■ダンケルクの奇跡

アラスの戦いは厳しかったとはいえ、ドイツの勝利に終わり。
ロンメルの師団もまだまだ進撃するだけの余力を持っていました。

そしてその南のグデーリアン軍団、ラインハルト軍団も
北東への方向転換を終え、後は連合軍主力を叩き潰すだけ、
という段階に至ったのが5月22日です。

後はもはや無人の野を行くがごとくとなったドイツ機甲部隊は、
徐々にその包囲網をせばめ始めます。
仕上げに連合軍がイギリス本土に脱出できなくするため、
ダンケルク、カレーという港湾都市を抑えてしまえば、
ベルギー軍、フランス軍の主力、
さらには30万人近いイギリスの大陸派遣軍を一気に無力化できたはずでした。

これはフランス、ベルギーを敗北に追いやるのと同時に、
事実上、イギリスの戦争継続能力を奪ってしまう事を意味します。
ドイツは、これによって西ヨーロッパを完全な支配下に置けたのです。

が、よく知られているように最後の最後、カレーやダンケルクの街を占領し、
連合軍の退路を断った上で殲滅する、という段階に達していた
5月24日、突然、ドイツ全軍に対し進撃停止命令が出され、
その前進はストップしてしまうことになりました。

これが、あまりに有名なダンケルクの停止命令です。
これにより、思いがけず時間を稼げたイギリス軍は、
本土への撤退作戦となるダイナモ作戦を全力で発動、
国中から、あらゆる艦船をかき集めてドーヴァー海峡に突入させました。
この結果、ダンケルクの港からイギリス兵約24万、
フランス兵約12万の計約36万名という
歩兵師団なら25〜35個師団分近い兵員を
イギリス本土へと脱出させる事に成功します。
これがダンケルクの奇跡、と呼ばれる事になる撤退戦です。

このダイナモ作戦の成功が第二次世界大戦の長期化と、
最終的なドイツの敗北を決定付けた、といっても
ある意味、間違いではないでしょう。

少なくとも、この撤退作戦が失敗していたら、
後の北アフリカ戦線は、全く別の展開になっていたはずで、
そうなると連合軍はアフリカ戦線からの反撃の足がかりを
得ることができなかった事になります。



このイギリスによる決死の撤退作戦、
ダイナモ作戦を妨害にかかったのが皆大好き、衝撃の白いデブこと、
ゲーリング国家元帥閣下率いるドイツ空軍でした。

これは現場の無理だ、という意見を無視したゲーリングの暴走だったのですが、
それでもドイツ空軍の破壊力が十分に発揮されれば、
ダイナモ作戦はあそこまでの成功を収められなかったでしょう。

が、ここでイギリスは温存していた最後の秘密兵器、
当時ようやく量産が軌道に乗りつつあった新型戦闘機スピットファイアをついに投入、
ドイツ空軍の攻勢をはね返す事に成功します。
さらには天候の悪化などにより、ドイツ空軍、ルフトバッフェは
ダイナモ作戦の妨害に失敗するのです。

これはドイツ空軍にとっても衝撃的な事件となります。
ここまで、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、低地諸国&フランスと
ほとんどライバル不在と言っていい快進撃を続けてきたドイツ空軍が、
初めて大きな損害を覚悟する必要がある敵に出会ってしまったのです。

そしてスピットファイアは、続いて起こるイギリス本土航空戦、
バトル オブ ブリテンでもイギリスを守り抜く事になります。
それは鋼の意思を持つ男が、命を削りながら造り上げた、
イギリスを守るための戦闘機、だったのです。

ちなみに、本来の予定ではスピットファイアは
本土防空戦まで温存するはずだったのですが、
急遽、このダイナモ作戦から投入される事になったのでした。

もちろん、これが失敗したらイギリス本土が危ない、という面があったからですが、
それと同時に、当時首相になったばかり(5月10日就任)のチャーチルが、
このままで自分のクビが危ない、と焦っていた、という面にも注意が要ります。
わずか2週間の戦争で30万人近いイギリス軍が崩壊した、
となると、その最高指揮官であるチャーチルの責任問題となるのは明白です。
ここでは是非でも“奇跡”が必要だったのです。

実は結構単純なドイツ軍やソ連の動きに比べて、
戦争中にも選挙もあれば国会も機能していたイギリスは、
こういった面も注意して見ておく必要があったりします。




では、なんだってそんなトンチキな停止命令がドイツ軍に出されたのか、
という点を最後に見て置きましょう。

これにはまず、あのアラスの戦いがドイツ軍上層部に与えた
ショックを理解する必要があります。

グデーリアンやロンメルのように、高速進撃の衝撃で敵を麻痺させてしまう、
という発想がなかった軍上層部&ヒットラーは、
常に機甲部隊の進撃速度に不安を感じていました。
こんなに戦線が延び切ってしまっては、いつか反撃を受けるぞ、と。

その予想通りの反撃が来た、と思われたがアラスだったのです。
これは完全な単発攻撃だったのですが、彼らはそうは思いませんでした。
A軍集団司令官のルントシュテットとヒゲの総統の
OODAループにおける方向性の決定段階、
ここの“経験則”において、彼らは完全に旧式な戦術の経験しかなかったのです。
この結果、いよいよ敵の反撃が始まった、と思い込んでしまいます。

このため、ヒットラーとルントシュテットはアラスの戦闘について、
これこそ、伸び切ったわが戦線への敵の反撃の開始に違いないと考えます。
よって、このままでは、先行している機甲部隊は包囲殲滅されてしまう、
という方向性の決定を行ってしまいました。
その不安が引き起こしたのが、ほとんどヒステリーと言っていい、
不可解なダンケルクの停止命令だったのです。

これはヒットラーからの指令、総統指令(Führererlass)13号という形で
全軍に伝えられましたが、実は話はそう単純ではなかったりします。

そもそも最初に停止命令を出したのは、第4軍司令官のクルーゲと
その上官であるA軍集団司令官のルントシュテットでした。
彼らは23日の段階で、各装甲師団が前進しすぎていると判断、
さしたる考えもなしに、翌24日の朝8時に進撃を停止せよ、と命じてしまいます。

この命令は現場指揮官の大反発を引き起こした上、
これを聞いて驚いた参謀総長のハルダーが介入します。
マンシュタイン計画をあれだけ嫌っていたハルダーでしたが、
この段階では完全にその支持に回っていました。
このためA軍集団指令のルントシュテットの消極性を非難し、
彼から全ての装甲軍団を取り上げ、これをB軍集団に回してしまう、
という組織上の大変更を行ってしまいます。
(実際の変更命令を出したのは陸軍総司令官のブラウヒッチュ)

が、今度はヒットラーが介入して来るのです(笑)。
ヒットラーお気に入りの将軍であるルントシュテットから、
装甲軍団を取りあげる、という処置を聞いた彼は、これを撤回させた上に、
ルントシュテットの主張する機甲軍団の停止にも全面的に賛同、
総統指令を発して、これを認めてしまったのです。

この結果が、ダンケルクの停止命令となったのでした。
こうして、せっかくの大勝利ながら、
決定的な打撃を連合軍に与えることが出来ずに戦争は終了となるのです。
この結果、何が起こったのかさっぱりわからないまま、
連合軍は可能な限りの兵をイギリスに引き上げ、
これをダンケルクの奇跡、と呼ぶことになります。

ただし、フランスから連合軍主力を追い出してしまったのもまた事実で、
これによって、フランスの敗北は事実上、決定的となりました。
結局、27日の朝8時から攻撃は再開され、脱出できなかった
連合軍部隊への掃討作戦が行われ、
これで連合軍主力は完全に消滅してしまいます。

この後、6月5日に、このドイツ軍が確保しているベルギーとフランスの北部から
一気に南下してパリを目指す対フランス戦第2段階が始まります。
この段階で、もはやフランスに組織的な戦闘能力はなく、
6月14日にパリは陥落、6月21日にはフランスが正式に降伏、
この戦争は終わりとなるのです。


NEXT