■イギリスの戦闘機の体重の秘密

さて、では再度P-51ムスタングの進化表を見て置きましょうか。

ちなみに余談ですが、世界の傑作機シリーズのNo.79は日本語で読める
D型以降のムスタングの最高の資料ですが、軽量型ムスタングに関して、
特に試作でおわったXP-51F&Gの記述は間違いが多いので、要注意。

記事中に一部推測である、と断りが入ってるので、筆者の方も、
当時の資料少なさで苦労したと思われるのですが、
とりあえずこの部分は飛ばして読みましょう。



最初のマーリン搭載ムスタング、P-51B&C型の後、
P-51Dの開発が始まるのですが、実際の開発計画では、軽量型の設計の方が先、
あるいは少なくともほぼ同時に動いてたと思われます。
実際、B型の初飛行直後から、シュムードがイギリスに渡っていた
1943年の2月から4月までの間、D型の設計は動いてないようです。

この辺り、本来なら軽量型が究極のムスタングとして先に計画されてたのに、
どうも予想以上に時間がかかるぜ、という事で、
急遽、そのつなぎとしてD型が開発されたような印象もありますが、
この点の明確が記録が見当たらず、断言はできません。

さて、2月になってイギリスに到着したシュムードは当初、RM.14.SM と名付けられた
超高ブーストの2000馬力を超えるマーリンエンジンに興味を示します。
(以前にも書いたが、マーリンは数字の上では(笑)2000馬力級のエンジンなのだ)
これは後に軽量型試験機の2番目の機体、
XP-51G型に搭載されたものの、技術的な問題が多すぎ,
さらにエンジンの生産も中止になったため、最終的に搭載は断念されます。

ちなみにスピットファイアのように
グリフォンエンジンと5枚プロペラの組み合わせをP-51に導入できるか、
という点もまた検討したようですが、こちらは試作前に不採用に終わりました。

その後、スピットファイアの重量を部品単位で確認し、
その軽さの秘密についての検討に入ります。
ちなみにイギリス側では部品ごとの重量データを持って無かったので、
分解の上で実際に各部品の重量を計って、データを収集する事になったのだとか。

この数値を検討して見ると、機体設計時の荷重倍数(load factor)、
すなわち運動中の機体にかかるGの耐用基準差にシュムードは気が付きました。
空中戦の急旋回、あるいは急降下からの引き起こしなどの機動を行った際に、
機体には凄まじい負荷がかかるのですが、その安全確保のための
耐久性をどれだけ取るか、という事です。

ムスタングは12G、機体重量の12倍の荷重倍数まで耐えられる設計になっていたのに対し、
スピットファイアはより低い11倍、11Gまでとしており、この結果、より強い力に耐える必要があった
ムスタングはスピットより重い構造になってしまったわけです。

これはエンジンマウント周辺、さらには主脚の耐久性などもそうで、
ムスタングはより強い力に耐えるため、より頑丈な、すなわち重い構造となってました。

当然、その方が頑丈でより安全なんですが、実際の戦争で使われてるスピットファイアが
負荷荷重の低さから分解、あるいは脚が吹き飛んだ、という事はほとんどなく、
すなわちムスタングの設計が、必要以上に過剰な安全性を確保していた事になります。
この結果、機体が重くなっていたのだ、とシュムードは判断するのです。

となると、次の軽量化ムスタングは強度維持のための部位を削り、
その重量軽減を果たす事になるのですが、これはほぼ再設計になる事を意味します。
さらに翼の形状も一新したため、
軽量化ムスタングは、事実上別の機体、という形になって行くのでした。
(D型以前の機体との共通部品は10%程度と言われてる)



■Photo US Air force / US Airforce museum

軽量化ムスタングの生産型がこのP-51H型なんですが、
微妙に縦長で丸っこくなり、どこかデッサンの狂ったP-51D、という印象があります。
その中身はほとんど新設計されたものでした。
ちなみに全体のサイズはD型とほぼ同じです。



実際はシュムードが43年4月の帰国後に軽量化に関する報告書をまとめ、
これを陸軍航空軍のボス、アーノルド将軍が読んでから
社長のキンデルバーガーに開発許可を出し、そこから設計がスタートしたようです。

その結果、最初に造られた試作型の軽量ムスタングがF型、XP-51Fでした。
これは試作だけで終わったため、F型は最後までXP-51Fの名称のままでした。
ちなみにP-51D型の後、E型は造られず、このF型に型番が飛んでるのですが、
その理由は不明です。

シュムードによればF型は最終的に離陸重量で7340ポンド、
約3.33tとD型に比べて約1t 近い減量に成功します。
これはほぼスピットファイアに近い、それどころか若干軽い重量です。
見事に減量成功、と言っていいでしょう。
まあ、後で見るように、量産型のP-51Hではこれらの減量効果が
ほとんど吹き飛んで無くなってしまうんですけどね(笑)…。

ちなみに武装とプロペラはなぜか先祖帰りしていて、
12.7o機関銃×4、プロペラは3枚でした。
このF型が後の軽量ムスタングの量産型、P-51Hの原型となるわけです。
(ただしH型では武装とプロペラはD型と同じに戻される)

最初の軽量型ムスタング、XP-51Fは1944年2月14日には初飛行にこぎつけました。
これはイングルウッド工場でD型の量産が開始されたのとほぼ同時ですから、
ホントにムスタングは後継機の開発の段取りがいいですな。

ちなみに計画開始から13カ月、実際の設計開始からはせいぜい10カ月ですから、
ほぼ新設計の機体の開発としてはかなりの速度で、
この時代のノースアメリカン社の凄さが感じられます、この辺り。

その後、試験を重ね、機体は十分な性能を示したとされます。
おそくらく3機が製造され、その内、最後の3号機は試験のためイギリスに送られ、
ムスタングV(5)の名前が与えられました。
ちなみに非公式なイギリスでの愛称としてマージー・ハート(Margie Hart)という
名があったとシュムードは証言してます。
これ、当時有名だったストリップダンサーの名前で、
どんどん脱ぎ捨てました、という洒落でしょうね…。

ちなみにシュムードはハートをロンドンのストリッパーと言ってますが、
実際は彼女は主に戦前にニューヨークで活躍してた女性なので、
どうもアメリカ軍内での呼称の記憶違いじゃないか、という部分もあります。
実際、彼の戦後の証言は、一部F型とH型を勘違いしてたりしてるらしき部分があり、
設計者本人の発言とはいえ、うかつに鵜呑みにはできませぬ。

で、このF型に例の2000馬力級マーリン、RM.14.SM を搭載したのが、
2番目の軽量型ムスタングとなるG型、XP-51Gでした。
ちなみにこれも試験機のXP-51Gのまま終わります。
試作機の内一機に5枚プロペラ(おそらく木製)を搭載して、
イギリスに引き渡す、という条件で開発中のエンジンを
譲り受け、XP-51Fに搭載したもののようです。

この2000馬力ムスタング、G型は1944年8月9日に初飛行(ただし異説あり)、
当初は4枚プロペラだったのを、5回目の飛行から5枚プロペラにされたようです。
全部で2機が造られた内、2号機がイギリスに送られた事になってますが、
どうも実際には送られてなかったのではないか、という説もあり。
実際、イギリス側の呼称の記録が見当たりません。

シュムードによると、この2000馬力ムスタングのG型は
当然のごとくP-51シリーズ最速の機体となり、
時速498マイル(約801q/h)の速度記録を叩きだしたとされます。

この時、彼は社長のキンデルバーガーに、いっそのことキリのいい時速500マイル達成、
と報告しちゃおうぜ、と進言するのですが、厳格なキンデルバーガーはこれを拒否、
キチンと498マイル(実際はさらに低い数字で申告したらしい)で報告してるのだとか。
この辺り、ノースアメリカン社のデータは意外に正確である、というのが
戦争省(Department of War)での評価だった、とシュムードは言ってますが、
確認できなかったので、ウソかホントかはわかりませぬ(笑)。
  ただし、結局この“2000馬力マーリン”RM.14.SM はいろいろ技術的に無理があり、
ロールス・ロイスでもその量産をあきらめたため、G型も単なる試験機で終わります。

ちなみに、大戦中のドイツの機体のデータの場合、ほとんど全部、メーカーの自己申告で、
あまり信用が出来ないのですが、実はアメリカ陸軍もそれに近いものがありました。
ただし、アメリカ機の場合、購入またはレンドリースを受けた
疑り深い(笑)イギリス空軍が全てキチンと試験してたので、
そのデータによって、正確な数字は明らかになってます。

が、この辺り、アメリカ陸軍もあまりいい気分ではなかったようで、
戦後、空軍が独立後、自前の試験部隊を造って、
必ず全ての機体の性能評価をやるようになるのです。

さて、というわけでG型はエンジン調達の見込みが無くなったので、
最初のXP-51-Fを基に計量型の量産機が造られる事になり、
これが通常ムスタングの最終型、P-51 H 型となります。
通常、とわざわざ断ったのは、当然、通常じゃない(笑)ムスタングが
この後、登場するからですが、それはまた次回。

全体の流れとしては、XP-51F→P51H(量産型)であり、
それと並行して2000馬力のXP-51Gの試験が続いていた、という感じですね。
実はここにさらに2段過給機付きアリソンエンジンの試験機、
XP-51Jが加わるのですが、この機体もまた次回に。

とりあえず軽量型ムスタングの量産化計画は1944年4月20日、
F型の初飛行から2か月後にノースアメリカン社内で動き始めます。
6月30日にはH型、すなわちP-51Hとして1000機の発注が行われたようです。
エンジンには高度10000フィート(3048m)前後の低空で
2分間の時間制限ありながら、水メタ噴射の戦時緊急 (War emergency) 出力で
これまた2000馬力を発揮できた新型のパッカードマーリンV-1650-9を搭載、
さらに4枚プロペラに戻す、という事も決定します。

ただし武装も12.7o(0.5cal.)×6門に戻したりしたため、
離陸重量は4.3t まで重くなってしまい、結局、D型に比べて約100s、
3%ほど軽くなっただけに終わります…。
まあ、それでも減量しないよりはマシなんでしょうが。

もっとも乾燥重量、つまり燃料も冷却液も弾薬も積まない状態だと、
500s近く軽くなっていたというデータもあります。
が、搭載燃料も弾薬数もD型とほぼ同じはずで、なぜ乾燥重量だけ
そんなに軽くなるのかは、どうもよくわかりません。



■Photo US Air force / US Airforce museum

H型は、なんか前後が縮んだように見えますが、実際は天地、つまり縦方向に
少し引き延ばされた設計になっており、
D型とはかなりフォルムが異なるのがわかると思います。
ちなみに写真の流用が可能なアメリカ空軍博物館では、このサイズしか公開しておらず、
写真が小さいのはご容赦。

このH型は1945年2月3日、ドイツの降伏まであと約3カ月、
日本の方はあと約6カ月、という段階で初飛行に成功します。
最高速度は780q/hを超え、D型より80q/h も高速になっていたもの、
高度2万フィート(6064m)までの到達時間は6.37分と、
加速上昇力はD型とほとんど変わらないじゃん、という数字に終わってます。
まあ、事実上、減量に失敗してますからね…。

そういった意味では成功作とは言い難いのですが、
それでも究極のムスタングとして生産が始まるのでした。
が、生産開始の1945年の初夏にはドイツがすでに降伏済み、
その後、日本降伏直線の7月30日の段階でも221機しか完成してませんでした。

当然、実戦には間に合わず、最終的にH型は1945年11月まで、
カリフォルニアのイングルウッド工場でも555機を生産して終了となります。
ちなみに、当初はダラス工場でも生産予定で、こちらはP-51Lの名前が予定されてました。
(P-51M とする資料もあるがL型が正しいようだ。MはD型のエンジン違いバージョンで
大戦中には生産が間に合わず(おそらく1機だけ完成)、生産途中の機体はスクラップにされた)

正直、思ったほどの性能向上は無かった、というのがこのH型なんですが、
とりあえず、軽量型ムスタングであるH型をもって、P-51量産機の歴史は幕を閉じます。

ただし、ちょっと異質の軽量型試験機、J型と、さらに異質の(笑)双胴のムスタング、
P-82(F-82)ツインムスタングという、異端児が居ますので、
この辺りは、次回に見て行きましょう。

という感じで、今回はここまで。


BACK