■それは意外にややこしくて

さて、P-82(F-82)は大きく二世代に分かれます。
まず戦前から開発されていて後に全て生産中止となったマーリンエンジン搭載の前期型、
その後に突然復活して戦後に生産される事になるアリソンエンジン搭載の後期型です。
P-51とは逆で前期型がマーリンエンジン、
後期型がアリソンエンジンとなってるのに注意してください。

なんでまた後期型でアリソン エンジンに逆行したの?
というと戦後になってチョー優秀なエンジンが突然完成したとかではなく、
単に戦後、貧乏になった陸軍が例の6000ドルの設計許諾料を
支払うのをケチったからのようです。
この結果、ツインムスタングのアリソンエンジン搭載型は泥沼にはまって行く事になります…。

とりあえず、その流れをざっと説明すると下のような感じ。
ツインムスタングはちょうど空軍独立前後に生産されたため、
量産型のほとんどがPとFの両方の呼称を持ちます。
ただし最後のF-82Hだけは空軍独立後に造られたため(従来の機体からの改造だが)、
最初からFナンバーのみで、Pナンバーを持ちませんからご注意あれ。



で、最初のツインムスタング、試作機のXP-82は1943年10月には
早くも設計が開始されており、軽量化ムスタング計画が動き出してから、
約半年後には設計が始まっていたわけです。
ただし、この辺りの経過はどうもよくわからない部分がいろいろあります。

まずシュムードの回想によると、戦争のはるか前、1935年ごろに、
彼は既に双胴式戦闘機のアイデアを持っていたようです。
ただし、これは会社の仕事ではなく、一種のアルバイトというか、
友人から依頼されて設計案を出したものでした。
このため後に社長のキンデルバーガーから、
その仕事から手を引くか、ノースアメリカン社を辞めるかにしてくれ、
と宣言され、この計画は立ち消えになったそうな。

ところが後にこの設計案をキンデルバーガーに見せたところ、
社内開発(軍からの予算がつかない)の研究開発機(RD-1120)として採用され、
1943年10月23日から設計開始となったのだとか。
で、キンデルバーガーはかなり乗り気で、1944年の元旦に基本的な設計がまとまると、
速攻で新型機の計画案冊子を作って陸軍に送り付けてます。

で直後の1月7日には、たまたまか、あるいはこの提案のためか、
陸軍航空軍の一番偉い人、アーノルド将軍がノースアメリカン社にやってきて、
この計画を直接承認し、ここから正式な計画として動き出したのだとか。

この話の通りだと、ノースアメリカン社が自分で造りたい機体を勝手に造り始めて、
それを後からアメリカ陸軍航空軍が承認した、という事になります。

そんな弟が勝手にオーディションに応募したら、私ってばーカワイ過ぎるんで、
うっかりアイドルに採用されちゃいましたー的な説明ではどうも納得できませんが(笑)…。
なんぼ予算は湯水のようにあった戦時中とはいえ、イチイチ、メーカーが
勝手に提案して来た機体に対応してたらアメリカ陸軍もたまったものではないでしょう。

ただし、戦略爆撃至上主義のアメリカ陸軍航空軍は、
慢性的に長距離護衛戦闘機を欲っしてた、という傾向がありました。
1940年の段階で唐突にロッキードに対してP-38改造の長距離複座戦闘機、
XP-58の試作を命じたりしてますから、
その癖をノースアメリカン社が突いた、という可能性はあります。

そもそも、この時期なら戦後のチョー長距離爆撃機、B-36の性能が見えて来た時期で、
(試作機が飛ぶ3年も前(笑)1943年に7月にはすでに発注がなされていた)
その長距離護衛は、P-51でも厳しいだろう、と思われてたはずです。
実際、XP-82は長距離護衛用の戦闘機として発注されてますしね。

また英語圏の資料では、当初、日本への爆撃の護衛戦闘機は
硫黄島からでは無くマリアナ諸島から直接飛ばすつもりで、
そのために長距離戦闘機が必要になって開発された、とするものもあります。
が、アメリカ軍のマリアナ攻略決定は1944年3月ごろのはずで、
1月の段階で開発承認では時期があいませぬ。
この話はちょっと怪しいですね。

なので、とりあえず詳細は謎のままですが、社長のキンデルバーガーは軍から
長距離戦闘機の開発を依頼を既に受けていた。
でもって、それとは知らずにシュムードが提出して来た双胴の戦闘機を
そのために開発する事にし、
これが後に軍から正式に採用された、といった辺りが正解ではないかと。

ここでもう一度、同じ図を。



さてマーリンエンジン搭載の最初の試作機XP-82は2機が発注され、
1945年6月12日(15日説在り)に最初の試作機が初飛行しました。
その直後の6月30日には500機の発注が行われてます。

ただし、その後、最初の量産型であるP-82Bの
一号機による初飛行は終戦後になってしまい、1945年10月31日に初飛行したものの
結局、その発注のほとんどがキャンセルとなりました。
よってマーリンエンジン搭載の量産型、P-82Bはわずか20機のみの生産で終わるのです。

この辺り、終戦によって不要になったからキャンセル…と説明される事が多いですが、
B型の生産が終わる前に、既に次のアリソン ツインムスタングの発注が
陸軍から行われてるので、どうも終戦が直接の理由では無いような感じですね。
おそらく終戦の結果、予算が無くなった陸軍が例の6000ドルをケチって
一度計画をキャンセルし、改めてエンジンをアメリカ産の
アリソンに替えて再生産、といった辺りが実態のようです。



■Photo US Air force / US Airforce museum

というわけで、事実上、量産されずに終わってしまったに等しい
マーリンエンジン搭載の最初の量産型、P-82 B型。
前回の写真ではイマイチよく見えなかった、軽量型ムスタングで大きく変わった、
プロペラ下空気取り入れ口の形も見て置いてください。

ちなみにそんなB型ですが、このアメリカ空軍博物館に展示されてる
ベティー ジョー(Betty Jo)号は1947年2月にホノルルからニューヨークまで
約8000qを、14時間32分で無着陸飛行する、という記録を立てたりしてます。
主翼内の武装は全部取り除いて、そこに燃料タンクを入れて航続距離を伸ばした、
あくまで記録達成用の特別改造機でしたが、当時はかなり話題になったようです。



でもって、そのわずか20機しか完成しなかったB型の内、
その10号機と11号機の2機を改造して造られたのが、
写真のレーダー搭載試作機のC型、P-82Cです。

真黒な塗装からわかるように夜戦型の試作機で、主翼の真ん中の下に
ぶら下がってるのは暗闇の中で敵を見つけるためのレーダーポッド。
1946年3月26日に初飛行した機体で、Xナンバーが付いてませんが、
事実上の試作機で、これも結局、量産はされませんでした。
が、この機体での経験は、後にアリソン ツインムスタングでの
夜戦型に引き継がれる事になります。

でもって、その2日後に初飛行した、これも試作機なのがD型、P-82Dなんですが、
C型との違いは、搭載されたレーダーだけだったようです。
D型もXナンバー機ではありませんが、当然、試作機で終わってしまいます。
ついでに、どうもこれ、C型の内、一機を再改造したものらしく、
このため、最終的な製造数はC型、D型、1機ずつとなるようです。

そんなわけで、マーリンエンジン搭載 ツインムスタングは、
試作のXP-82、P-82C、P-82Dと、量産型のP-82Bがあるのですが、
量産用のB型ですら20機しか造られてませんから、
結局、どれもまともに生産されないで終わってしまったわけです。
(実際は2機が試作機に回されたので、P-82Bは18機しかない)

なので本来ならこれでオシマイ、なのですが
これが戦後、アリソンエンジンを搭載して、突然復活する事になるのです。

ちなみに、上の図にはありませんが、XP-82 A という、
計画だけで終わった試作機もありました。
これは例のP51-J型が搭載試験してエライ事になっていた2段過給アリソンエンジン、
V1710-119を搭載したもので、これも2機の発注がされたのですが、
J型で散々エンジンがトラブってしまったため、最終的にキャンセルされてしまいます。

ただし1号機だけはとりあえずエンジンを搭載するまでは完成していた、
という話もあり、この辺りはどうもはっきりしません。
どっちにしろ飛行試験までは進んでないはずです。

ちなみにXP-82Aは、後で登場するアリソンエンジン搭載の試作機、
Xナンバー無しのP-82Aとは別の機体なので注意。


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