが後のアポロ計画に繋がって行きます。

この演説の内容をどこまでNASAが知っていたのか判りませんが、
常識で考えれば、無茶苦茶な話でした。
21世紀に生きる私たちは、アポロ計画の成功を知ってるので、
ああ、そうですか、位の印象しか受けませんが
当時の技術レベルで言えば、無謀という他ないのです。

そもそもブラウンがドイツでV2ロケットを初めて大気圏外に撃ち出したのが
1944年、となるとケネディの演説からわずか17年前のことです。
航空機で言えばライト兄弟の初飛行から17年後といえば1921年、
500馬力出るかでないかのエンジン使った機体が
鋼管羽布貼りの胴体と、複葉の主翼で、ヨタヨタと飛んでた時代でした。

アポロ計画は、そんな複葉、羽布貼りの飛行機の時代に、
音速超えの機体開発宣言をするようなもので、
技術的な観点から言えば、もうメチャクチャとしか言えませぬ(笑)。

実際、先にも書いたようにアメリカはようやく地球周回軌道に
有人宇宙船を乗せられるようになったばかりであり、
ソ連はもう少し先を行ってましたが、こちらはこちらで、
人命軽視の相当無謀な宇宙開発をやってたのも事実です。

が、とにかくこれによって、NASAのケツに火が付いた、という状態になり、
以後は人類史上、他に例を見ない巨大プロジェクトが、
“人を月に送り込む”というロマンのためだけに、約10年に渡り動き続けます。
(原爆計画もかなりの大規模だが、関わった人間の数、
掛かった年数を考えるとアポロの方が上だろう)

余談ですが、アメリカ最悪の時代、1960年代後半から80年代前半まで、
すなわちジョンソンから始まるダメ大統領4連星の後、
つまりレーガン大統領登場までの暗黒の約20年間の原因の一つが
実はアポロ計画ではないか、と個人的には疑ってる部分があります。

あの時代にアメリカが荒廃した要因はダメ大統領4連荘と
ベトナム戦争なのは間違いないところですが、
ベトナム戦争の膨大な戦費支出に加えて、
この無尽蔵の如く予算がつぎ込まれたアポロ計画も、
アメリカを崩壊寸前まで追い込んだ一因じゃないかと思ってます。
…ホントにあのタイミングでレーガンが出て来なかったら、
あの国はどうなっていたのやら。

ただしアポロ計画がアメリカに残した遺産はその後、
いろんな形で花開くのですが、ここではそこまでは触れませぬ。



ついでにこれも紹介して置きましょう。

宇宙船(カプセル)の底に張られてる熱防壁(heat shield)です。
これが高熱によって溶解されることで、大気圏突入時の熱を吸収してます。
これもウドヴァー・ハジー センターでの展示品でして、
マーキュリー計画の次の世代、ジェミニ カプセル用熱防壁です。
でもって、これまた未使用状態で保管されていたもの。

ちなみにジェミニ計画では、無人で打ち上げたカプセルを
自動操縦で大気圏に突入させ、
この熱防壁の実験を行い、その安全性を確認してから有人飛行に入りました。

せっかくだから触れておくと、カプセル底部以外に熱防壁は張られてませんから、
大気圏突入の高温は、ほぼ全て超音速飛行時の衝撃波背後熱によります。

大気圏突入時の高熱は、空気との摩擦熱、と
変に勘違いされてる事が多いので、この点は要注意。
摩擦熱なら、底だけでなく、カプセル全体に耐熱処理が必要になってしまいます。
この辺りは、スペースシャトル軌道船のところで、もう少し詳しく見ますぜ。



でもって、こちらがアメリカの第二世代宇宙船、ジェミニ計画の飛行カプセル。
計画そのものはケネディの行くぜ!月まで!演説を受け、
まだマーキュリー計画が実行中だった1961年の夏ごろから既に動き出してました。

1963年5月に最後のマーキュリーカプセルの飛行を終えた後、
二度の無人機によるテスト飛行を行い、
1965年3月から、ようやくジェミニ計画による有人カプセルの地球周回が行われ始めます。

これは先のマーキュリーの最後の飛行から2年近くかかっており、
アポロ計画まではあと4年しか残ってないタイミングした。
かなり厳しいスケジュールだったと思います。
(なにせ大統領が1960年代の内に月まで!と言ってしまったのだ)

でもって、なんかマーキューリー計画のカプセルと変わってないじゃん、
と思ってしまう所ですが、全長が2.515mとわずかに短くなった代わりに、
直径が2.286mと約40pほど太くなってます。
たったの40p、という感じではありますが、これによってジェミニ カプセルは
二人乗りになって、アメリカの有人飛行に大きな進化をもたらし、
アポロ計画のために必要な様々なデータを取る事に成功するのです。
(ちなみに二人乗りだからGemini(ふたご座)計画なのさ…)

アメリカが初めて宇宙遊泳を行ったのもこのジェミニ計画ですし、
1週間を超える長期宇宙滞在の試験を行ったのもこの計画からでした。
最終的に月探査の長期宇宙滞在に必要なデータを取るため、
14日もの長期滞在実験まで、この計画では行われました。
(実際の月探査は最長でも12日前後の行程だったが)

で、このウドヴァー・ハジーで展示されてる写真のカプセルが、
その2週間滞在を行ったジェミニ7号です。
手前に見えてる狭い空間が宇宙飛行士1人分の居住区であり、
ここに座ったまま、2週間もガマンしろ、というのはほとんど刑罰に近いような…。
ちなみにもう一人分の居住区は、この反対側にあります。

ちなみにこのジェミニ7号で2週間も一緒だったボーマン(Frank Borman)と
ラヴェル(Jim Lovell)は、後にアポロ8号でも一緒に飛んでますから、
意外に馬が合ったんでしょうかね。
相性が悪い人間が2週間も一緒に狭い空間に閉じ込められてたら、
以後、一生、顔も見たくない、となりかねませんし…。

ちなみに、気が付いた人は気が付いたかもしれませんが、
ラヴェルはある意味、アポロ計画のハイライト、
宇宙空間で致命的な事故を起こしながら無事生還した
アポロ13号の乗組員にも選抜される事になります。



でもって、アメリカの有人宇宙計画のハイライト、実は21世紀現在に至るまで、
未だにこれ以上の計画は存在しないと言っていいアポロ計画がいよいよ動き出します。

写真はスミソニアンの航空宇宙本館に展示されてる
ホンモノの月着陸船(Apollo Lunar Module/LM)。
これは地球での宇宙飛行士の訓練用に使われたものですが、
実際に使われた月着陸船と同じものです。
(ただし地球の重力だと脚の強度が足りないので補強してるはず)

ちなみにアポロ計画は11号から17号までで終わってますが、
実際は19号まで計画されており、キャンセル段階で途中まで完成していた
18号、19号の月着陸船も残ってます。
(18号はCradle of Aviation Museum、19号はFranklin Instituteにある。
つまり現存の月着陸船の展示はニューヨーク〜ワシントンDCの狭い範囲に集注してる)

とにかく人類を月に送り込め、アメリカ人を地球以外の星の上に立たせるのだ、
なんで?とか、なんのために?といった質問は禁止!というのがこの計画でした。
ほぼケネディの情熱の暴走で行われたようなものですが(笑)、
それでも間違いなく偉大な計画だったのもまた事実です。

ただ、この計画をキチンと説明したら、1年かかっても連載が終わらぬ、
という事になりかねないので、
ここでは簡単に触れるだけにして置きましょう。

アポロはNASAの有人宇宙飛行計画の中では3番目になるのですが、
実際はケネディ演説直後、ジェミニ計画とほぼ同時にスタートしてます。
ジェミニ計画の研究成果を反映しながら、月までの宇宙飛行、さらには
月面着陸、そしてそこからの帰還までの計画を練り、
そのために必要な機材を次々に開発して行ったわけです。

といっても1969年7月に成功する月着陸は
ケネディの1962年5月の演説からわずか7年後の事でした。
この間に、一人乗りの宇宙カプセルを地球周回軌道に乗せるのが
精いっぱいだったNASAが月にまで人間を送り込んでしまったわけですから、
狂気すら感じる進化だったと思っていいでしょう。

近年のジェット旅客機やジェット戦闘機の開発が軽く10年単位なのを考えると、
計画開始から7〜8年で月まで行って車まで乗り回して来たんですから、
アポロ計画の凄まじさ、偉大さがよくわかります。
ただし、この辺りでやはり無理があったのも事実で、
この無理のしわ寄せの結果、アメリカの宇宙開発における
初めて死者を出す事故が発生する事になります。

この事故は宇宙ではなく、地上で打ち上げ予行練習中に発生しました。
アポロ計画最初の有人飛行だった1967年2月の打ち上げに備えて
発射台で予行演習中、司令船内で火災が発生、3人の宇宙飛行士が焼死するのです。
ちなみにこれは、後にスペースシャトルチャレンジャーの爆発事故が起きるまで、
任務中に起きた宇宙飛行士の唯一の死亡事故でした。
(ちなみにNASAでは未だに大気圏外での死亡事故は無い)

この火災の原因はいまだに謎の部分も多いのですが、
宇宙飛行士が脱出できなかったことも含めて、明らかにアポロ司令船の
構造的欠陥が原因となっていました。

このため原因究明と対策が行われるまで、アポロ計画では
有人飛行が中止となり、再開されたのは1年半以上たった
1968年10月のアポロ7号からとなります。
これによってまたスケジュールは厳しくなるのですが、
この事故があったからこそ13号の奇跡の帰還が可能となるような
宇宙船が作り上げられた、と言えるかもしれません。

ちなみに、この事故はスケジュールを守るために人命軽視があった、
という面が強いのですが、これは後のチャレンジャー事故で
またも再現される事になるのです…

そんなアポロ計画は無印の実験飛行を含めて
(実は事故の1号も本来は正式にはアポロのナンバーを振られてなかった。
後に彼らへの追悼の意味でこれを最初のアポロ1号としたもの

6回の無人自動操縦実験を行い(これもスゴイ話なのだが)、
その後、有人の試験機を4回打ち上げてます。

その後、1969年7月ようやく11号で人類初の月着陸が行われ、
3年半後の72年12月、最後の17号の着陸まで、6回の月着陸を行ったわけです。
(13号は事故によって着陸を行ってない)

これがある意味、NASAの有人宇宙飛行の最盛期で、
その後は、アポロ計画の残った機材を使って、アメリカ初の宇宙ステーション、
スカイラブを打ち上げた1973年のスカイラブ計画、
そして1975年7月にソ連の宇宙船とのランデブーを行った
アポロ・ソユーズ計画が行われ、その全盛期を終えるのです。

そして、そこからいよいよスペースシャトル時代を迎える事になります。


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