■狂気の終焉
さて、もう誰も覚えてないでしょうが、未だ登場していないセンチュリーシリーズの本命、
F102 デルタタガーと F106 デルタダートを中心に今回は観て行きますよ。
この機体で、いよいよ前代未聞の戦闘機ラッシュだった
センチュリーシリーズの歴史は終わる事になります。
さて、アメリカの空の防衛を担当していた防衛航空司令部(ADC)が計画、
1949年に次世代の迎撃機として公開したのが1954迎撃機計画(1954
intercepter)でした。
(ただし具体的な要求仕様がメーカーに出されたのは1950年になってから)
前にも書いたように、これはF-89スコーピオンの採用が決まった直後であり、
かなり早い段階で次期迎撃戦闘機の計画は動いていたことになります。
これに採用されたのが、F-102の原型、YF-102と、計画途中で放棄されてしまう事になる
目標速度マッハ3のチョー高速迎撃機、リパブリックのXF-103でした。
ちょっとだけ脱線して説明しておくと、計画を公表した1949年初頭の段階では
防衛航空司令部(ADC)は予算不足から(涙)戦術航空司令部(TAC)と合併、
北米航空司令部となっていました。
これは朝鮮戦争が勃発してソ連の脅威が大きく取り上げられた後、
1951年1月までそんな状態が続きます。
ちなみにこの時期のアメリカ空軍は万年予算不足&SACの一人舞台、という状態でした。
このため、1949年2月にF-86が配備開始されたあと、1954年秋にセンチュリーシリーズ1号、
F-100の配備が始まるまで、5年間で完全に新型機として開発された戦闘機は
全天候型戦闘機のF-89だけ、という状態になります。
F-86DやF-94Cもほとんど新型ではあるんですが、おおっぴらには予算が確保できず、
従来の機体からの発展型、という事で開発が行われたわけです。
これは1954年秋のF-100から1959年夏のF-106に至るまで、わずか5年で、
F-100、F-101、F-102、F-104、F-105、F-106と6機種もの戦闘機が開発された
戦闘機配備ラッシュに比べると、極めて対照的です。
ついでに、F-84の後退翼型、事実上の旧式新型機(笑)F84Fも1954年から配備されましたから、
5年間で計7機種、下手な自動車メーカーの新車発表より速いペースで
バンバン、戦闘機が登場していたわけです。
空軍も航空雑誌も笑いが止まりません、という感じでしょう(笑)。
もっとも、このセンチュリーシリーズの開発時期の方がむしろ狂ってる、
というのが正しい認識なんですけどもね(笑)。
で、この戦闘機乱立の時期が、アイゼンハワー大統領の任期と重なっている、
というのは覚えておいてください。
そして、この戦闘機の楽園の終焉を飾るのが、今回のF-106なわけです。
1949年2月に、このF-86セイバーが正式配備された後、アメリカにおいては、
通常の戦闘機に関して、ほとんど開発が止まってしまう、という状況になります。
なんで?といえば、1948年10月にルメイ閣下が戦略航空司令部(SAC)のボスになってたの、という事ですね。
が、朝鮮戦争とアイゼンハワー大統領の登場によって、軍事予算無尽蔵時代、
悪夢の1950年代が始まると、お金に余裕ができましたから、SAC以外にも予算が周り、
あのセンチュリーシリーズのラッシュとなるわけです。
そして、そんな“お金のための戦闘機”は、ベトナムで、その性能の限界をさらけ出す事になるわけで。
さて、話を戻しましょう。
この1954迎撃機計画で最も重視されたのが速度で、超音速機である事が必須とされます。
1949年の段階ではまだF-100すら初飛行してませんから、
かなり野心的な要求である、と考えていいでしょう。
が、この部分を追求しすぎたのが(笑)リパブリックのXF-103で、8年近くかかって
モックアップまで造った段階で、計画はキャンセルとなります。
さすがに1950年代の技術で戦闘機でマッハ3は無理が有りすぎたのでしょう。
ちなみに、このXF-103のキャンセルは1957年8月で、スプトーニクショックの直前でした。
これが偶然なのか、アメリカ空軍は既にこの段階で
ソ連の宇宙ロケットの完成を知っていたのかはわかりませんが。
で、それに加えて、なぜか単座機にすること、も同時に必須の条件になりました。
理由は全くわかりません(笑)。
ここら辺りはF-86D辺りからそういった傾向が出てきていますから、
当時のADCの司令官に複座機ギライな将軍とかがいたんでしょうかねえ…。
この点を考えると、複座のF-101Bって何で採用されたのか、やはり全くもって謎なんですよ(笑)。
そして単座である事から、パイロットの負担を軽くするために、
操縦の自動化を推進することになり、この面でも革新的な要求がなされます。
これに応えたのが、変態オーナーでおなじみヒューズ社で、
彼らは極めて高度に自動化された、それこそパイロットはほとんど座ってるだけ、
という火器管制装置(FCS)を完成させ、後のFCSに大きな影響を与えます。
そして、レーダーと連動した地上からの誘導システム、SAGEとの連携も
大きなポイントで、このための装置を積む空間が機体に要求されます。
が、1950年ごろの技術では、これらの要求はやはり無理があったようで(笑)、
計画は遅れまくり、最終的な完成形となったF-106の部隊配備が始まるのは
実に計画から5年遅れの1959年となってしまいます。
それでも、電子システムなどは今から見ても相当なレベルにあったのですが、
残念ながら、この5年の遅れによって
時代の方が変わってしまっていたのでした。
1957年10月4日、ソ連が世界初の人工衛星、スプートニクを打ち上げ、
暗に大陸間弾道ミサイルの開発能力を持つことをアメリカに誇示し、
この瞬間、全天候型迎撃機の歴史は幕を閉じる事になるのでした。
苦節10年、雨の日も風の日もがんばって開発したF-106でしたが、
この結果、当初の予定のわずか1/3、350機前後で生産は打ち切られてしまう事になります。
以後、コンベアの名で戦闘機が造られることは二度とありませんでした。
1957年の秋の空に現れた、この小さな人工衛星が
世界の空の力関係を一瞬で変えてしまうことになるわけです。
ちなみに1959年にもなってから、爆撃機迎撃専門と言っていいF-104の採用を
決めた国が極東にあると何かで読んだのですが、
国民の血税をそんなトンチキ戦闘機につぎ込むような空軍があるとは
とても信じられないので、きっと悪質なデマでしょう。
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