■めぼしい戦闘機は根こそぎだ


さて、前回の最初に書いたように、1940年3月から、晴れてアメリカ陸軍向けの
軍用機もヨーロッパの連合国による購入が可能になりました。

この後、英仏購入評議会(Anglo-French Purchasing Board)は
カタリナなどの水上機(イギリスが太平洋の植民地で使う気だったらしい)、
A-20攻撃機(イギリス名ボストン/後の夜間戦闘機型がハヴォック)などと並び、
とにかく早急に必要と思われた戦闘機の購入を急ぐのです。

まともな戦闘機の数が揃って無い、ドイツは国境で不穏な動きをしてる、
という状態のフランスの状況は特に切実でした。
よってまず購入が決まったのは直ぐにでも導入可能だったカーチスのP-36で、
これはフランス降伏前に現地に到着、一定の数が実戦に投入されてます。

対してスピットファイアとハリケーンを持ってるイギリスにとって、
P-36やP-35といった旧世代機はさすがに魅力が有りませんでした。
(ただしフランス降伏後、イギリス領に逃げて来たホーク75(P36の輸出用機)は運用した。
さらに後、植民地軍用にインドでライセンス生産を試み、失敗してるらしいが、
とりあえずまともに購入を検討した形跡は無い)

よってイギリス空軍(RAF)の興味は、
1940年の段階で配備予定中だった最新鋭機、P-38、P-39、P-40
の三姉妹に向けられて行きます。
(P-47はまだ初飛行前、P-51はイギリスが発注するまで影も形もない)

この中で一番開発が進んでいたのがカーチスのP-40で、おそらく
最も手っ取り早く手に入る最新鋭の機体がこれでした。
実際、この直後の1940年の6月には、早くもアメリカ陸軍向けの納入が始まってます。
イギリスも、3月の正式解禁前から、その購入交渉に動いてたようです。

ところが最初にフランスとイギリスが正式な購入契約を決定したのは
まだ一部が開発中(というか迷走中)だったベル社のP-39でした。

英仏購入評議会から契約を取り、さらにアメリカ陸軍による
国外譲渡協定(Foreign release agreement)を最初に認可されたのが同社だったのです。
これは1940年4月4日の事で、実はこれ、アメリカ陸軍が英仏購入評議会への販売機数を
2440機まで、と決定した4月10日よりも前ですから、
フライング契約といった面すらあった早業でした。
よくアメリカ陸軍もこれを受け入れたなあ…

もっとも英仏購入評議会は結局、アメリカ陸軍戦闘機3姉妹を全部購入する事にして、
そこから続々とP-38、P-40と国外譲渡協定を成立させてゆきます。
ちなみにP-38は8日後、購入機数の限度が指定された後の4月12日に契約成立、
そして本命ともいえるP-40は一番最後、P-39より2週間遅れとなる18日の契約成立でした。
この辺りのカーチスの殿様商売的な余裕が、この後、同社の首を絞めてゆくような
気がしなくもなくもないですね…。
(ただし正式にはこの後、戦争省の認可をさらに受ける必要があったが、
陸軍が同意してれば間違いなく認可は降りた)

このベル社の速攻は、良くも悪くも(笑)辣腕経営者としか言いようがない
ラリー・ベルの売り込みによる成果だったようです。

ちなみにその後、P-39は1941年1月ごろからようやく量産に入ったので、
当然、フランスは半年以上前に降伏済み、イギリスももはや
戦闘機の枯渇という状況を脱しており、この売り込み、
両国にとってはやや騙された感があったんじゃないですかねえ…。



P-39は胴体中央部、重心点に重量物のエンジンを置き
(ゆえにコクピット後ろに空気取り入れ口と排気管がある)、
理想の機体重量配分を達成した戦闘機でした。
このため機首部にエンジンがないので前輪を付けられた上に重武装も可能、
と理屈の上では(笑)理想的な設計だったのがP-.39エアラコブラです。
ついでにイギリスではカリブーとの命名だったようですが、後にアメリカと同じエアラコブラとなりました。

ただし、これもベル社にとって初めての“まともな”戦闘機で、
同社にも戦闘機開発の経験らしい経験はなかったのです。
このため、この機体はトラブルの嵐、という運用を強いられることになります。
(YFM-1 エアラクーダがまともな戦闘機だと思ってる人は悪いキツネの霊が付いてる可能性が高いので要注意)

ついでながら、私は大好きな機体です(笑)。
余談ついでに私の好きな戦闘機十六羅漢ベスト3は、スピットファイア、ムスタング、コルセア、
そしてエアラコブラとなってます。
……あれ、この中でエアラコブラだけ、サイト表紙で絵にしたことないな…。

さらについでに、この前脚ありの3点姿勢より前方視界が良く見え、
陸上の滑走が楽になったのでした。
ついで、離陸中、一度尾輪を持ち上げて水平姿勢にしてから(操縦桿を前に倒す)
改めて機体を上に向かせる(操縦桿を手前に引く)という面倒な操作もなくなって、
現在の航空機と同じように普通に滑走して、十分な速度が付いたら操縦桿を引けば浮く、
という単純な操作の機体になってました。

ただし肝心の飛行性能がイマイチだったため(涙)、
基地の門からフリーウェイに出て、ドライブを楽しむには最高の機体、
とアメリカ陸軍のパイロットから皮肉まじりのコメントをもらったりしてます。



ちなみにあんまり見る事が無いと思われるP-39の内部構造はこんな感じ。
エンジンの前が操縦席がある場所で、その前にある弾倉付の機関砲は37o(笑)機関砲。
戦争でもする気か、という大口径機関砲で、機首部にエンジンが無いエアラコブラならではの武装です。
これをプロペラ軸の中心から撃ち出すわけです。
このため、プロペラを撃ち抜かないようにする必要が無く、同期装置は不要になってます。

エンジンの出力軸がプロペラの中心に直結してないで、歯車(減速器)を介して下から回してるのは、
操縦席の位置を迂回するためと、この37o機関砲搭載のための構造です。
それはいいとしても、こんな長いシャフト(回転軸)を高速回転させるのですから、そりゃトラブルよな、
というのはなんとなく私でも想像がつくわけで…

でもって本来、P-39には排気タービン過給機が搭載予定となっており、
実際、最初に造られた試作機XP-39にはこれが搭載されてました。
つまり高高度でも十分な出力が得られ、低空でも高出力が期待できるわけで。
(ただし燃費がベラボ―に悪くなるのだが)

ところが“辣腕ラリー”ことベル社の経営責任者、ローレンス・D・ベル(Lawrence Dale Bell)が、
試作機のXP-39が飛んだ後、排気タービン過給機をを外しませう、
とアメリカ陸軍に提案してしまうのです。
これは軍に受け入れられ、その結果、気の毒なくらい性能が低下してしまう事になり、
この結果、P-39は、世界中(ソ連を除く)で気の毒な戦闘機として扱われる事になるのでした。
(排気タービンを外してみたら?という提案は最初陸軍がした、という話もあるが最終決定をしたのは
間違いなく経営者であるラリー本人の意思で、陸軍がこれを強要までした形跡は無い)

ただし、後にこれをレンドリースで受け取ったソ連空軍では、なぜか大人気でした。
この結果、後継機のP-63キングコブラとあわせ、大量に北の大地に送り込まれ、
ソ連の対ドイツ戦で活躍する事になります。
なんで?と思うんですが、なにせソ連軍、信用できる資料を私は知らないので
ウカツな事はいえません。
前輪有の3点姿勢で離着陸が容易だったから、という話もあるんですが、
それだけで?という気もしますしね。

…ちなみにP-63の“キング”コブラ、共産主義国家のソ連では前資本主義的封建社会の
支配階級という退廃主義者的ネーミングである、として問題にならなかったんですかね(笑)。
書記長コブラとか、議長コブラとか呼ばれてたりしたりしないんでしょうかね。
…ね?

ちなみに、そのソ連空軍相手に死闘を繰り広げたフィンランド軍は、
これもミスター残念戦闘機、F-2Aバッファローを駆って
伝説的な活躍を見せてますから、北の大地って、何かダメ戦闘機を
生まれ変わらせる魔力でもあるんでしょうかね。
…ね?

でもってラリーがなぜ、量産型の機体では排気タービン廃止という
トチ狂った決断をしたのかは未だに定説がないのですが、
この機体がベル社にとって初めての“まともな”戦闘機であったため
高度な技術を必要とする排気タービンの搭載は技術的に無理だと判断した面があったようです。
(試作機XP-39では排気タービン搭載ながら性能がイマイチでNACAからダメ出しされまくった)

さらによく知られてるように、会社設立以来、まともな機体製造の実績がなかった
ベル社は1939年の段階で、すでに手元資金は枯渇、銀行からも見捨てられつつありました。
が、その年の6月にはヨーロッパで戦争が発生、これはボロ儲けのチャンスとみたラリーは
戦争ビジネスのチャンスに乗り遅れるのを恐れ、とにかく手っ取り早く
P-39を形にして売りまくるのだ、と考えたようです。
(ホントにそういう人なのだ。後にベトナムでも同じような事をやるのよ、この会社)

後の彼の行動からして、ラリーの頭には最初からヨーロッパへの
販売計画も間違いなくあったはずで、
その場合、最高機密であるターボチャージャーを積んでない方が有利、
という判断があった可能性も否定できないでしょう。

なのでスグに売れる戦闘機を完成させるため、何かと面倒なターボチャージャーの
搭載を諦めた、というのがどうも可能性としては濃厚なような気がします。
そもそもP-40などは同じエンジン構成でアメリカ陸軍から契約取ってますし、
これで十分、と判断しちゃったのかもしれません。

実際、P-39(当初はP-45という名前だったらしい)の最初のアメリカ陸軍との契約締結は
その直後、1939年8月10日ですから、この決断は経営的には正解だったわけです。
技術的には、まあ、その、あれですがね…。

が、アメリカ陸軍も金の無い時代ですから、いろいろ世知辛く、
契約は取れても支払いは実際の機体の納入後、となってました。
ところがこの段階では、ようやくターボチャージャーを外して開発続行、
という状況ですから、いつになったらP-39の量産機が納品できるかなんてわかりませぬ。

おそらく陸軍の契約を保障として銀行からお金を借りて一時を凌いだのでしょうが、
そんなのあっという間に行きづまるわけです(笑)。
そもそもこの段階で、ベル社はまともな自社工場すら準備中だったはずで、
(機体の量産経験なんてないのだ)
お金はいくらあっても困らない(この点は私も常に同じだが)状況だったのです。

ここで天の恵みとなったのが英仏購入評議会の戦闘機購入で、
既に書いたように、アメリカの現金商売政策によって、こちらはニコニコ即現金払いでした。
これを知ったラリーは、アメリカ政府が許可を出した1940年3月、
速攻でニューヨークにあった英仏購入評議会を訪問、
先に見たように速攻で契約をまとめてしまいます(笑)。

ちなみにこの段階では、購入を決めたのはフランスだけだったようですが、
わずか3カ月後にはドイツに降伏してまいますから、当然、実機は受け取れませんでした。
この契約を引き継いだのがイギリスで、自国の発注分だけでなく、
フランス向けの機体を中心にエアラコブラを引き受ける事になります。

でもって、この英仏との契約時に要求されたのが例の防弾装備で、
このため、すでに生産が始まっていたP-39Cをたったの20機前後で生産中断とし、
防弾設備を取り付けた上でP-39Dに改名、これを基に輸出用の機体も生産に入ります。
ただし、この辺りも謎が多く、最初のP-39Cは英仏との契約終了後に量産に入った機体で、
だったら、なんで最初から防弾装備を付けなかったのか、という疑問が残ります。
たった20機前後だけ造って、後は防弾装備搭載のため打ち切り、というのはどうも変な話ですし…。

まあ、ここら辺りが辣腕経営者“ラリー”・ベルのある意味(笑)スゴみですが、
同時にこの人、どうも機体性能について、適当なウソを平気でつくという悪癖があり(笑)、
これが後にイギリス空軍がP-39(と改造型のP-400)のあまりの低性能ぶりに激怒して、
大きなトラブルに発展する事になるのです。
(ちなみにP-400の400は時速400マイル(約643km/h)出るぜ、という意味だったらしいが、
それは速度記録用に徹底的に改造したデモ機の性能で、
防弾設備を追加して重くなってる量産機で出るわけが無かった…)

ちなみに、その被害はイギリスだけでは無く、アメリカ陸軍も騙された一人でした。
ラリーがターボチャージャーを外す、と言い出したのを認めたのは、
それでも十分な性能は維持できると彼が主張したからだったのです。
すなわち、高高度で多少は性能が落ちるだろうけど、
それ以外の高度ならバッチグーの高速、重武装戦闘機になるはずでした。
ところが、現実はそうはなりませんでした(涙)…。
この辺り、アメリカ陸軍の公式資料でもかなり辛辣に評価されてますから、
いかに酷い機体だったかがわかります。

ちなみにアメリカ陸軍相手にはラリーが上映時間30分のP-39宣伝映画を
わざわざ制作、審査委員会の会場に持ち込んで上映し、
この結果、契約を勝ち取ったという話もあります。

これが兵器における最初のプロモーション映画だとされるので、
まあ、確かに辣腕経営者だったのでしょうが、その前に
航空機メーカーとして、やるべき事はいろいろあるような気も…。


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