本題にもどりましょう。クビになったルッサーはフィゼラー社に流れて行きます.
さあ、もうわかったかな(笑)。
ここで彼の制作したのがFi103。もうわかったよねー(笑)。
そう、あのドドドドイツのチョー秘密兵器、V1飛行爆弾であります、閣下。
マジですか!マジです。
パルスジェットエンジンと、自動ナビゲーションシステムをつかって、
占領下のフランスからロンドンまで飛んで行き、そこで上空から真っ逆さまに落っこちて爆発する、
あの飛行爆弾V1、その機体部分の主任設計者はルッサーなんです。
Me109とV1は、同じ親から産み出された「飛行物」ということになります。



V1飛行爆弾。ロンドン方面にバカスカ撃ち込まれました。
イギリス初のジェット機、グロスター ミーティアがその撃墜にかり出されたことでも有名。

パルスジェットエンジンを造ってたアルガス社の技術者Fritz Gosslau(読めない(笑)…)との
共同開発だったそうですが、機体まわりはおそらくルッサーのデザインです。
「最新装置好き」な彼なので、誘導装置の開発にも多少関係してたのかなあ、とも思います。
この開発そのものはドイツが誇っちゃう世界の頭脳集団研究所、
あのペーネミュンデで行われたようで(総合研究所とは別組織での開発だったらしいが)、
この後、フィゼラーを退社して、ペーネミュンデ総合研究所の研究員になります。

ここで、横道にそれますよ(笑)。
日本がドイツの技術のおこぼれで開発した機体としては、
軸流ターボジェットエンジンの「橘花」、ヴァルターロケットを搭載したMe163のコピー、「秋水」などが有名ですが、
このV1ロケットの技術も1943年の段階で日本に伝わっていました。
が、島国日本での使い道はないと見たのか、イマイチ研究された様子が無く、
終戦間際に、人を乗せて特攻機にしましょう、みたいな計画が持ち上がり、
東大(帝大)にあった航空研究所の教授二人によって設計されています。
計画そのものを発案したのがこの教授たちだった、という話もありますが未確認。




Me163を日本でコピーした秋水。試験飛行のみで終戦に。

これが「梅花(ばいか)」で、結局、設計段階で終戦を迎えます。
しかし仮にも大学で若者を指導する立場にあった人間がよくもまあ特攻機なんかを
と思いますが、時代的なものもあったんでしょうし、ここでは深入りしません。
中心的役割を果たした二人のうち一人は戦後、航空関係の学部がなくなって東大をさりますが、
もう一人はその後もスター教授の一人として居残ります。
戦争協力者があの時代の東大に居座ったんですから、相当な政治力ありと見るべきかもしれません。
ちなみに、二人は戦前の長距離飛行記録で有名な、「航研機」の主要開発メンバーでもありました。
で、航空研究所が戦後巡り巡って形を変えた東京大学先端科学技術研究センターのホームページとかを見ても、
航研機の記述はあっても「梅花」への記述は見当たりません。知らないのかすっとぼけてるのか。
仮にも若者を育てる機関で特攻機を造ろうとした、という咎は、受けるべきだと思うんですが。
まあ、とりあえず、この問題はこれ以上深入りするのはやめましょう。



特攻専用機、桜花

で、そんな感じでまるでモノにならなかった日本のV1爆弾ですが、
米軍はそうは考えてませんでした。
ドイツの兵器はいつか日本に渡って、そのコピーが登場するにちがいない。
V1なんて、比較的簡単にコピー出来そうだしな!
と思っていたところに、連中が出会ったのが、ロケット特攻機「桜花」でした。
端的に言って、桜花は日本独自の恥ずべき機体ですが、これを見た米軍はV1のコピーである、
とアタマから信じてますし、今でも海外の書籍等では、そのような解説がまれにあります。
桜花が米艦隊の前に初めて姿を現すのは1945年の4月1日なんですが、
早くも5月発売の雑誌TIMEに、日本の新型特攻兵器として仔細な記事が載っており、
基本的にはドイツのV-1ミサイルの進化版としています。
ついでに、間違いも多いものの、おおよそのサイズ、性能もバッチリ。
なんでこんなに早く正体がバレたの、というと、米軍、沖縄上陸戦の初日である4月1日の段階で、
嘉手納基地において、桜花の実機を手にいれていたんですね。
4月1日は、初めて桜花が艦隊に突入した日でもありますから、デビュー初日にもう現物が押さえられていたわけです。
こんだけ早い段階で鹵獲された「新兵器」ってのも珍しいよなあ(涙)…。

で、米軍関係者、その機体を検証し、その構造から動力、爆弾搭載量まで知ってもまだ、
「これってやっぱV1のコピーじゃないの?」という姿勢を崩してないように見えます。
よほどV1爆弾が怖かったんですかね、米軍。直接V1で攻撃された事はないと思うんですが(V2でならある)。
以上、余談。

でもって、まだ終わらない(笑)。
ルッサーはV1開発のあと、なにをしていたのかイマイチはっきりしないのですが、
ロケット野郎ことフォン・ブラウンと仕事をしていたのは間違いないようです。
ルッサーの方が12歳年上なんで、管理業務みたいのをしてたのかなあ、と想像します。
まあ、V1自体も有人機(大失敗)にしようとしたりと、開発は続いてたので、それにも関係してたのか。
で、ペーネミュンデは、ドイツの東の外れみたいな位置なのに、なぜか終戦直前まで戦闘に巻き込まれず、
この結果、最後に映画のような大脱出劇と、アメリカにとってはタナボタな新技術の入手が行われます。
有名なロケットのパパンことフォン・ブラウンは、「戦後アメリカに連行」されたのではなく、
自らの意思で研究所を強行脱走、その研究チームごと、アメリカへの亡命を希望したんですね。



世界初の弾道ミサイルV2。まさに当時のスーパーテクノロジーの塊で、
この関係者がわずか数日の差でソ連とアメリカに分かれて捕まります。
ソ連もアメリカも、独自のロケット技術は持ってたのですが、
このドイツ人たちが宇宙開発に果たした役割はやはり大きいものがあります。

1945年4月下旬、ついにソ連軍がペーネミュンデ迫り、SSからは逃亡を企てた研究者抹殺の命令が出て
えらい大混乱状態の中、ブラウンは自らのSS少佐(!)という立場と、なんとか確保したトラックと列車で
研究員と機材を積み込んでペーネミュンデを強行脱出しました(ヒムラーのサインを利用した偽造書類まで造ったとの話あり)。
この後、アメリカ人との接触に成功、トラックに山積みとなった(一説には列車)研究機材ごと投降し、亡命を希望、
受け入れらています。
ブラウン、ただの学者先生じゃないんですね。修羅場くぐって来てます。
もっとも、この名誉職に近かったSS少佐と言う肩書きが、後々まで非難の対象となるんですけども。
この時、ブラウンが大量のV2を持ち出した、との話がありますが、アメリカが大量のV2を入手したのは、
どこだかの地下工場だったはずなんで、このときはあくまで研究記録と機材のみの持ち出しかと思います。
研究員は全部で120人いた、といわれますから、それだけでも中隊規模の大移動で、よくやったもんです。
このチームの中に、ルッサーがいたのかはわからないんですが、ペーネミュンデに取り残されたメンバーは、
数日後にやって来たソ連軍に、こちらは「強制連行」されてソ連に連れ帰られているので、
強行脱出組に入っていたのかな、と思います。
しかし、ペーネミュンデの連中はアメリカ入国後、残らずロケット開発に参加させられているのに、
どうもルッサーは海軍のジェット機開発に関与していたらしく、別ルートで脱出したのかもしれません。
が、結局、1953年から59年まではフォン・ブラウンに呼ばれる形で、アメリカの宇宙開発プロジェクトに参加、
最初に書いたように、ルッサーの法則を現場に適用してその安全性の向上に貢献します。

最後は西ドイツに帰国、なんとメッサーシュミット社に復帰(西ドイツのF104ライセンス生産をやっていた)、
その後はスキーブーツをデザインしてた、とも言われてます。
スキーはやらないが、そのブーツはちょっと欲しいな。

というわけで、その活躍の割にはイマイチ無名なルッサーですが、これだけの功績を残した人なんです。
単なるMe109のメインデザイナーと思ってたら大間違い、と。

はい、では今回はここまで。

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