■P-51Aは微妙だった

でもって実はP-51Aという機体はいろいろ中途半端だったりします。
そもそも、高高度性能が無いのは明らかですから、生産開始の1943年春の段階では、
すでに制空戦闘機として使えないのは明らかでした。
さらに言えば、この後予定されていた戦略爆撃機の護衛をやるにも向きません。
かといって、アメリカ陸軍では従来の無印P-51のように戦闘偵察機に改造したわけでもないのです。
何に使う気だったのか?という疑問がどうしても出てきます。
(ただしムスタング II の名で受領したイギリス空軍は51機中35機前後を偵察用に改造してる)

高高度性能なんて全く気にしなくていい(笑)、日本軍相手に太平洋戦線で使う気だったのか、
という気もしますが、この点も裏付けになる資料がありません。
ただし、実際ほとんどのP-51Aはビルマ、中国戦線に投入されてるので、
アメリカ陸軍もヨーロッパでドイツ空軍相手の使用は無理、とあきらめていたフシはありにけり。

とりあえずアリソン ムスタングシリーズの中で最大の1200機もの契約を当初はしてるので
なんらかの期待があっての発注だとは思うのですが…。
(ただし310機まで生産した段階で残りはP-51B/C分に契約変更となった)


This is photograph FRE 10235 from the collections of the Imperial War Museums


ビルマ戦域で撮影された米軍のP-51A。
こうやって主翼下に増槽を積んでしまうと、爆装はできないので、一応、戦闘機として使われてたのでしょう。
P-51Aはおそらくほとんどが、この対日戦線に投入され、後は本土で訓練用に使われていたようです。
調べてみた限りでは、地上攻撃機としても、偵察機としても使われた形跡が薄く、
どうも低空専用戦闘機として(涙)日本軍相手に投入されたものと思われます。

ちなみにこの写真、注目すべき点が三点ほどありにけり。
まず胴体後部上にループアンテナ、輪っか型のアンテナが追加されてる事。
これは工場で撮影された機体には見られないので、現地改修だと思われます。
基地から発信される電波を元に、帰還する方向を読み取る装置のためのアンテナで、
この増槽と言い、この戦線の機体は長距離任務が多かったのかもしれません。
あるいは熱帯では雲が多く、すぐ地上が見えなくなってしまうための帰還対策か。

次は天蓋、キャノピーで、従来とは違う、枠の少ない、視界の良いものになってます。
これは結構謎で、ビルマの奥地の現地改修でこんな事が可能とは思えず、
かといってこういったキャノピーが正式採用された、という記録も無いのです。
ただし、この写真以外でも、数機がこのキャノピーなのが確認できるので、
一部の機体では正式装備だったのかもしれません。
ホントに、アリソンムスタングって、意外なほど謎が多いのですよ。
ただし、B/C型では元の枠アリ型に戻ってますから(A型も多くは従来のまま)、
それほど評判は良くなかったのかもしれません。

ちなみに前方の風防の横に小さな四角い窓が見えますが、これは窓が開かなくなったため、
地上ではここを開閉して外部の人間とコミュニケーションを取るためのものだと思われます。

最後は例の翼の上の気流の流れの跡が残った胴体横で、意外にキレイに流れております。。
ただしこれ、汚れではなく、逆に機体のホコリがここだけ剥げて露呈してる、
という不思議なもので、なんでこんな現象が起きてるのか、ちょっと判りませぬ。

さて、そんなP-51A型の中途半端さは、
次世代の機体であるマーリンムスタングの開発史を確認すると、さらによく判って来ます。
A型の発展型がマーリン搭載のB/C型と思われがちですが、実はそうではなく、
B型は無印P-51からの改造で作られており、このため両者はほぼ同時進行で開発が進んでいるのです。
この辺りの事情も確認して置きましょうか。

以前にも説明しましたが、イギリスのロールスロイス社が自社開発で
マーリン65搭載のムスタングの制作を決定、
イギリス空軍からムスタング I を受け取って(おそらく5機)試験機を造る事にしたのが
マーリンムスタングの始まりです。
この決定は1942年の6月であり、実はこれはノースアメリカン社が形式取得を行い
自社開発で最後のアリソンムスタング P-51Aの設計開始を決めるのより早いのです。

この辺りの流れを図にしてみるとよく判るのですが、P-51Aとマーリンムスタングは
完全に同時期の開発となっており、、マーリンムスタングはA型の発展形ではないのがよくわかります。
そして、なんでP-51Aを造ったのか、ますますよく判らん、という話になってきます(笑)。



とりあえずP-51Aは6月に自社開発のための形式取得を行い(社内名称NA-99)、
陸軍との正式な製造契約は2か月後の1942年8月24日になっています。

ところがこの間にロールスロイス社が試算した2段2速過給機マーリン、
すなわち60系以降のマーリンエンジンを搭載した場合の性能試算情報がアメリカにもたらされます。
それによれば高高度性能を始め、多くの性能向上が見込まれるとされ、
このため急遽、アメリカ側でもマーリンムスタングの試作機を作ることが決定します。
ここで初めて正しく先行試作機として(笑)Xナンバーを付けたXP-51Bの制作が決定し、
今回は珍しく(笑)先に陸軍との正式契約がなされ、その直後の7月25日に形式取得されました。

そして陸軍の手持ちの無印P-51の内、偵察機に改造されてなかった2機、
海外輸出用機体のサンプルとして陸軍に納入されていた機体が改造母体にされる事になります。
ちなみに量産されたP-51の内、試作機が造られたのは、このXP-51Bが唯一です。
(初代ムスタング I の先行量産機を受け取っただけのXP-51は試作機ではない)

でもって、そのわずか3週間後には、ノースアメリカン社では自社開発のため、
P-51Bの量産型にも形式取得を行っており、これまたP-51Aの正式契約の直前になってます。
(建設中のテキサス ダラス工場で造るC型が先に形式取得されてるが、
この理由はよくわからない。正式契約では無いので何かの社内事情だろう。
実際、社内名称はカリフォルニア製のP-51Bの方が若い)

なのでP-51Aと並行して、それどころかむしろP-51B を優先して
ノースアメリカン社ではその開発を行っていた可能性があります。
ただし例によって(笑)B型の正式な量産契約がなされるのは4カ月後の12月ですが。

しかも初飛行はXP-51Bの方がP-51Aよりも4カ月も早く飛んでいます。
ただしその後、量産機のP-51Bの初飛行まで6カ月もかかったのは
後で見るように冷却器周りのトラブルと、エルロンの欠点をNACAの協力で解決していたためです。
それでもP-51Aの初飛行からわずか3カ月しか遅れておらず、
しかもその直後にはカリフォルニアのイングルウッド工場でB型の生産が始まってしまい、
そこで造られていたA型は310機だけ造って後は製造打ち切りとなってしまいます。

なので、P-51A型というのは、どうにも中途半端は存在なのです。
1943年初頭にA-36の製造が終了するので、
その次の機体としてノースアメリカン社がアメリカ陸軍に売り込み、
アメリカ陸軍側も、ノースアメリカン社の戦闘機生産工場を止めない方がいいだろう、
といった理由でこの契約に応じていた、すなわち兵器としての実用性より、
製造現場の事情を考慮した結果、という感じがありますね、この辺り。
(一度工場の生産ラインを止めてしまうと、再開するのに膨大なコストがかかる)

…なんか要らなかったような気がしますねえ、P-51A(笑)。
ちなみにマーリンエンジン搭載のP-51Bの生産が急がれた理由もちょっと謎があり、この段階では
アメリカ陸軍は長距離爆撃には護衛戦闘機が必須、という経験則をまだ学んでません。
なので対ドイツ爆撃のため、高高度戦闘機として生産が急がれた、というわけでは無いのです。
(言うまでも無いが日本の戦闘機なんざ最初から眼中にない。あくまで敵はドイツなのだ)

実際、最初の1942年8月の契約におけるB型の発注はわずか400機に過ぎず、
これは890機もキャンセルとなったP-51Aの埋め合わせにもならない数です。
その後、10月になってからダラス製のC型が1350機、イングルウッド工場製のB型が1588機、
それぞれ発注されますが、翌年の5月ごろ、D型とほぼ同時に400機のC型が追加発注されただけで、
その契約は終了してしまいます。
つまり当初は3338機だけで、それ以上の発注は行われてないのです。

そして翌年、1943年春から夏にかけ陸軍航空軍のボス、アーノルドが
用心のためにD型の大量発注を開始するまで(400機だけC型の追加もあった)、
半年以上もP-51の増産計画は出て来ません。
この辺り、決して少ない数とは言いませんが、その後の大量配備を考えると、
やはり当初、アメリカ陸軍はこの機体で戦略爆撃が救われるとは考えてなかったと思っていいでしょう。

ところが、B/C型が実戦配備に着いた時、すなわち1943年の秋以降は
まさにアメリカが長距離高高度戦闘機を必須の機体として必要としていた時期となりました。
が、ここら辺りは奇跡のような偶然であり、決して狙ってやったわけじゃないのに注意が要ります。
傑作兵器の条件の一つ、実戦投入タイミングのよさ、というのは多分に運が左右するようです。

このため、当初はドイツ相手の戦略爆撃やってる
第8航空軍(Eighth air force)にP-51Bが配属されず、無印P-51と同じ扱いで、
地上支援を主にやってた第9空軍に配属されてしまってました。
このため、独自に性能試験を行ってその性能に惚れ込んでいた第8空軍がこれに噛みつき、
第9空軍からP-51B/Cが配属となった部隊が丸ごと爆撃機護衛に貸し出される、という事態になってます。
こうして2段2速過給機付きマーリンエンジン搭載のP-51が連合軍の戦略爆撃機を救い、
これが戦争の行方を決定的に方向づける事になります。
ただし、実際はマーリンムスタングは方向安定性が悪い、という致命的な欠点があり、
この点の改修はかなり遅れ、NACAの協力で後付けのドーサルフィンが開発されるのを待つことになります。
この辺りの事情はまた後で。


This is photograph FRE 10291 from the collections of the Imperial War Museums


イギリス帝国戦争博物館(IWM)のネット資料庫の中に何気なく入ってた写真。
ロールスロイス マーリンエンジンを搭載したムスタング、としか説明には書かれてませんが、
変なエンジン固定金具、機首下に飛び出してるインタークーラーの冷却器など、あれ?と思った
あなたはP-51博士銀河代表選手権の出場資格があります(笑)。

これがロールスロイスが自社開発でマーリンを搭載したムスタング、すなわちムスタング X(10)なのです。
ただしX(10)という名称が、イギリス空軍による正式なものなのか、勝手に付けちゃったものなのかは不明。
でもって、エンジン周辺の外板が外されてしまってるので判りにくいですが、
インタークーラーが機首部にあるのがこの機体の特徴で、
このためP-40やホーカータイフーンのような悪夢のようにダサイ、
アゴ付きの戦闘機となってしまっております。
…実際のマーリンムスタングが、こんなへっぽこデザインにならずに済んで本当に良かったと思います…。

ムスタングX(10)の完全状態の利用可能な写真が見つけられ無かったので掲載できませんが、
ホントにシュムード率いるノースアメリカン社の開発チームのデザインセンスは
当時としてはずば抜けていたんだなあ、とつくづく思います。

逆に、ノースアメリカン社は、よくこんな大きなインタークーラーをよく従来の冷却装置に組み込んだな、
と思う所ですが後で見るように、この点にはやはり相当な苦労があり、
これが例の量産型完成までの7カ月の浪費に繋がって行きます。
よって、もし冷却器問題がなければ、もっと早くマーリンムスタングは完成していたはずで、
そうなるとA型は生産されずに終わっていたかもしれません…

ちなみにその2機造られたXP-51Bの写真も掲載できないのですが、
こちらは20o機関砲×4門つんだマーリンムスタング、というスゴイ機体になってます。
ただし先にも書いたように胴体下の冷却器周りの形が量産型とは結構異なるのですが、
この辺りは写真無しで説明してもわからんと思うので、深入りせず。

といった感じで、今回はここまで。
次回はA-36から始まる12.7o機関銃を搭載した主翼の話を少しします。
…多分。



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