■全周型の誘惑

ではD型から採用された、360度の視界を確保する全周型風防についても見て置きましょう。
アメリカ陸軍の主力戦闘機、P-47とP-51が両者とも後期生産型で
全周視界の水滴型キャノピーを採用してる事から予想できるように、
これはアメリカ陸軍の指導による変更でした。

アメリカ陸軍が全周型キャノピーに興味を持ったのは1943年に入った直後で、
きっかけは技術調査のためイギリスに派遣されたブラッドリー大佐(Col Mark Bradley )という人物が、
そこでタイフーンの水滴風防を見た事による、とされます。
その視認性のよさに驚いた彼は、同年6月に帰国すると、
すぐさまアメリカ陸軍の戦闘機にも、水滴型のキャノピーを搭載するよう働きかけ始めます。



1940年の2月に初飛行した当時は、ダサイとしか言いようが無いコクピット(P-39のような自動車ドア式だった)
とキャノピーを搭載していたタイフーンは、徐々にスタイルが洗練されて行き(それでも最後までダメ戦闘機だったが)、
1943年1月ごろ、まさにアメリカからブラッドリー大佐がやって来たころに、
写真のような水滴型風防の試験を始めてました(生産型の切り替えは43年11月ごろから)。
おそらくドイツのFw-190の影響だと思うのですが、例によってイギリス人はこの点を認めてません(笑)。

アメリカにおいて最初にこの改造要請に応えたのはリパブリック社で、
P-47はD型の途中で水滴風防に切り替わりました。



P-47のD型は従来のレザーバックと、この水滴風防が混在しており、識別が面倒な機体なんですが、
そんな無茶をやったのは、陸軍のブラッドリーからの圧力をいち早く取り入れたためです。

ちなみに最初の試作機は、ブラッドリーの帰国後、わずか2カ月足らずで完成してます。
これは従来のP-47D-5を改造した機体なんですが(恐らくXP-47K)、
1943年夏に、この完成機を見て大喜びしたブラッドリーは、自ら操縦して
カリフォルニアにあるノースアメリカン社のイングルウッド工場に飛び、
(先にも書いたが現在のロサンジェルス国際空港(LAX)の横に工場はあった)
社長のキンデルバーガーに見せてP-51への水滴風防の搭載を催促したそうな。

ここでD型の開発年表を見てみましょう。



D型の社内形式取得は43年4月ですから、まだイギリスでもタイフーンの水滴風防機が試験飛行中、
ブラッドリーも帰国前です。
となると、この段階のD型は、どうも我々が現在知ってるものとは、全く別だったんでないの?
という疑惑が出てくるんですが、残念ながらそこら辺りの資料が見つかりませんでした。

でもって正式なP-51Dの陸軍からの発注が7月21日、これは既に水滴風防が必須、という時期ですから、
どうもここから4カ月足らずで、コクピットと尾部を大幅に設計変更して、
あのカッコいいD型のデザインを完成させた、という可能性が高いのです。
やはりシュムードの設計チームはすげえな、という他ありませぬ。



ちなみにD型では水滴型キャノピーをタイフーンやP-47、そして後のスピットのように
単純な水平位置には設置せず、後部を跳ね上げるように、斜めに置いてます。
これは胴体後部を低くする量を最低限に抑えるための工夫で、よく考えたな、と見るたびに思う部分です。

この辺り、地上駐機状態だと、キャノピーのラインが地上に対し水平になってしまうため、錯覚しやすいのですが、
飛行状態の姿勢で見ると、この後部上への跳ね上げがよく判ると思います。
これがD型の最も工夫されてる部分であり、D型の格好良さの秘密でもあるのです(笑)。



B型とD型の写真を重ね合わせてみるとこんな感じ。
水滴風防になって頭上が広くなった割には、意外に後部の高さが変ってないのに注目してください。
この辺り、あくまで最低限の改修で済むように、工夫しているのです。

余談ですが、視界が良い水滴風防をなんで連合軍の戦闘機は最初から搭載して無いの、
ドイツのW-190や日本陸軍の隼、鍾馗は最初からこのスタイルなのに(ゼロ戦は忘れようね)…と思うところ。

この辺りは空気抵抗の面から見ると胴体の途中に凸部ができる形ですから、
乱気流の発生源となり、空力的不利だ、という面があったのだと思われます。
ところが実際やってみたら、その性能低下はわずかで、D型とB型の最高速度差は15q/h前後の低下だけでした。
なので実は思ったほど不利では無かった、すなわちそれでまで誰も試してなかった(笑)、
という辺りが真相ではないかと。

あとはドイツのFW-190が登場してその高性能で連合軍を驚かせた際に、、
あれいいね、という事になって、このスタイルとなったんじゃないかと思います。



1939年初飛行のFW-190が第二次大戦期の欧米の戦闘機の中では、
恐らく最初に後部視界を意識した戦闘機だったと思います。
水滴風防、という形状を打ち出したのも、この機体からですしね。
ついでにこの点を世界レベルで考えた場合、どうも日本の中島97戦乙型か、
あるいは一式戦 隼が世界初だと思うんですが、
当時の連合軍の関係者のだれもがその機体について言及してないので(涙)、影響は無かったんでしょう…。


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