■静かなる始まり

そんなわけで、新たな名を借りて1935年1月1日の元旦に
GMの子会社として設立された航空機メーカーが、
ノースアメリカン社だったわけです。

余談ですが、後にGMは大戦中に、
改めて社内部局(Division)の航空部門としてイースタン・エアクラフトを立ち上げました。
ここでワイルドキャットのライセンス生産機 FM-1、FM-2、
さらには雷撃機アヴェンジャーのライセンス生産版、TBMを生産しまくるのです。
すなわちノースアメリカンのP-51とB-25を合わせ、
GMによって陸海軍両方の主力機がバンバン造られたわけで、
あの戦争におけるアメリカ自動車産業の存在感がよくわかるかと。
さらにはアリソンエンジンもGMの一部局ですからね。



ついでにもう一つ。
知ってる人は知ってる、このノースアメリカン社のロゴ、三角に人の良さそうなワシマークですが、
これをデザインしたのは、後のムスタングの設計担当者エドガー・シュムードだったりします。
ちなみにNAAの文字はNorth American Aviation の頭文字。

1935年の春から使われてるこのロゴは、
1935年1月1日の会社統合後、社内公募で選ばれたものでした。
この時、シュムードはまんまと賞金の25ドルを手に入れたのだとか。
ちなみにその直後にシュムードは一度、ノースアメリカン社を去るのですが、
この点についてはまた後で。

ちなみに当時の物価を大雑把に計算すると現在の約1/20前後なので、
賞金額は2016年の換算でざっと500ドル、5万円前後というところでしょうか。
小遣いとしては、そこそこいい額ですね。

親会社のGM経営陣は1933年ごろから、再び航空機産業に積極的にかかわり始めた、
というのは既に書きましたが、
その中で不調にあえいていた、ゼネラル・アヴィエーション社に対するテコ入れが行われます。
1934年7月にダグラス社で副社長 兼 技術責任者(Chief engineer)を務めていた
キンデルバーガー(James H. Kindelberger)を引き抜き、その経営者とするのです。
これは時期的に見て航空郵便法成立によって、
以後は航空機メーカーとしてやっていこうと決心した直後だったと思われます。
ついでに、キンデルバーガーはノースアメリカン社に引き抜かれたわけでは無いのに注意。
その前身、ゼネラル・アヴィエーション社からの登場となります。
この点はよく誤解されてますので。

厳密には1934年の段階だと彼は部局(Devision)のPresident and general manager となっており
日本語にすると社長兼総支配人(最高決定権は持たない。親会社のGMが持ってた)でした。
この段階では最高決定権は持たないものの、それでも事実上の経営者と見ていいでしょう。
その後、戦後の1948年にGMと縁を切ってから晴れて、
最高経営責任者(Chief executive officer/CEO) 兼 会長(Chairman)となるのです。

余談ですが、アメリカに限らず日本の会社法にも社長(President)に関して
明確な定義は無く、単なる役職名に過ぎません。
経営の最高責任者はアメリカならChief executive officer(CEO)、
日本なら代表取締役となり、この肩書の人たちが会社(株式会社)の最高経営者なのです。
なので社長だ、Presidentだと言っても、なんら実権のない場合もあるわけで。

で、1935年元旦に会社がノースアメリカン社に名義変更なった後も、
キンデルバーガーは、引き続き社長兼総支配人を務め、
以後、1960年まで25年以上、経営のトップで在り続けます。
ちなみに1962年に死去するまで会長職については引退しませんでした。

このキンデルバーガーの引き抜きが、大ヒット人事となり、
彼の経営により、ノースアメリカン社は徐々にアメリカ有数の軍用機メーカーとなります。
技術者出身で技術と設計に明るく、
さらに経営者としても一流だったキンデルバーガーの主導力は卓越したものでした。
その代わり、彼が引退した後、1960年以降の衰退ぶりもまた見事なんですが…。

ちなみに彼はダグラスから何人かの技術者を引き抜いて連れて来たので、
ノースアメリカン社の開発陣はこのダグラスから来た技術者と、
ゼネラル・アヴィエーション社生え抜きの技術者の混合チームになって行きます。
その中でゼネラル・アヴィエーション側の代表がシュムードですね。

で、キンデルバーガーが社長になってやった事はまず二つ。
一つ目はいまだ大恐慌の影響から立ち直ってない民間航空機への参入中止、
軍用機、特に陸軍機への経営資源の集中でした。
(彼がダグラス時代に育てたDC-1〜DC3に勝てないという判断があったらしい)
終戦直後に一度だけ民間用小型機の生産を試みた事があったものの、
これは基本的に会社が消滅するまで守られるルールとなりました。

もう一つは、当時アメリカ東海岸、メリーランド州のボルチモアにあった
ノースアメリカン社の本社を一気に4500q近くも離れた西海岸、カリフォルニア州の
ロサンジェルス近郊にあるイングルウッドに移転させた事です。
就任から約1年後の1935年夏には、早くもその移転手続きを始めてます。
新社屋と工場は現在のロサンジェルス国際空港、LAXのすぐ東の辺りに造られました。

これは当時、カリフォルニア州南部に航空産業が集まりつつあり、
20世紀後半のサンノゼ、すなわちシリコンバレーのIT産業のように、
多くの同業者が集まる事で、部品工場や工場労働者の確保などで、
有利になると考えられたからでした。

では、そもそもなんで航空機メーカーがカリフォルニア南部を好んだのか、
というと雨が降らないので飛行試験に向いてるのと、
航空機用の大きな工場を建てるのに土地が安かった、という
ハリウッドの映画産業と同じような事が述べられてます。

その新天地カリフォルニアで、
ノースアメリカン社は活動を開始するのですが、
新顔で軍との繋がりも薄い同社は、いろいろ苦労を重ねる事になるわけです。


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