■だったらノースアメリカンにしよう

前回見たように英仏購入評議会が買おうとしてたアメリカ戦闘機の本命が
カーチスのP-40だったわけですが、カーチス・ライト社の製造能力には限界がありました。
ところが、イギリスだけでなく、まだドイツに蹂躙される前のフランスも購入を計画してたので、
それなりの数が必要だったのです。

なのでカーチス・ライト社で生産できないなら、他を当たるしかない、
という事になり、P-40のライセンス生産を請け負ってくれそうな会社として
白羽の矢が立ったのがキンデルバーガー率いるノースアメリカン社でした。


■Photo US Air force / US Airforce museum


以前にも書いたように、ノースアメリカン社はハーバード シリーズの練習機を
既にイギリス空軍(RAF)に売り込んでました。
戦前の段階で写真のBC-1を約400機以上、ハーバード I として納入してます。
余談ですが、この写真、下の影を見ると後退翼になってるというのがよく判りますね。

この時の商売において、機体性能、品質、そして納期共にほとんどトラブルが無く、
これがイギリスがノースアメリカン社に注目するきっかけになったと言われてます。
同時に、ゼネラルモーターズ(GM)の子会社で、量産は得意だろう、
と考えられていたフシもありますが。

ただし、この辺り、どの資料を見てもイギリスからノースアメリカン社への生産依頼だった、
とされるばかりで、フランスのフの字も出てきません。
フフフ、私たちの事は気にしないで、カーチス生産分はフランスさんが引き取ってちょうだい、
おお、マドモワゼル、トレビアーン、といった事なのか、
あるいはフランスなんざ知るか、オレさえ良ければいいんだ、という
例によってブリタニズム全開の展開だったのか、よく判りませんが。

でもってノースアメリカン社側によると、最初のP-40生産打診は1940年2月、
すなわち陸軍戦闘機の販売が正式に許可される1か月近くも前に来た、との事。
この辺り、英仏購入評議会とカーチス・ライト社との間で、
事前から交渉が行われており、早くから生産不能とわかってたんでしょうかね。

で、既にノースアメリカン社の設計主任(Chief designer)になっていた
シュムードによると、当時のノースアメリカン社内では
どうもP-40の生産を請け負う事になるらしいぜ、というウワサが流れてたのだとか。
でも特に準備命令も無く、カーチス・ライト社からも設計資料などが送られてこなかったので、
単なるウワサに過ぎないようだ、と現場の連中は思っていたとの事。

ところが3月上旬(まだ輸出の正式許可前なのに注意)のある日、
社長の“ダッチ”キンデルバーガーが、
設計主任だった“エド”・シュムードの元を訪れ、質問を浴びせます。
「エド、俺たちはこの会社でP-40を造りたいんだろうか?」
それを聞いたシュムードは、キンデルバーガーもその受諾に迷ってる事を見て取り、
待ってましたとばかりに答えたそうな。
「とりあえずオレらで新しいのを造ろうよ、ダッチ。
あんな旧式機(Obsolete airplane)を造るのはよそう。
ウチの会社なら、より新しくてより優れたヤツが造れる」

この会話によってキンデルバーガーの決心はついたようで、
その場でシュムードに機体の大まかな3面図と内部の簡易構造図面、
武装と重量と最低限の性能予測、といった仕様書の作成を命じたのでした。

この後、キンデルバーガーはP-40のライセンス生産では無く、
自社開発の機体を造らせて欲しいのだけど、
という逆提案交渉のため2週間近く出張に出るのですが、
行き先は英仏購入評議会のあるニューヨークでは無く、直接イギリスに渡ってます。
すなわち、やはりフランスは蚊帳の外になってますね…。

その出張前にキンデルバーガーがシュムードに最低限の性能要求として示したのが
NAA SC-1050と呼ばれる社内文章で、これは1940年3月15日、
これまた陸軍戦闘機販売の正式許可が下りる前に造られてます。
(最終的には契約成立するまでにNAA Spec1592まで要求仕様は進化するのだが)

このNAA SC-1050の現物は私も見てないのですが、
シュムードの記憶によれば、極めてシンプルな内容でした。
とにかく当時最速の機体を目指す事、20o機関砲2門を搭載出来る事(後に変更される)、
当時のアメリカ陸軍が要求してる性能は全て達成する事、
そして178p(5フィート10インチ)、63.5s(140ポンド)の体格を持った
パイロットが乗れる広さの操縦席を確保すること、といった内容だったとか。

ちなみにこれを受けたシュムードが最初にやったのは
必要条件とされた身長178p、体重63.5sの人物を探すことだったそうな(笑)。
調べてみるとアート・チェスター(Art Chester)がまさにこの体格である事が判明、
1940年3月下旬、彼を座らせてその寸法を取る事から、ムスタングの歴史は始まったのでした。

ついでながらチェスターはエアレーサーのパイロットが本業で、
自分で機体の設計もやるタイプの人でした。
戦争によってナショナル エアレースなどの全エアレースが
中断となってしまったため、職を求めてノースアメリカン社に来ていたようです。
この人も専門教育を受けてる人ではないのですが、
その後、P-51のプロペラ スピナーとエンジン搭載部、ノーズ部分の設計を担当してます。

この辺り、一部ながらもエアレーサーの設計経験が投入された機体、
という事でスピットファイアに共通する部分でもありますね。
後はイタリアの末期、否、マッキのM.C.シリーズも一応、そうですけど。

ついでにアートは戦後、エアレースが再開されると、
再び自ら設計した機体でレースに復帰したのですが、1949年に事故で亡くなってます。
この辺り、戦後のエアレースがムスタングであふれ返って、
自作レーサーを駆逐してしまった退屈な状況を見て、
その両者に関わっていた彼がどう考えていたか、興味深い部分ではあります。


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