■真っすぐに前を向け

さて、最後はマーリンムスタングのB型からすでに問題になっていた
直進安定性が無い、というか、勝手に機首が曲がってしまう、
すなわちヨー軸の安定性が無い、というトラブルと解決策について。
この問題はムスタングの直進安定性が失われた、として知られてます。

これは高出力(深いプロペラピッチ)で飛んでるとき、
勝手に機首が曲がってしまう現象で、直進時だけでなく、空戦で旋回中にも発生し、極めて危険でした。
そして、これはD型から発生した現象ではなく、B/C型の段階で既に問題になっていたものです。
つまりよく言われるようなD型からの胴体後部の形状変更は関係ありません。
問題はマーリンムスタングから4枚プロペラになって、プロペラ後流が強烈になった事でした。

まずは何が起きていたのか、というのを理解する必要がありますが、
それには航空機の安定性と運動性を決める三つの回転軸を知る必要があります。



奇跡的に(笑)全ての重心点が一か所に集まってる機体を考えます。
空中で浮いてる状態の飛行機には、重心点を通る三つの回転軸が存在し、それぞれ独立して傾きます。
この辺りの用語は日本語への翻訳がほとんど放棄されてしまっていて判りにくいのですが、
とりあえず覚えていただくしかありませぬ。

一番判りやすいのがヨーで、重心を軸に水平面で回転する軸です。
車両が地上で方向転換するのと同じような軸であり、
機首を水平方向に左右に振る運動となります。
これを制御するのが、垂直尾翼にある方向舵(ラダー)です。

残り二つの内、ピッチは重心を中心に機首と尾部を上げ下げする軸で、
これは船などにも存在するものです。
こちらは水平尾翼の昇降舵(エレベータ)で制御します。

最後が胴体を軸にグルっと回転するロールで、航空機ならではの運動になります。
先にロール性能の所で書いたように、これはエルロンで制御します。

この3軸は、それぞれ方向舵、昇降舵、エルロンを動かしたときに、変動するわけですが、
逆に言えば、それらを動かさない限り、勝手に動かれては困るのです。
これらが勝手に動いてしまうと、真っすぐ飛ぶことも、思ったままに操縦することもできなくなります。

が、まさにそういった事態が生じていたのが、マーリンムスタングであり、
水平面のヨー軸の回転に問題が起きてました。
すなわち垂直尾翼と舵がキチンと効かなくなる、機首が勝手に横を向いてしまう、という事です。

プロペラの出力で引っ張られてる機体は機首の向きが変ればそっちに向かって進んでしまうので、
その度に方向舵(ラダー)を調整しなくてはならず、これが空戦中におこったりすると、
致命的なピンチを招く可能性がありました。

一体全体なんでまたそんな事に…というとプロペラ後流(slipstream)の影響でした。
4枚プロペラになった事で、その産み出す後流が強力になり、
その影響が無視できなくなったのです。

ちなみにこの時代の戦闘機のような、単発、けん引式のプロペラ機の場合、
それ以外にも“操作した通りの動作をする”のを妨げる要素がいくつかありました。
大きく分けると二種類の力があり、一つは物理的に避けられないもの、
もう一つはプロペラも翼の一種なので、その結果として生じるものです。
(プロペラは揚力で機体を前に引っ張ってる。これをデカクして上に引っ張り上げるのがヘリコプター)

■物理的な力

1. プロペラのトルクの反作用

あらゆる物理現象は力を加える(作用)と全く同じ力で押し返されます(反作用)。
なので巨大なプロペラをぶん回した場合(作用)、全く同じ大きさの力で機体を反対側にぶん回す力が生じるのです(反作用)。
ただしプロペラそものものは機体に比べるとかなり軽いので、その反作用の力もたかが知れてます。
ただし、プロペラが高い抵抗力を受ける深いピッチの場合、つまり離陸時、急加速時には
その影響が無視できない大きさになる事があります。

ちなみにパイロットの人は、単発プロペラ機が勝手に舵を取られる事を
プロペラトルク(の反作用)と説明することがありますが、
大抵の場合、これは後で見るようなプロペラ後流による現象です。
トルクの反作用なら、ロール軸の回転力になりますから、これはエルロンの操作になるのです。
よって、このマーリンムスタングの問題とは無関係なのが判るかと。


2.ジャイロ効果

高速で回転する軸は回転の慣性(慣性モーメント)によって、姿勢(方向)を常に維持しようとします。
これを曲げるには力を掛ける必要があり、さらにその力の作用方向に癖があるため、操縦は面倒になるのです。
ただし、通常のレシプロエンジンの場合、最も長い回転軸となるクランク軸は単純な軸ではなく、
プロペラ回転軸も途中で減速ギアが入ってるのでそれほど長くない。
よってレシプロ機では無視できる程度の力で収まってます。

ただし、ジャイロ効果は角速度の増大に伴って大きくなるので、長い直線の軸を
超高速でぶん回すターボジェットエンジンでは無視できなくなる場合があります。


■プロペラの揚力による力

1. Pファクター

これも適当な日本語訳がない航空用語ですが、非対称性プロペラ効果(asymmetric blade effect)
と呼ばれるもので、プロペラが面回転しながら揚力を生むことで生じる効果です。
これは正面から受ける気流に対しプロペラの回転面が斜めに傾いてる時に生じます。

離陸時、旋回時などでプロペラ回転面が進行方向に対して
斜めに傾くと、面の左右で受ける気流速度が変ってしまい、
(どちらかが斜め前に進み、反対側では斜め後ろに進む)
当然、より早い気流を受ける前進する半面がより強い揚力を生む事になります。




こんな感じですね。
左側が普通の水平飛行時のプロペラ回転面。
赤い矢印方向に回転するとしても、均等な風速で正面から風が当たるので、問題なし。
対して、離着陸時や旋回時に、これが傾くとどうなるか。
それが右の図で、この場合、矢印方向に回転すると、
回転面の向って右側は気流に対して回転速度が加算される事になり、
逆に左側は気流に対して逃げる形になるので相対速度が減算されます。

翼で発生する揚力は風速の速さに比例しますから、
こうなるとプロペラ回転面の左右で推力が非対称となり、揚力が強い右面がより前に出るため、
ヨー軸を中心に機体が回転してしまって、垂直尾翼の方向舵での調整が必須になるのです。
この辺り、ヘリコプターだとより問題になるんですが(先進時は機体を前に傾ける)
それはこの記事の範疇を超えるので、またいずれ。

ただし、これもそれほどの力ではなく、機体が空中に浮かぶ瞬間など
極めてシビアな状況でない限り、ほぼ無視できます。
原理がややこしいわりに、それほど重要では無いので、とりあえず忘れて構いません。


2. プロペラ後流

これがムスタングの抱えてた問題であり、大抵のプロペラ推進の航空機が、
直進安定性を崩される最大要因です。
データそのものを見て無いのですが、とりあえず風洞実験によると、
プロペラ機の機首が勝手に左右を向く現象、すなわち舵を取られてしまう現象の内、
85%の力がこのプロペラ後流によるもので、残りの15%が上で見たPファクターとなるそうな。
つまり、これが飛行中に機首が左右に振られる最大要因なのです。
ここら辺りは専門家でも知らない人が多く、Pファクターの力を強調してるのをよく見ますが、
そうでは無いので、要注意。

ではプロペラ後流とはどういうモノなのか。



原理的には翼の下方向への吹きおろし、ヘリコプターのローターの下で生じる下降気流と同じものです。
機首にあるプロペラの場合、この気流が後ろ向きに生じてると思ってもらえば大筋で問題ないです。
ただし、ヘリコプターの場合、機体を浮かしてしまうほどの揚力をローターで発生させてるので、
かなり強力なものとなってますが、通常のプロペラ機ではここまでの下降気流は生じません。。


■Image credits: Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.
Catalog #: 80-G-204747-A



当時の戦闘機だと、こういった感じになってます。

1943年11月、エセックス級として生まれ変わったUSSホーネット(CV-10)から離陸しようとするF-6F。
輪になった渦がはっきり見える、有名な写真ですが、これがプロペラ後流で、
湿度の高い空気が、プロペラの翼断面で加速された結果、
わずかながらも膨張して温度が下がり、飽和水蒸気を生じてるものだと思います。
(ただし翼端渦の可能性もあり。どっちなのかは私には判らん)

こうやって可視化されると、プロペラ後流は渦となって後方に向ってるのが見て取れると思います。
注目は主翼を通過した後、コクピット辺りまで明確に渦が残ってる点です。
胴体回りを後方に送られる渦は、普通に考えると主翼で流れが断たれるはずですが、
流れが弱くなりつつも、胴体後部までこれは続くのです。
なぜ途切れないのか、その理由は私も判りませんが事実としてそうなのだ、と思ってください(手抜き)。

するとどうなるか。



こうなります。
胴体にまとわりつくように渦巻いて後部に行ったった気流は、胴体から大きく張り出した垂直尾翼にぶつかるのです。
当然、これは気流が横から尾翼を押す、という事になります。
困ったことに、垂直尾翼はその方向舵の力を最大限に生かすため、重心点から可能な限り離れて置かれてます。
このためテコの原理によって、わずかな力でも、ここが押されると機首が横を向いてしまうのです。
この時、機首がどっちを向くかは基本的にプロペラの回転方向によります。



が、その程度の事は設計段階である程度予測されてますから、
当時の戦闘機などでは最初から垂直尾翼を少し傾けて搭載、その対策としてました。
ムスタングの場合、左に向けて1度の角度が付けてあったのですが、この写真で辛うじて判りますかね。

機首を右に曲げるように垂直尾翼が付いていた、という事は
ムスタングには機首を左に振る癖があった、という事になります。
が、この程度の対策ではもはや追いつかなくなってしまってたわけです。

ではどうするか、という事でここでまたNACAが登場するのでした。


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