■境界層から乱流へ

この辺り、流体力学の基礎知識を既に読んで、すでにブラックベルト級に理解している、
という方は一撃で理解できるでしょうし、当サイトの読者の皆様方は
そのような状態である、と筆者は確信してますが、念のため(笑)何が起きていたかを簡単に説明しましょう。
説明が簡単なのは手抜きではなく、厳密な原因は当時も今も、よく判ってないからです。
実際、この問題の解決は理論的な設計変更ではなく、風洞実験を繰り返した結果に従って行われました。
理論的な裏付けは最低限で、後は実地で確かめていったのです。

乱流という不確定要素が多い現象が登場すると、流体力学は理論と数式よりも
体験と経験に頼る事が多い、非常に微妙な学問になって行くのでした。
…AI 向き?

さて、まずは境界層の確認からやって行きましょうか。



物体に沿って流体が流れる場合、物体の表面、流れの最下層には
摩擦によって完全に静止する極めて薄い層、静止層が必ずできます。
これは層というより膜に近いのですが、とにかく文字通り完全停止してる部分で、速度0です。
これが常に形成される事は、実験で確認されてますから、そういうものなのだ、と思ってください。

この静止層が持つ、粘性(摩擦)抵抗は、せん断応力として
その上の層を引っ張って足止めし、徐々に流れの速度を低下させる働きをします。迷惑ですね。
その影響を次々に受け、減速して行く流れの層を境界層と呼びます。
通常、境界層は物体表面から数cm程度の厚さですが、長い距離を流れるほど
物体表面の摩擦抵抗の影響を長く受けるため、徐々に厚くなって行きます。

一方、せん断応力、粘性の摩擦抵抗は流れの上の層に上がって行くほど影響は低下しますから、
上部に行くほど徐々に抵抗が小さくなって流れは高速になり、最後は全く影響を受け無くなります。
この摩擦抵抗から完全に自由な流れが通常流れの層です。
ここから上は物体による摩擦抵抗の影響を一切、受けません。

通常、航空機の滑らかな主翼表面などでは境界層はせいぜい数pですから、
ほとんどの機体周辺の気流の流れは、単純な通常流になるはずです。
が、悲しい事に、そう単純で無いのが世の常で、ここに乱流の問題が出て来るのです。


 
物体の表面には境界層の流れができて、その状態で後部に向けて流れて行きます。
が、流れるにつれ摩擦から来るせん断応力の抵抗によって、
どんどんエネルギーを失ってゆきます(流体力学ではエネルギー=力)。

このため流体が長い物体の表面を流れる場合、後端部までエネルギーが維持できず、
途中で流れが停まって、物体表面から剥離してしまうのが普通です。
そこで流れなくなった気流は物体から剥離して乱流、渦の集合体となってしまい、
渦は周囲の空気を吸い込むため、進行方向とは逆向きに物体を引っ張る抵抗力になります。
さらに乱流の中に物体が巻き込まれると、渦の群れの中に突っ込んだ船のごとく、
もみくちゃにされる事にもなります。

やっかいな事に、せん断応力は速度が高まるほど強くなってゆくので、
マーリンムスタングのように、高速時ほどそこから生まれる乱流の影響を受けやすくなります。

では、実際にこれらがP-51の冷却部にどう影響するのか。



以前にも紹介したP-51Bの量産1号機。というか、生産型の先行試作機の写真をもう一度。
写真を見れば判るように、胴体下の冷却ダクトはかなり後部に位置してますから、
高速飛行時に機体表面を流れて来た境界層は、この位置に来るまでにほとんどエネルギーを失っていました。
NACAの関係者の証言によると、まさに空気取り入れ口のすぐ手前で、その剥離と乱流化が起こっていたらしいので、
空気取り入れ口がただでさえ弱くなってる境界層の流れをせき止めて、最後の乱流化を加速した、と考えられます。
では、どうするか。

余談ですが、このP-51Bの写真を見て、あれ?と思ったあなた、
ちょっと待ってね、後で説明するから(笑)。



従来のアリソンムスタングでは、その低速化した機体表面の流れ、境界層を避けるために、
1.5インチ(3.8p)だけ、空気取り入れ口を胴体から浮かしていたのでした。
ちなみにこの数字は実験で求めたものでは無いようなので、
おそらく勘(笑)と従来のイギリス機のデータ辺りに基づいたものです。
計算で求める事は、当時ではまだ無理でしたから(現代でもキツイと思うが)。

そして過給機の中間冷却器も無かったので、全体の高さは低めでした。
でもって、誰も気が付いて無かったのですが、実はこのくらいの高さが、
この直前で発生してる乱流を避けれるギリギリの高さだったのです。
このため乱流による振動発生をうまく避けれたのですが、それは単に偶然にすぎません。

…ひょっとして途中から取り入れ口の大きさを調整する可動部が消えたのって、
下に向けて可動部を開いたら乱流に巻き込まれて振動が発生したからじゃないの、
と今、思いつきましたが、残念ながら、あの辺りの資料は驚くほど残ってないのでよくわかりませぬ。



■Photo : NASA/NACA

でもって試作型XP-51Bマーリンムスタングではご覧のようにドカンと冷却部ダクトと空気取り入れ口を大型化し、
下に向けて突出させたため機体表面から剥離した境界層の気流、
すなわち乱流にモロに突っ込む形となってしまったのでした。

さて、振動の原因は判った。
では対策を考えてみましょう。
まず胴体表面の境界層を避け、なおかつ十分な気流の流入を確保するには、
機体表面から十分離れた位置にダクトを取り付ける必要がある。
一方で、開口部が下の乱流の中に入らないようにするため、そんなに下まで大きくは伸ばせない。
さらに、十分な空気の流量を確保する必要から、やたらと開口部は小さくはできない。
つまり、できるだけ下に伸ばしたいけど、伸ばせる高さには乱流による限度がある。
さあ、どうするか。



こうしたのです。

まず、空気取り入れ口の位置を従来より前に引っ張り出し、
ダクト手前で乱流化する前の気流を取り入れられるようにしました。

そして従来より大きく胴体との隙間を取り、境界層の気流が左右に逃げれる溝を造りました。
これによって境界層の気流がここで止められて、乱流化する事を避けてます。
同時にダクト中に入ってくる気流が境界層を確実に避けられることになり、
結果的に高速化されて、冷却効果も高めてます。
が、これだとダクト開口部の位置が下側に大きく出っ張って、
乱流のど真ん中に突入する事になります。

そこで、もう一つの変更がダクト開口部に加えられました。
空気取り入れ口を斜めに傾けて上側に寄せ、正面から見た上下幅を狭くして、
ダクトの下方の乱流が入らないようにする事にしたのです。
(空気の流量を確保するため開口部の面積を維持したまま斜めにすれば正面から見た面積は小さくなる)

このため空気取り入れ口の上部が前に伸びる形になってます。
NACAの資料だと、これによって流速の遅い境界層付近の気流が先にダクト入り、
機体から遠い流速が速い気流が後からダクトに入るようになって
これもダクト内の乱流の発生を防ぐのに役立った、との事。
ただし、この辺りの理屈、なんでそうなるのかはちょっとよくわかりません。

ちなみに空気取り入れ口からダクト内に乱流が入らなければ振動は起きなかったようで、
このためダクト本体の大きさはあまり変えてないようです。
ただし、この辺りの正確な数字が確認できないので、断言はできません。

とりあえず以下の対策によって、見事、振動は消えたのでした

●機体表面の境界層の流れを避け、かつこれを堰き止めないように、
ダクトとその開口部を、機体から十分離れた位置に取り付け、
さらに隙間に溝を造って境界層の流れをきれいに後部に導いた。

●その結果、乱流のある下方に移動した開口部を斜めに傾け、
上に跳ね上げる事で、乱流の中に入るのを避けた。





ちなみに、後にF-16の空気取り入れ口が、ほぼ同じような構造を採用してますから
このマーリンムスタングの設計がいかに先進的だったかが判るかと。

ただし、ほとんど知られてないし、そういった証言も資料も何も残ってませんが、
丁寧に残された写真をチェックして行くと、実はそう単純ではないらしいのだ、
という話も少ししましょうか(笑)。



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