■知られざるローベルト ルッサー

ローベルト(ロベルト)・ルッサー(Robert Lusser)の話を書きます。
ルッサーの法則(乗積則)というのをご存知でしょうか(Lusser's Law)。
アポロ計画をはじめとする、アメリカの宇宙開発プロジェクトの品質管理に適用されたことで知られる
品質管理に関する法則で
「完成品の信頼度は、組み込まれた各部品の信頼度の相乗(かけ算の和)に影響される」というもの。
どういう意味かといえば、各部品の信頼度が完成品にあたえる影響を述べたもので、
こんな小さな誤差ならいいか、と部品の欠陥を見逃すと
それらが積もり積もって最終製品はえらいことに!ってな意味です。
部品単位での欠陥は細かいものでも、、それらひとつひとつが集まると、
乗数的な爆発的影響力を及ぼす、ということ。

よって最終的な製品の安全性を考えると、各部品にゆるされる欠陥、誤差は極めて小さいわけです。
アポロ計画をはじめとするNASAの基準として有名な99.9999%の信頼性、
1千万分の1までパーツの欠陥を絞り込む、という数字は、
このルッサーの法則から導きだされた、最終的にロケットの安全性を確保できる数字です。
ちなみに、上記の通り、あれはパーツ単位の信頼性で、完成品のロケットの信頼性が
99.9999%てわけではなかったりします。この点は結構勘違いされてますね。



アポロ計画の月着陸船。
ルッサーは1959年で宇宙開発からは退いてるので、
直接はアポロ計画には関係していない。
で、アポロ11号が月にたどり着いた1969年に亡くなっている。

なんだよ、ドイツ機コーナーでなんでアポロ計画の話が出てるんだよ、
と思っている皆さん、ちょっと待ってね。これは話の枕だから。
思った以上に長くなってしまったのは、本人も自覚してます(笑)。

まあ、現代の生産現場における品質管理の始祖とも言うべき概念です。
複雑なシステムの安全性を確保するための鉄則でもあります。
これを考えたのがローベルト・ルッサー。ドイツ人の技術者で、
これは彼がドイツの兵器開発研究所(ペーネミュンデ)にいた時、
精密部品の集合だった、V2ロケットの生産性を上げるために産み出したものと言われています。
へー、そうなんだ、ですましてはいけない。このルッサーはあのルッサーなのだ。
どのルッサー?だから、あのルッサーとこのルッサーとそのルッサーさ。
驚くべき事に、ドイツを代表する航空兵器の数々から、アポロ計画にいたるまで
たった一人の男でつながってしまいます。
それがローベルト・ルッサーなのです。

さて、ようやく本題。
ルッサーは1899年ドイツ生まれなんですが、なぜか英語の資料では1900年生まれとされる事が多い。
当時のドイツ語圏と英語圏では年齢のカウントのしかたが違ったのか?単なるミス?
まあ、それは置いといて。

さて、彼が歴史の表舞台に出て来るのは、1933年にメッサーシュミット社
(当時はまだBayerische Flugzeugwerke社)に入社した後。
ウィリー・メッサーシュミットに航空機デザイン部門の長として迎えられた彼は、
そこで設計責任者としてM37という飛行機を制作し、これがBf108に発展してゆきます。
そしてよく知られているように、このBf(Me)108で採用されたデザインの数々が、
そのまま第二次大戦中のドイツ空軍主力機、あのBf(Me)109へと結実するわけです。
他の時期のメッサーシュミット機に比べると、この時期の機体はあきらかにデザインが異なるので、
ルッサーの果たした役割は重要で、ルッサーが主でメッサーシュミットが従、
という状態だったように思われます。
そして、彼がデザイン部門のヘッドだった1934年から1938年までに、
メッサーシュミットはBf(Me)109、BF(Me)110という二枚看板を送り出しているのです。
時期的に見て、Bf109Eぐらいまで、その開発に絡んでいたのではないでしょうか。
その後の、Me309、209、210のヘタレぶりを考えると、ルッサーの力量がわかりますね。




ドイツを代表する戦闘機Bf109。
Bf109、Me109と2種類の表記があるのは、生産途中で会社名が変わったため。
この機体の開発で、ルッサーは主要な働きをしたと思われる。

さて。
そんな「メッサーの至宝」ともいえるルッサーですが、メッサーシュミットでの活動はわずか5年。
気位が高く、自らも航空機デザイナーであった、ウィリー(ヴィリー)・メッサーシュミットと衝突して、
事実上、ケンカ別れのような形で退社したようです。これが、第二次大戦勃発前年のこと。
では、彗星のように現れたこれほどの航空機デザイナーが、以後、どこで活動していたのか。
また、そもそもメッサー入社当時33歳ですから、それまではどこで何をしていたのか。
その答えはハインケル社。
メッサーシュミット社に入る前にいたのもハインケル、
やめた後、またもどったのもハインケルでした。

でね。
世界初の実用ジェット戦闘機、Me262が最初に歴史に登場するのが1939年4月の計画案の時。
この機体、メッサーシュミット本人の影響が大きい印象があるものの、
この段階でその設計はかなり完成していた、とのことですから、
1938年まで在籍していたルッサーが、その計画に咬んでいた可能性はあります。



世界初の実用ジェット戦闘機Me262

でだ。
ルッサーがハインケルに戻って何を造ったか。
最初の仕事は、He280らしいんですよ(笑)。ハインケル、渾身の実用ジェット戦闘機(ただし不採用…)。
この機体に関してはミーティアの解説 (なんでイギリス機のとこに書いたんだ、オレ…)
を見てください。
というわけで、世界初の実用ジェット戦闘機と、世界初の試作ジェット戦闘機、
彼はその両方に関わっていた可能性があるんですね。
もっともMe262はあきらかにルッサーのデザインから外れてるので、
せいぜい一枚噛んでた、というレベルでしょうが。
で、ご存知のように、He280では古巣のメッサーシュミットに敗北を喫してしまいます。

で、次の仕事が、He219(ウーフ)の開発。
あの傑作と言われながら寡作の夜間戦闘機ですね。うーん、ドイツ空軍機の花道まっしぐらではないか(笑)。
ただし、彼が関与したのは、その前身のさらに前身である高速爆撃機P.1055まで。
これは一部で有名な(笑)二つのエンジンを横にくっつけていきなりパワー倍増、
いくらなんでもそりゃ無茶だ、なドドドドイツのハイパワー野郎こと双子エンジンDB610を搭載、
与圧コクピットに前輪式の脚、さらには射出座席まで装備して、時速750km出すぜ、ベイビーってなシロものでした。
しかもエンジンは機体に置いて、長いシャフトで両翼についた双発プロペラを回す気だったとの話あり。
野心的すぎますね(笑)。無論、ドイツ空軍は本機の採用をリスクが大きすぎると却下。
この機体、実はまともな写真、あるいは図面を見た事ないんですが、
設計だけで終わったのか、試作機までつくられたのか、イマイチわかりません。



He219、通称ウーフーの胴体のみ(笑)。
ドイツの夜間戦闘機の一つだが、ルッサーはごく初期の設計に関わっている。

しかし、くじけなかったルッサーは主翼のバリエーションを増やしたり、
構造の簡略化をはかって、夜戦にも使えます、ってことにし再度P.1056として機体デザインを提出。
が、これもあっさり却下されます(涙)。
で、これにあわてたエルンスト・ハインケルは、ここまで徹底的に採用されない実績に愛想をつかし、
1941年、ルッサーを解任、クビにします。
その上で、本機を再設計で大幅にリファイン、自信満々で再審査に臨むんですが、
このP.1060もあっさり却下されます(血涙)。ルッサー、悪くないじゃん(笑)。
この後、夜戦に使えそうな機体を探していた空軍のカムフーバーがこれに注目するわけですが、
まあ、この話は本原稿とは関係ないので、とりあえず、ここまで。

ついでに余談。またかよ、って言った人は自動的に呪われるので注意してください。
さて、射出式脱出座席、ことエジェクターシート。
これは緊急時、コクピットからはい出さなくても座席ごと外に放り出してくれるもので、
パイロットの生存性に大きく貢献した装置です。
これを世界で初めて搭載したのが、He280の内の一機。
でもって、世界で初めてそれをつかって脱出に成功したのも本機。
以前、本コーナーのHe162で「世界初のエジェクトターシート搭載」と書きましたが、すみません、ウソです(涙)。
そしてルッサーが次に手がけたHe219の原型機にもエジェクターシートが付いてました。
どうもこのシステムを本格的に開発しはじめた件にも、ルッサーは関係してたように思います。

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