■中立法と抜け道と

さて、そんな状況の中でアメリカに対する兵器買い出しが英仏両国を中心に始まります。

ところが間もなく1939年9月に第二次大戦が始まってしまい、
イギリス、フランスの両国は交戦国の指定を受けてしまうのです。
(ベルギーは中立国、ノルウェーは翌4月まで戦争に巻き込まれてないので、
当初は交戦国では無かった)
となると1935年以降のアメリカは中立法(Neutrality Acts)が成立しており、
交戦国に対し、戦略物資の販売はできない事になってました。
レンドリース法も成立してませんから、
本来なら、ヨーロッパの交戦国への兵器販売はできなくなってしまいます。

そこでルーズベルト大統領が1939年9月、大戦勃発の月に議会に要請、
承認されたのが現金商売政策(Cash and carry)の対象拡大でした。
この名前、ニューディール(改めて次のゲームをしようぜ、というポーカー用語)政策
と名付けた、いかにもルーズベルトらしい命名の感じがします。

この現金商売政策は当初1937年にイギリス、フランス、さらに中国を念頭に造られたもので、
交戦国に対しても、兵器以外の資源、資材なら販売してよい、という内容でした。
すなわち石油や鋼鉄などなら中立法に縛られず売っていい、という事です。
(当時のアメリカは世界有数の産油国)
これを1939年のヨーロッパにおける第二次大戦開戦後、兵器類にまで対象を拡張し
この結果、連合国側の各国はアメリカからの兵器購入が可能になったのでした。

ちなみにCarryには商売をする、という意味と、自分で持って帰る、という意味があり、
アメリカの商船を危険にさらさず、交戦国自らが船を用意して持ち帰れ、という内容でした。
ちなみに兵器に関してはさらに条件があり、アメリカから直接交戦国に輸出はできず、
このため一度カナダに運び込んで、そこから主に当事国の船で送り出してました。
この時期のアメリカ国内の反戦機運、中立へのこだわりは、後世からは想像が難しいものがあるのです。

でもってキャッシュ、即現金支払いのみ、掛売り無し、がこの取引の原則でした。
つまり購入契約成立時に、全額現金支払いが必要です。
といっても海外とのやり取りなので、主に金の地金が取引に使われたようですが。
が、この現金のみの買い付け、の条件は意外に厳しく、
後にイギリスは国庫に保管されていた金(Gold)をほとんど使い果たし、
アメリカの無償貸与法、レンドリースによって救われる事になります。
(1929年の世界恐慌の後、1931年にイギリスは金本位制を排止していたが、
すでにその段階までに多くの金が国外に流れており、開戦までに回復してなかった)
終戦後のイギリスの経済的凋落はよく知られてますが、
開戦後1年でイギリスの国庫はすでに破たん寸前まで追い込まれてたのです。

…はい、ちょっと脱線(笑)。
この辺り、よく知られてるように日本は1941年の開戦直前まで
アメリカから石油を輸入してましたし、ヨーロッパで開戦となるまでは、
アメリカの戦闘機すら購入してました。
でもこの当時、日本は中国の国民党相手に戦争やってたのです。
すなわち交戦国であり、本来なら中立法の対象となります。
となると、これも現金商売政策の延長?というと、ちょっと違って、
実は日本は中国との戦争中にも関わらず、中立法の対象外にされてました。

なんで?という点を説明するため、この辺りの事情をちょっと見て置きましょう。
蒋介石が率いる中国の国民党びいきだったルーズベルト大統領周辺の影響により、
(なにせヤツの奥さんは美人で英語ができてキリスト教徒と来たもんだ)
ルーズベルトは中立法を日中両国に対して適用しませんでした。
中国の国民党に兵器を売るためですね。
1937年8月の上海事件以降の日中戦争は、
両者ともなぜか宣戦布告をしてなかったので(笑)、これを理由にしたようです。

ところが中国にはアメリカから輸入するほどの現金が無く(笑)意味がありませんでした。
対して日本には最低限の資金がありました。
このため日中戦争開戦後も日本はアメリカからいろんな航空機を買っており、
一部はその技術を大いに参考にさせてもらってます。
(ノースアメリカンのAN16練習機やセバスキーのA8V(P-35の輸出版)
などがこの時期に売られてる)


■Photo US Airforce/US Air Force Museum

セバスキー、後のリパブリック社のP-35。
P-36がP-40の母体であるように、この機体が後のP-47に繋がる系譜の始まりになってます。
設計者も同じカートヴェリ(Kartveli)ですしね。

実はこれ、セバスキーが初めて作った軍用機で、それがいきなり
アメリカの主力戦闘機として採用されてしまったものでした。
全金属(ジュラルミン製)、引き込み式の主脚もアメリカ陸軍としてはこの機体が最初で、
それなりに期待されてた機体だったのです。

初飛行は1935年8月、スピットファイアから約半年早いだけなんですが、
最高速度はメーカー自己申告でも(笑)500q/hに届かず、
主力戦闘機という扱いながら、76機ほどで生産は打ち切られてます。
(ちなみにカーチスのP-36も同年5月初飛行)

とりあえず、あまり評価されてなかったようなのは確かで、
後に日本への輸出も認められてしまってます。
これがA8V複座戦闘機で、中国戦線における爆撃機護衛任務用に
1937年の秋ごろ20機前後が購入されたようです。
ただし、性能的にはやはりイマイチで、後にさっさと新聞社の社内機として
払い下げられてしまいました。

ちなみにこれは当時の日本としては珍しく、研究用では無く、
実戦用としての購入となってます。
さらにちなみにこのP-35がゼロ戦の元ネタ、と言うアメリカ人がたまに居ますが、どうでしょうねえ…。
時期的にはありえる話で、堀越さんの性格からして、
海軍に話をつけていろいろ調べた可能性は高いですけども。
ただし、どう考えてもそれほどの機体ではない、というのが正直なところだと思います。
堀越さん未体験の主脚の引き込み機能とかも、この機体とゼロ戦はまるで違いますから、
参考にはしてないでしょうしね。

でもって、これらの動きを見て頭に来たルーズベルトが(笑)1937年10月にシカゴで
隔離演説(Quarantine Speech)を発表、アメリカと潜在的敵国の断絶を宣言し、
名指しこそしませんでしたが潜在的敵国の名前で暗に日本、ドイツ、イタリアへの
航空機、兵器の輸出を自粛するよう求め、これ以降、兵器の輸出はほぼ中断されます。

ちなみにこの隔離演説も中立派が主流だったアメリカ国内ではイマイチ評判が悪い…
というかほとんど注目されないで終わってます。

ところがこの辺り、民間機なら別にいいよね、と思われていたのか、
ダグラスが1938年に中島からDC-3のライセンス生産契約を取ったり、
同年にロッキードがスーパーエレクトラを日本の航空会社に売りつけたりしてますけどね(笑)。
(スーパーエレクトラは後に立川飛行機がライセンス生産までやった。
でもって両者とも、戦中は軍用機に転用される事になる)

未だ大恐慌の影響から逃れられて無かったアメリカの航空機メーカーにしてみれば、
金さえ払えば客は火星人だろうとかまわん、という感じだったようです。
さすがにヨーロッパで大戦が始まってからは全てが中断となったようですが。

そして当然、兵器ではない石油、鋼鉄に関しては、中立法の対象外である日本は、
なんら法的な制限を受けてませんでした。
後にこれら資源の禁輸措置によって、日本が対米戦争に突入したのはよく知られてますが、
そもそも、1937年の隔離演説の段階でいつかはこうなる事が判ってたわけですが…

さて、話を戻しましょう。
この1939年の現金商売政策の拡張決定によって、
ヨーロッパの連合国は兵器の購入もできるようになったわけです。

が、航空機については陸軍の航空部隊が自分たちの機体が確保できなる恐れから、
一時、反対を表明してました。
さらに当時は排気タービン過給機を戦闘機、そして4発爆撃機に載せて実用化してる最中で、
これは最高機密でしたから、そう簡単に売るわけには行かないのです。
後にレンドリース法によって事実上、無制限援助が始まるまで、
排気タービン過給機、すなわちターボチャージャーなしの
P-38やP-39(こちらはアメリカ向けでも外されてしまうが)が
バンバンとイギリスに送り込まれ、不評を買いまくったのは、この辺りの事情がありました。

このためか、評議会によって最初に購入された戦闘機は
海軍機であるブリュースター社のF2Aバッファローで、
その最初の発展型であるF2A-2の購入が1940年1月に契約成立しています。

後に同年の5〜6月に発生した西方電撃戦によって、ベルギーが降伏したため、
当初、そちらに輸出される予定だった32機をイギリスが引き取る形で導入、配備したようです。
その後、意外に気に入ったのか、それとも太平洋周辺植民地の戦闘機不足が深刻だったのか不明ですが、
イギリスは170機を追加で購入、これをオーストラリア、ニュージーランド、
そしてシンガポールとマレー半島周辺に配備しました。
日米開戦時にはビルマからシンガポールにかけ、150機程度のバッファローが配備されてたと見られます。

ついでにオランダの東インドにおける航空部隊、
ML-KNIL(Militaire Luchtvaart van het Koninklijk Nederlands-Indisch Leger)
すなわちオランダ王立東インド軍 軍用航空隊も140機近いバッファローを装備してたので、
シンガポールからビルマ、そしてインドネシアにかけては、太平洋戦争開戦時、
空はバッファローであふれてる、という感じでした。
開戦当初、日本軍がこの地域でやけにバッファローと遭遇したのはそのためです。

ちなみに日米開戦時にオランダは既に敗北してますが、政府はドイツに対して降伏はしておらず、
女王と共にイギリスに逃れて亡命政府として存続しました。
よってアジアでも本国が降伏済みの旧フランス領のような扱いにはならず、
最後まで日本に対し徹底抗戦してます。
…結局、負けるんですけどね(涙)。


■Image credits: Official U.S. Navy Photograph,
from the collections of the Naval History and Heritage Command.
Catalog #: NH 97540


1937年初飛行なので、1939年当時の陸軍主力機より一世代新しい機体ながら、
全体的にはどうかなあ…という感じの機体ではあったブリュースターF2A。
写真は、ほぼ最終形態のF2A-3型です。

寸づまりなのは、この時代の空母甲板用エレベータのサイズによる全長制限があったため。
輸出用F2A-2の名称がB-339、イギリス空軍&英国連邦空軍(British Commonwealth Airforce)の
名称がバッファローで、バッファローは後にアメリカ軍でも愛称として定着したようです。

ちなみにアメリカ海軍は自分のとこ用に開発した輸出に関しては意外に気前が良く、
この機体もアメリカ海軍に配備されるのとほぼ同時(3カ月程度の遅れ)、1940年の初頭には、
既にフィンランドに44機が輸出されてます。
こちらは初期型のF2A-1なので、輸出用の名称はB239でした。
ちなみにフィンランド側の記録によれば1機あたり54000ドル+送料(笑)だったそうな。

これが後にソ連との戦いにおいて、強烈な伝説を打ち立てる事になるわけですが、
この記事でそこに脱線してると終わらなくなるので、その点は省略。

さて、そんなわけでアメリカ陸軍機は、開戦後もなかなかヨーロッパに輸出されなかったのですが、
1940年の春になって大幅に方向転換がなされ、
ターボチャージャーに関する規制は残ったものの、1940年当時のアメリカの陸軍戦闘機が
続々とヨーロッパの連合国に売り飛ばされる事になります。

この辺りの事情が、第二次大戦の戦闘機の歴史の一大変換点なんですが、
(ただし大日本帝国を除く)
残念ながら、ほとんど知られてません。
なので、次回はその辺りを見て行く事にしましょう。


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