柴田軍と羽柴軍の初期展開

ではいよいよ合戦本番のお話に入って行きます。
まずは先に動いた柴田軍の展開から。豊鑑には「佐久間玄蕃を軍の先として」、イエスズ会年報には「名を佐久間という彼の甥にして甚だ勇猛な武将に七〜八千の兵を与え先行させ」、とあるので、佐久間盛政が先遣隊を率いてまず現地入りしたと見ていいでしょう。

ちなみに勝家は今さらながら実権無き将軍、足利義昭と毛利家に連携を求めており(当時の義昭は毛利氏の保護下にあった)、毛利輝元本人(徳山毛利家文書)、さらに足利義昭の側近、真木島に宛てた手紙(古今消息集)が残っています。前者で柴田軍の先陣は旧暦2月28日(太陽暦だと4月に入っている)に着陣、後者で勝家本人は旧暦3月9日に現地に入る予定それぞれ述べています。なので2月末の段階で既に柴田軍は現地に展開を開始していた事になります。

当時の公家で吉田神社の神主だった吉田兼見(ただしこの時期は兼和と名乗っていた)の日誌、いわゆる「兼見卿日誌」によると2月16日に秀吉の軍が伊勢の滝川の城に討ち入り落城させたらしい、との記述があります。この日付が正しいなら、伊勢で戦闘が始まってから12日目に早くも佐久間は現地入りしていた事になり、柴田軍の行動は意外に早いのです。…とりあえずここまでは、ですが(笑)。

その柴田軍が集結したのが、賤ケ岳の北、約8qほど北にある柳ケ瀬の集落でした。ここは後の決戦場、賤ケ岳周辺から徒歩で2時間近くも離れた場所です。本来、彼らは賤ケ岳周辺で戦う気なんてなかったのだ、というのがこの辺りからも見て取れます。以後、柴田軍は一帯を山岳城砦化して立てこもり、ここで羽柴軍を待ち受けたのですが、羽柴軍の第一回出兵時、秀吉にあっさり無視され、その苦労の全てが無駄に終わるのは既に見たとおり(涙)…。

対して秀吉が滝川一益の伊勢長島城包囲からいつ離れたのか、正確な日時はよく判りませぬ。

ただし凡その動きは当時の手紙から推測できます。旧暦3月11日の日付で秀吉の腹心と言っていい蜂須賀正勝、黒田官兵衛に宛てた書状が現存し(黒田家文書)、手紙には今日、坂本城に入ったとあるのです。すなわち秀吉は東海道を北上して来た後、直ぐには安土城に向かわず、かつての明智の本拠地、坂本城に3月11日の段階で入ったようです。ただし、なぜ坂本を経由したのかはよく判りませぬ。確実に遠回りなんですけどね。

一連の動きを地図にまとめると、こんな感じになります。



この手紙の中で秀吉は、そちらの城の受け渡しを片づけて急いでこちらに来い、と二人を呼び出しています。宇喜多秀家(前田利家の娘で秀吉の養子となった豪姫の旦那。この段階ではまだ結婚してないが)の家臣団にキチンと引き継げ(秀家本人はまだ元服前の子供)といった記述があるため、普通に考えると黒田と蜂須賀は姫路城に居たと見ていいでしょう。この二人を秀吉が呼び出した以上、3月11日の段階では速攻で決戦する気だった可能性が高いです。

さらに同じ3月11日付の手紙がもう一通、現存します(大日本史料)。
こちらは長浜城の裏切者さん、柴田勝豊の家臣だった木下半右エ門(一元/かずもと)に宛てたもので、後に賤ケ岳周辺に陣取ることになる中川清秀、高山右近、そして手紙を受け取った半右エ門を含む勝豊の家臣団、合計一万三千人に近江の野洲から美濃への入り口となる長浜、浅津(朝妻の事だと思われる)に向け移動するよう命じています。

これは滝川の立てこもる伊勢方面から東海道(現国道1号)経由で安土、長浜へ抜け、そのまま北上して賤ケ岳周辺に向かう経路です。間違いなく柴田軍に対する先遣隊としての移動でしょう。勝家の着陣推定日の2日後ですから、その反応はかなり素早かったと言えます。まあ、この段階で羽柴軍の現地の抑えは天神山砦だけですから、秀吉が展開を急いだのは当然と言えば当然なのですが。

ちなみに当時の日記史料などを見ると秀吉は安土と長浜の間にある佐和山城に入ったという記述もあり(佐和山城の主、同盟者である丹羽長秀は恐らく敦賀に居た)、「天正記」にあるように秀吉は伊勢の長島から直接、安土城に入り、その直後に第一回の出陣があった、というような単純な話ではなさそうです。

どうも合戦準備のために長浜城と安土城、さらには佐和山城を行き来していたように見え(凡そ30km、馬でも半日以上かかる距離だが船を使えばもっと速い)、これは寄せ集めの万単位の兵団を駐屯させる土地の都合もあったかと推測します。

ついでに賤ケ岳周辺に向かうなら中山道経由の関ケ原越えの方が速いのに、あえて東海道経由の移動を選んだのは岐阜城の織田信孝を警戒したからでしょう。信孝に羽柴軍に立ち向かう兵力は無いですが、妨害による足止め程度は出来たはずです。とくに街道が狭まり低地から山に入る関ケ原の峠周辺で待ち伏せされると面倒なことになります(後にこの戦術を石田三成が取ることになる)。

こうして旧暦3月中旬までには両軍は戦場周辺を目指して展開しつつありました。ただし、後の決戦場、賤ケ岳周辺、余呉湖湖畔に焦点が絞られてくるのはもう少し後になります。

戦いの舞台

今回もありがたい国土地理院閣下様の立体地図機能を使い、戦場となった一帯の地形を確認して行きましょう。
下の図は南の琵琶湖岸から北の山岳地帯を見る形になっています。図の上下で約10kmほどあり、かなり広い範囲で繰り広げられた戦いだったのに注意してください。最後の決戦のみ、余呉湖の湖畔、賤ケ岳の麓で展開したのです。

とりあえず、この一帯で街道を封鎖してしまえばどんな大軍でも山間に閉じ込めてしまえるのが見て取れるかと思います。
羽柴軍の狙いはまさにそれでした。対して柴田軍はこの不利な地形を素早く突破せねばならないのに、自ら砦を造って立てこもってしまったわけです。いや、ホントに理解できないですね、この辺り…。どうも秀吉相手にビビッてしまい、決戦を避けて安全な砦に籠って戦うのを選んだ、という感じなんですが、そのような思考が出てくる段階で負け決定でしょう。

これは柴田軍の戦略は時間を失うだけでなく、羽柴軍に城砦建設の時間を与えてしまう事も意味します。
待てばいいだけの羽柴軍と違い、勝たねばならぬ柴田軍は必ず戦わねばなりません。羽柴軍が堅固な要塞に入ってしまっても、その戦闘を避ける事ができませぬ。城砦戦は攻める方が圧倒的に不利ですから(数倍の兵力が無いと勝てない。この時の両者にそこまでの兵力差は無い)、柴田軍は確実な敗北を待つばかりとなり、実際、そうなりました。この戦いでは最初から最後まで羽柴軍が主導権を握っていたのです。秀吉は負ける気がしなかったでしょう。

ちなみにすでに触れたように毛利輝元は柴田勝家から一緒に秀吉のヤツを潰そうぜ、というお誘いを受けていました。
おそらくそのお誘いを受け取った後、輝元は秀吉に対して使者を出したのですが、この使者を秀吉は長浜城に引き留めてしまいます。なんで、というと秀吉の勝ち戦を報告させるためで、だからちょっと待っててね、と述べた4月12日付の手紙が残っています(大日本史料)。同じ手紙の中で、播磨より西は知らんけど(つまり毛利の事)、東側なら秀吉が最強だぜ、と断言しています。政治的な駆け引きのハッタリもあるでしょうが、おそらく本気でしょう。この段階では東に徳川家康がまだ残ってるんですが、もし対家康戦だけに全力を注げたなら秀吉が勝ってたでしょうね。家康、実はそんなに戦が上手い人ではないですから。

さて、話を柴田軍の着陣の段階まで戻しましょう。
とりあえず北国(北陸)街道沿いに次々と南下して来た柴田軍は、羽柴軍の天神山砦の北、約3kmの位置にある柳ケ瀬の集落に駐屯しました。まずはその場所を図で確認してください。

出典  国土地理院地図のツールにより作成 
 

この柳ケ瀬は西の敦賀から来る街道と、柴田軍の本拠地、北の福井方面から来る街道が合流する交通の要衝です。

敦賀は羽柴派の丹羽長秀が抑えていますから、ここを抑えて置かないと南の羽柴と西の丹羽から挟撃される悪夢が待っています。旧暦2月27日の日付で(先遣隊の佐久間が柳ケ瀬に入る前日)長秀は若狭と敦賀の国境にある佐柿(おそらく国吉城)に居たとする手紙が現存しますから(大日本史料)、柴田軍としては西の敦賀方面に繋がる街道を警戒せざるを得ないのです。

よって柳ケ瀬に柴田軍の本陣を置いたまでは常識的な判断だったと言っていいでしょう。

同時に、この柳ケ瀬は山と谷しかない一帯の中で万単位の軍勢が駐屯できる貴重な集落でもありました。かつての越前の主、朝倉義景が織田信長との合戦のために南下した時も、ここに陣を張った事が「朝倉始末記」で確認できます。ただし朝倉氏の時代には西の敦賀に抜ける道しかありませんでした。今回、柴田軍が利用した福井方面に抜ける北の街道を造ったのは柴田勝家本人です。

■玄蕃尾城について

地元の伝承では、柴田軍は柳ケ瀬の集落の西北約1.5km、柳ケ瀬山(中尾山)の尾根筋にある玄蕃尾城を本陣とした、とされます。ただし個人的にはこの城は本陣ではなかろうと考えています。玄蕃尾城の周辺は数千、数万の兵が入れるような土地では無く、さらに戦場から遠すぎます。天神山からでも約5km、羽柴軍が南の同木山砦に防衛線を下げた後だと6qも北側になってしまうのです。しかも連絡だけでも一苦労の山城です。玄蕃尾城に兵を入れたのは、南の秀吉との決戦に備えてでは無く、西の敦賀に居る丹羽長秀の軍勢を警戒したから、と考えるのが自然かと。
実際、後で見る4月5日の襲撃、そして最終決戦の際の柴田勝家の出撃は北国街道沿いの陣地から出撃してると思われるのです。

ちなみに「朝倉始末記」を見る限り、朝倉時代の柳ケ瀬に城は無いので、この玄蕃尾城を建てさせたのも勝家でしょう。ただしこの合戦の時に慌てて造られたとは思えない本格的な築城で、少なくとも前年の本能寺の変の後、あるいはそれ以前、柴田が新たに北国街道を造らせた頃から既に基本的な構造はあったと推測します。いずれにせよ、西の敦賀方面に抜ける道を抑える城だったと見ていいでしょう。

さらにちなみに、この山城の下を通って敦賀に抜けるのがいわゆる刀根(とね)越え、倉坂峠です。
朝倉氏は1573(天正元)年旧暦8月、賤ケ岳の南東約10qの地にあった浅井氏の小谷城が信長から攻められた時、救援に向かって仲良く一緒に大敗しています。そのまま本拠地の一乗谷まで攻め込まれて滅亡するのですが、小谷から本拠地の一乗谷に逃げる途中、織田軍と最後の死闘が繰り広げられたのがこの一帯です。この時は柴田勝家も秀吉も追撃戦に参加してるので、どちらも土地勘のある一帯での再戦だった事になります(ただし既に見たように最短経路となる福井に直接抜ける道はこの時はまだ無かった)。

■柴田軍の要塞化の始まり

その玄蕃尾城から約4qほど南、柳ケ瀬の集落のすぐ横にあるのが一帯で最も高い行一山(約660m)で、柴田軍はこの山頂にも砦を造ります。さらに行一山から約1q南東にある別所山周辺にも大規模な砦群を造り、各砦は尾根筋の山道で接続され、街道を経由せず移動できるようになってました。この別所山砦周辺から柳ケ瀬の集落にかけての一帯が柴田軍の本陣ではないかと筆者は推測しています。

ここで再度、同じ図を掲載して置きますので、この辺りも見て置いてください。

 

ちなみに一度は柴田軍の手に落ちながら、本能寺の後のスキを突いて上杉側が奪還した北陸の小津(魚津城)で、柴田軍の地元残留組、佐々成政と睨み合っていた須田満親(みつちか)に秀吉が送った書状が現存します(大日本史料)。その手紙によると、柴田軍が出て来たので出陣したのに、連中は柳ケ瀬まで逃げて山上の砦に立てこもっちゃった、仕方ないので3月17日に約二里ほど離れた賤ケ岳を占領、ここに砦を置くよ、柴田はこっちで片づけるから、そっちも安心して好き放題やっちゃえ、とけしかけてます(ただし須田は秀吉の期待に反し、佐々成政に破れて城を奪われてしまう)。この手紙から既に17日の段階で柴田軍の城砦化は完成していた事、秀吉の第一回出陣も17日以前なのが読み取れます。

佐久間の着陣が2月28日とすると、かなりの速度で城砦化が完成したことになるのですが、一帯には地元の豪族である東野氏の館や砦、さらには山岳寺院の跡地があったらしく、これを再利用した可能性が高いです。あるいは前年の段階から一定の準備をしてあったのかもしれません。

こうして柴田軍は逃げ場がない谷間の街道筋へ羽柴軍を誘い込み、城砦を利用した包囲殲滅を狙ったのでしょう。ところが百戦錬磨の秀吉はこれをあっさり見破り、その手には乗らなかった、というのは既に見た通り。よって速攻でこの城砦群は無用の長物となってしまいます。トホホのホ。

…それくらい予測してなかったのか、と思わずには居られない所ですが、してなかったんだろうなあ、という感じに柴田軍は、以後、あっさりと手詰まりになってしまいます。個人的にはこの辺りから既に柴田軍の戦術がよく判らなくなってきます。私が滝川一益だったら、こんな連中は光速で見限って、秀吉にフルチンで歌って踊って土下座し謝罪、問答無用でで羽柴派に寝返りますね(笑)。

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