■アリソンはトラブル有りで損
さて、ではまた例の図を。
とりあえず、マーリンエンジン搭載型は、1946年3月までにP-82Bを
20機だけ生産して終わってしまい、残りは全て試作だけで終わったわけです。
(厳密にはB型から2機が試作機に回されたので配備されたのは18機だけとなるが)
ところが、計画がキャンセルされた直後、1945年12月にノースアメリカン社が
アリソンエンジンに換装した新型ツインムスタングの開発提案を行うと、
翌1946年2月5日付で陸軍航空軍は、これをあっさり受け入れ、250機の発注をしてます。
これはB型の生産終了前であり、計画中止になった機体を
こんだけ早く復活させた例はあまり無いんじゃないでしょうか。
この点、B型の生産打ち切りは、終戦による、というより、
やはりマーリンエンジンのライセンス料の問題な気がしますね。
実際、この段階で実用化が見え始めていたB-36の護衛に付く事が可能な
長距離戦闘機はP-82だけですから、終戦を理由に生産を打ち切る必要はないはずです。
こうして1600馬力あったとされるアリソンV-1710 143&145を搭載した
新型ツインムスタングの開発が始まるのですが、
このエンジンも2段式過給機を採用しており、この結果、エライ事になります…
ちなみにエンジン型番が143と145の二つあるのは左右で逆回転するためで、
おそらく143が左回り、145が右回りのエンジンです。
これは主にプロペラ後流による機体の傾きを左右逆回転にして打ち消し、
さらに強い迎え角を取った時、プロペラの左右で揚力が変ってしまう現象をも
打ち消すため、左右で逆回転にしたものです。
この辺りはまた後で解説する…かもしれません(適当)。
ちなみによく言われるプロペラトルク(反回転の力)の打ち消しは、
機体の中心軸(重心点)から離れた位置にエンジンがある
双発機ではそれほど意味がありませぬ。
この結果、完成したのがP-82Aで、1947年2月に初飛行にこぎ着けてます。
Xナンバー付いてませんが、恐らく試作機の扱いで4機が造られたようです。
ちなみにこのP-82Aは、先に見たXP-82Aとは全く別の機体です。
この二つの機体はよく混同されてますので要注意。
その後、量産機はP-82Eに名称変更され、
空軍独立の翌年1948年からはF-82Eとなります。
(最初から名称変更に対応したF-82Eで、P-82Eは無かったという説もあり)
ただしヤヤコシイ事に最初に造られた試験機4機はそのままF-82Aの名前に変更され、
こちらは各種実験機にされたようです。
■Photo US Air force / US Airforce museum
というわけで、2段過給機付きのV-1710-143&145(V-1710 G6
R&L)を搭載して完成した
後期型の最初の量産機、F-82
E型。
その後のツインムスタングではおなじみになる主翼下のレーダーポッドが無い、
純粋な長距離戦闘機でした。戦後の巨大長距離爆撃機、B-36の護衛用、と考えていいでしょう。
ちなみにアリソンエンジン搭載なのに過給機の空気取り入れ口はプロペラ下にあり、
どうも2段過給のV-1710では、空気取入口の位置が変更されてた可能性が高いです。
ただし、マーリン搭載ツインムスタングに比べると、空気取り入口の位置がちょっと低い、
すなわちプロペラスピナーから少し距離が離れた位置にある、という特徴があります。
このあたりがマーリン、アリソンの両ツインムスタングの識別点になるでしょう。
ところが、このV-1710-143&145エンジンは例によって(笑)トラブル続出で
機体の生産計画に大きな支障をきたし、
当初の機体開発予算3500万ドルはあれよあれよと5000万ドルまで
一気に1500万ドルも跳ね上がってしまいます。
ちなみに機体価格は215,154ドルで、50,985ドルだったP-51Dに比べ、
実に4倍近い価格になってしまってました。
まあ、値の張るエンジンが倍の数、さらに戦後のインフレも換算する必要があるのですが、
それでも安くは無いよな、という価格です。
この辺りのドタバタは、すでにジェット時代に入っていて、
アリソンとしても今さらピストンエンジンの開発、修正に熱心では無くなっていた、
という事情もあったようですが、改めてマーリンエンジンは偉大だなあ、と思ったり。
これだったらケチケチせず、6000ドル払ってマーリンにしとけばよかった…という状況ですね(笑)
参考までにP-82Eを含め、アリソンエンジン ツインムスタングは約250機しか生産されてないので、
250×6000ドル=150万ドルで済んでた計算になり、予備のエンジン、パーツを考えても、
せいぜい200万ドルだったでしょうから、この方がはるかに安上がりで済んだでしょうに…。
ちなみに、この手の失敗は、後にもアメリカ空軍のお家芸になるんですが、
軍人さんにコスト計算させちゃダメ、目先の利益に夢中になって
かえって大損失を出す、といういい例かもしれません。
これによって設計責任者のシュムードが、
大のアリソン嫌いになってしまったのは既に書いた通り(笑)。
そもそもあの機体はマーリンエンジン前提で造られてるんだ、
とシュムードは証言しており、どうもいろいろ無理のある改造ではあったようです。
この辺りに関しては、マーリンを知り尽くしていたシュムードが高圧縮エンジンに必須の
バックファイア防止スクリーンがアリソンのV-1710に無い事を指摘しても、
最後まで無視されたりして、両者の感情的な対立もあったようです。
実際、これがマニホールドに無かった結果、高圧縮燃焼時のバックファイアが
圧縮機のタービンが入ったブロワ―ケースまで逆流してしまい、
これを破壊する、という例が多発したとされます。
このため、試作機であるP-82Aでは何度か深刻なエンジントラブルが発生、
これが計画全体を遅らせる事になります。
それでもアリソン側がこの改修を受け入れなかったため、
エンジンは全く不安定であり、
改善点が多すぎて一向に量産が進みませんでした。
その結果、エンジンの生産が遅れに遅れ、工場ではエンジン無しの機体が
ズラリと並んで放置されてる、という状況になってしまいます。
アメリカでも、首なし機体がずらりと並ぶ、という現象、あったんですね(笑)。
このため1947年2月に生産型の初飛行が成功したにも拘わらず、
わずか100機の生産に約1年半、1948年秋ごろまでかかってしまうのです。
さらに完成後も、飛行のたびに33時間ものエンジンメンテナンスが必要だった、
という話もあり、どうもお世辞にも褒められた機体では無いように見えます。
シュムードはアリソンがこの機体をダメにしてしまった、と言ってますが、
まあ、確かにそういった面もあった感じがしますね。
で、このE形を基にして、レーダーを搭載し、夜間戦闘機となったのが
F型とG型で、両者の違いは搭載されてるレーダーだけで、後はほぼ同じ機体です。
大戦中から配備されていたP-61の後継夜間戦闘機として開発されたもので、
F型が100機、G型が50機生産されました。
初飛行はG型が先で1947年12月8日に飛んでます。
F型の初飛行は1948年3月11日でした。
でもって、こちらの記録はあまり残ってないのですが、同じエンジンですから(笑)、
同じようなトラブルに見舞われていたと思われます。
基本的にはF型が夜間迎撃用の高精度 短距離レーダー 、
G型が警戒用の低精度、遠距離レーダーを積んでいていたようです。
ついでにレーダーの型番はF型のがAPG-28迎撃レ―ダー、
G型のがSCR-720警戒用レーダーです。
マーリンエンジン搭載のC型、D型でテストされていたレーダー搭載、夜間戦闘機型の
量産機に当たるのが、アリソンエンジン搭載のF&G型でした。
双胴の真ん中にデーンと飛び出してるのがレーダーポッドで、
写真は迎撃用の高精度レーダーを搭載したF-82G。
ちなみに分類は資料によって夜間戦闘機だったり、全天候型戦闘機だったりしますが、
多分、どちらも正解で、開発時の分類は夜間戦闘機、その後に配属された部隊が
全天候型戦闘機飛行隊(All-weather
fighter
squadron)だった、という事らしいです。
ちなみにG型が配備されていた68飛行隊は日本に配置されていたため、
朝鮮戦争時勃発時には実戦投入され、
先に書いたLa-7の撃墜記録(自己申告だが)を持つのがこのG型となってます。
ついでにこの機体、両主翼下にあまり見かけない
ポッドを搭載してますが、この正体は不明。
で、最後のツインムスタングF-82Hは、アラスカ専用の寒冷地型の機体で、
これは既存の機体を改造して造られたもので、新規生産ではありません。
ただし、F型とG型、それぞれから改造された機体があったようで、
同じF-82Hでも、搭載レーダーが異なる機体が混在してます。
で、この最後のF-82Hは1949年に改造された結果、
最初からFナンバーだったため、Pナンバーの機体は存在しません。
といったところが、全部で270機前後しか生産されてないくせに、
妙にヤヤコシイP-82(F-82)のお話となります。
はい、今回はここまで。
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