4月20日の戦い

では時系列に沿って賤ケ岳の戦いの最終決戦を見て行きましょう。

中川清秀の守る大岩山と、高山右近が守る岩崎山の両砦を柴田軍の主力、佐久間部隊が襲撃して戦いは始まります。この二人は戦国大名を代表する人間のクズ、荒木村重の家臣(譜代のではないが)だった人物です。ついでに両者ともキリシタン大名で中川はセイファン、高山はジェストの洗礼名を持ちます。このため連絡路によって一つの砦のようになっていた大岩山と岩崎山の守備に二人を入れたのでしょう。

ただし実際の両者の関係は微妙だった可能性があります。二人は荒木村重による戦国期最大のお粗末で悲劇的な反乱を境に信長の配下に入るのですが、フロイスの日本史によると従来は対立関係にあったようなのです。

秀吉が明智軍を打ち破った山崎の戦いで、中川と高山の二人は先鋒部隊として参戦しました(フロイス日本史)。二人ともキリシタン大名なため、フロイスはその詳細な記録を残しており、「当時までジェスト右近殿の大敵であった清兵衛」という記述が出てきます。清兵衛というのが中川清秀の事。ちょっと脱線すると発音はセイヒョウエ、ついでに高山はタカイヤマでした。現在の我々とは名前の読み方はほぼ別物ですが、歴史小説やドラマでこの点の正確さを追及するとキリが無く、おそらく時間の無駄でしょうね。

とりあえず、両者は元同僚であっても、意気投合して絶対一神教って最高だよねー!ねー!といったような関係では無かったはずです。この両者の関係がどの程度まで戦況に影響したのかは判りませんが、とりあえず参考までに。

まずは20日朝の段階の状況を、再度、地図で見て置いてください。

出典  国土地理院地図のツールにより作成 


地元の伝承だと柴田軍の主力、佐久間部隊は余呉湖の湖岸を南にグルっと回り、大岩山の麓から密かに奇襲を開始した、とされますが無理でしょう(笑)。狭い山裾の湖畔は一万五、六千もの軍勢が進軍できるような場所では無く、そもそも圧倒的多数での強襲ですから、気付かれないようにこっそり近づく必要もありません。堂々と平野部を横切って、そのまま強襲すればいいだけです。実際、フロイスの手紙によれば中川も高山も襲撃以前から大軍の接近に気が付いており、両者で軍議を開き対策を協議しています。

参考までに軍勢を一万六千人として、これを四人横並びの状態で1mの間隔で並べて進軍しても実に4qの長さになってしまいます。これは権現坂の下の平野部から余呉湖湖畔を周って大岩山の麓に至るまでの距離にほぼ等しく、すなわち先頭が砦に攻め込んでる時に、軍団の殿はまだ湖の対岸でウロウロしてる事になります。これでは合戦になりませぬ。地元の伝承と言うのは、一概に否定できないのですが、明らかに怪しいのも多いので要注意です。

ちなみに「天正記」には「余呉の海の馬手を通り志津ヶ嶽に手当を置き」とあります。
柴田軍は余呉湖の右岸(馬手)を通過して賤ケ岳に対する抑えの兵を置いた、との事ですから、両砦を襲撃した最大一万六千人の軍団とは別に、賤ケ岳の砦を牽制する部隊が居た事になります(この馬手(右)は羽柴の陣から見てではなく、佐久間部隊から見ての意味かもしれない。この場合は賤ケ岳を牽制する部隊のみ、密かに南周りに湖岸を通過して砦を囲んだ可能性あり)。

この戦闘の展開に関しては生き残ったキリシタン大名、高山右近の証言を基に書かれたと思われる「イエスズ会年報」のフロイスの手紙に詳しく、後は一定の信頼を置ける史料として「天正記」、そして「豊鑑」を中心に見て行きましょう。その他の史料は、必要に応じて参照してゆきます。

■岩崎山と大岩山の戦い

20日朝、平野部に現れた柴田軍の主力である佐久間隊が、岩崎山(高山右近)と大岩山(中川清秀)の砦に向かっていることに気が付いた両指揮官は急ぎ対策を協議します。両砦を合わせても兵は二千、対して敵は最大に見積もって一万六千、戦力差が大きすぎ、まともな合戦は無理だと判断した高山右近は籠城しての防戦を主張します。対して勇猛で知られた中川清秀は砦を出ての合戦を主張、両者ともに譲らなかったようですが、結局、中川が単独で討って出てしまった場合、砦に残った卑怯者と思われるのを恐れた高山も出撃に同意した、とされます(イエスズ会年報)。

ただし秀吉は砦に立てこもって迎え撃つ前提で軍勢を布陣をさせてあり、その上で砦の兵員数なども決めていたはずです。実際、先に見た4月5日の左禰山砦への襲撃は、砦から出ずに戦った堀が、はるかに優勢だった柴田軍を撃退するのに成功しています。 よって打って出て戦うのは間違いなく無謀であり、なんでそんな事を…という疑問は残ります。一部の資料にはまだ普請が終わっておらず不完全だったのを例の裏切者さん、山路正国が知って居て先導した、とされますが信用できる史料には見当たらない説です。そもそも対陣を開始してから一月以上経ってますから、この段階で未完成は無いと思いますが…

もしかすると高台の優位を利用して戦う気だったのかもしれませんが、それでも無謀でしょう。ちょっと信じられない気もしますが「天正記」にも「塁を離れ衝きて出る」とあるので、間違いなく自ら砦を出て戦ったようです。ただし「天正記」では中川だけがそうした事になってますが、実際は高山もまた砦を出て戦っていたのでした。

さらに言えば、佐久間の部隊が背後から奇襲を受けないよう、左禰山、同木山、神明山の各砦を柴田勝家、権六親子の軍勢と前田軍が既に包囲していたはずです。



余呉湖の対岸から見た両陣地。直線距離で約1.2q離れていましたが、両者の間には連絡路があり、恐らく柵などで防御されていたと思われます。当然、戦時の砦ですから視界の確保と火攻めを防ぐため一帯は完全な禿山になっていたはずです。

御覧のように大岩山砦の方がより高く、より奥まった位置にあり、標高280mとなっています。ただし余呉湖もまた標高約133mあるので、地上からは実質150mといった所です。それでも高層ビル並みの高さですから、これを攻めるのは完全な体力勝負となります。

この砦から出て戦った中川、高山の部隊は予想以上に奮戦したようで、長時間にわたり対等の戦いが続いたと「イエスズ会年報」にあります。「天正記」にも「数剋攻め戦う」、すなわち少なくとも四時間以上に渡って戦い「一旦勝利を得る」とあり善戦した事がうかがわれます。ただし、それでも多勢に無勢でした。前線が疲れるとこれを下げ、次々と新手を送り込んで来る佐久間軍に押し切られ、両部隊は最後に敗走に入ります(イエスズ会年報)。

この時、高山右近はわずかな人数だけを連れて脱出に成功、南にある田上山砦、秀吉の弟で現地指揮官の秀長が居た羽柴軍の本陣まで逃げ延びました。ちなみにイエスズ会年報によると「人の力と言うよりはむしろ奇跡の力で逃れた」というほどの困難な脱出だったようです。

ただし中川は脱出できず、大岩山の砦に戻って籠城を選びました。だが手持ちの兵は既にほぼ無く、間もなく砦に打ち入られ、乱戦の中で中川は戦死します。最終的に高山右近ら少数の兵だけが脱出に成功、残りは全て討ち死にという壮絶な内容の羽柴軍の敗北により、この緒戦は終わります。ただし、ここまで壮絶な負けになったのは砦の外に出てしまった中川の暴走、という面が大きく、籠城しての戦いなら、少なくともこの日くらいは持ちこたえ、翌日の秀吉の本隊着陣を待てた可能性もあったと個人的には思ってます。

■城砦戦の基本

ちなみに、この合戦の間、街道を挟んで向かい側に居た田上山砦の現地指揮官、羽柴秀長は一切応援の兵を出さず、事実上、両砦を見殺しにしています(尾根続きの賤ケ岳砦は既に見たように包囲されて動けなかった)。ヒドイ話のように思えますが、今回の場合は正解なのです。

この段階で佐久間が率いる一万六千近い敵に対抗できる戦力は現地の羽柴軍にありません。よって砦に立てこもり、秀吉の本隊の到着を待つ以外の戦術は無いのです。とにかく砦を守って柴田軍を封鎖線の南に逃がさない、という大原則を厳守した彼らの行動は非難されるべきものではありませぬ。むしろ暴走しちゃった中川の自爆に非があるでしょう。巻き込まれた高山右近は災難だったと思います。

この点、秀吉の公式戦記である「天正記」が「秀長の陣所を始め先手の各陣取り、堅固の備え」と以後、各砦が守りを固めたことだけを記述してるのは秀吉もそれで正解と考えていたからだと思われます。

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