先に見た織田軍団の体制は地区ごとに担当指揮官を決めて権限を委譲、OODAループの高速化を図ったものでした。
対して役割ごとにこれを行って成功した例としてルビコン渡河以降、対ポンペイウス戦を勝利に導いたカエサル軍団があります。次はこれを見て置きましょう。

ガイウス・ユリウス・カエサル

イエス・キリストさんより百年早く生まれたのがローマ共和国時代の政治家にして軍人、カエサル(Gaius Julius Caesar)でした。英語で言えばシーザーさんですね。



大英博物館に展示されていたカエサルの頭像。
ローマ時代の遺物に交じって展示されていたので、てっきり当時の物だと思ってたんですが、良く見れば下に製造年がバッチリ入ってます(笑)。誤解を招くような展示は止めて欲しいと思うのココロ。カエサルさんが頭頂付近における毛髪戦線に危機を抱えていたのは事実ですが、ローマ時代の彫像を見ると、こんな神経質そうな細面ではなく、もうちょっと四角い、人のいいオッチャンぽい顔です。

貴族による議会、元老院が強力な力を持つローマ共和国を、皇帝が支配するローマ帝国に変えのがこの人。
ただし古代ローマに「皇帝」に該当する名詞は無く、独裁による帝国の概念もありません。実際、ローマ皇帝は世襲でも無いのです。日本語の「皇帝」、英語の「Emperor」に該当する肩書は存在せず、その肩書は時代ごと、人物ごとに異なります。便宜上、後世にこれらをまとめて「皇帝」と呼びその支配体制を「帝国」と呼ぶようになったのです。ただしこの点はあまりに煩雑なので、この記事では「皇帝」と「帝国」の称号で統一します。

ちなみにカエサルさん御本人は皇帝の地位に就く前に暗殺されちゃったので独裁官(Dictātor)止まりでした。
この点、共和制を破壊して帝政を導入した人、と聞くと印象が悪いですが、当時のローマは腐った民主制、貴族階級による愚衆政治の典型に陥りつつあったので、これは間違いなく改革でした(ただしその改革の始まりはカエサルではなくグラックス兄弟による)。

実際、カエサルが基礎を築いた帝政ローマは、以後紆余曲折を経ながら350年以上続きます(どの段階をローマ帝国の滅亡と見なすかによるが、西暦350年ごろまでは存続していたと見ていい)。アメリカが1776年に独立してからまだ250年前後なのを考えれば、その統治の堅牢なのが判るかと。

そもそも能力と資質が十分な人間に権限と責任を集中させるなら独裁は高速な意思決定機関として働き、極めて有力な政治体制となり得ます。ただし能力も資質も無い人間が皇帝になった場合、民主制よりも悲惨な事になる致命的な欠点を持ち、ローマ帝国もまた最後までこの欠点を克服できませんでした。
ちなみに、この点を可能な限り改修したのがアメリカの大統領制で、その政治体制は選挙で皇帝を選ぶローマ帝国である、という見方はある意味で正解でしょう(ちなみにローマ帝国の皇帝に就くのにも血縁は不問。ただし明文化された法も無かった。一応、カエサルの子孫が前提であったが必須ではない。この辺りの不明瞭さがその政治体制の弱点にもなった)。

以下、余談。
カエサル閣下も信長同様に我男色家疑惑があるんですが、この点を指摘してるのは私が知る限りスエトニウス(Gaius Suetonius Tranquillus)の皇帝伝(De vita Caesarum)にある記述だけです。それによれば二個目です、否、ニコメデス王との関係が噂になったけど本人は否定した、と。スエトニウスはカエサルの死後120年近く経ってからオギャーと産まれた人ですから、この辺りどうかなあ、と思っております。実際、ちょっと年上だったプルタコス(Plutarchus)による「英雄伝」ではニコメデス王の元にしばらく滞在したと述べてるだけですし。

さらに余談。
カエサルは政治家としても凄いんですが、軍人としての才能も規格外で、その戦闘記録は何の参考にもならぬ、という特徴があります(笑)。なんでこの状況で勝てるのか全く理解できぬ、という戦闘があまりに多く、しかもそのほとんどで圧勝してしまってるのです。この点は天才だからなあ、とした説明のしようが無く、後世の人間としてはこれほど困った存在は無いでしょう。

ただし勝てない状況なら勝てる状況を造ってしまえ、というのがこの人の戦争の特徴の一つなのは確かでした。とにかく土木工事が大好きで、守るも攻めるも大規模な普請工事によって地形を変えてしまい、必勝の体制を造ってから挑むことが多いのです。この点は秀吉の戦い方がよく似ており、両者とも女好き、という妙な共通点もあります。お金大好き、という点も同じですね。

ルビコン渡河以降

さて、そのカエサルさんの詳細な活躍は各自で調べてもらうとして(手抜き)、彼による共和制打倒の第一歩となったのがルビコン渡河でした。当時、ルビコン川を越え、ローマ共和国領内に兵を入れる事は禁じられていたのですが、カエサルは自らの軍団を率いてこれを強行、ローマを支配下に置きます(ただしローマには進軍せず、ポンペイウスを追ってイタリア南部に向かった)。
これによってローマ共和国は以後、約四年に渡る内戦に突入する事になります。いわゆる「賽は投げられた」事件ですね。ちなみにルビコン川は以後の干拓や開発で今ではどこにあったのか判らなくなってます(笑)。

この点、カエサルが武力でローマ本国を制圧した形になってますが、これをやらなければ逆に反逆者として追放、最悪の場合は元老院により処刑される可能性があったため、この辺りはどっちもどっち、という状況でした。

その元老院は、もう一人の有力な軍団指揮官、ポンペイウスと結んでこれに対抗します。
ただし進軍して来たカエサルに対し、非武装地帯のローマに居て兵力を持たなかったポンペイウスは即座に逃げ出してししまいます。当初は南イタリアに逃れ、さらにアドリア海を渡って東の対岸にあるギリシャに向かい、自らの子飼いの軍団と合流する事にしたのです。この時、元老院の有力者たちも同行しています。

さらにポンペイウスは自らの影響下にあった西のローマ領ヒスパニア(スペイン)、そして南のシチリア島からチェニジアまで反カエサル陣営に引き込み、加えて地中海からアドリア海に至る制海権も抑えてしまいます。よってかろうじて本国ローマを抑えたカエサルと、これを完全に包囲したポンペイウス&元老院という対決になるのです。普通に考えればカエサルは完全に追い込まれた状態なんですが、ここから圧勝しちゃうんですよ、この人(笑)。

とりあえずポンペイウスのギリシャへの脱出を防げず、ローマ本国だけを支配下に置いたカエサルは総司令官として以下のような問題に対処する必要迫られました。



対ポンペイウス戦では西のヒスパニア(スペイン)、東のギリシャ、そして南のシチリア島&チェニジアと完全に独立した戦線を三つも抱える事になり、これだけでも八方塞がりの状態でした。さらに加えていつ反旗を翻すか判らん元老院、そして国内の各勢力に対する政治、そのための国内軍事と言う厄介な問題も同時に抱え込んだわけです。これら全てにカエサルが対処するのは不可能でした。そもそも対ポンペイウス戦では本国ローマを離れなくてはどうしようも無いのです。

ここでカエサルは以下のような指揮官を選抜して分業体制を敷き、自らは敵戦力の中枢を成すヒスパニア(スペイン)戦、そして総大将であるポンペイウスが居たギリシャ戦に専念する事にします。ちなみにカエサルはまずヒスパニアを叩いて背後の憂いを取り除き、それからギリシャに向かいポンペイウスと決戦、圧勝しました。その間、何度もこの状況でなんで負けないの?という危機に追い込まれながら、常に逆転サヨナラ満塁ハットトリックを決めて先に進んでしまうのです。ホントになんなの、この人…



これも典型的な分散型のOODAループの組織運用ですね。これによってカエサルが直接OODAループを回すのは対ポンペイウス戦、しかもその主要戦線に絞り込んだのです。ちなみにアントニウスは最終的にギリシャに呼び出されてカエサルの指揮下に戻されます。

ただし最終的にこれで勝ったとはいえ、信長の組織運用に比べると必ずしも完全ではありませんでした。
実際、クリオを指揮官とした対シチリア島&チェニジア戦は敗北に終わってしクリオは戦死、ここは反カエサル派の拠点として残ってしまいます(ポンペイウスを破った後にカエサル自らが再戦、例によって何度も危機に陥りながら最後に圧勝…)。さらにアントニウスの弟らに委任した制海権をめぐる戦いでも敗北しています。

この体制がうまく行ったのはレピドゥスが政治的に上手く立ち回り、カエサル不在時のローマ本国を上手く切りまわした面が大きく、その上でカエサル本人が人類史上最強の規格外と言っていい能力の持ち主だったおかげでしょう。

この点、カエサル率いる反元老院派は若手ばかりで、目立った人材がほとんど居なかった、という不利がありました。
特にそれまでカエサル軍団最強の指揮官としてレガトゥス(Legatus)の地位にあったラビエヌスがポンペイウス派に寝返った痛手が大きかったと思われます。ラビエヌスは軍団指揮官としても占領地の執政官としても優秀で、カエサル、ポンペイウスという巨人たちと同時代に産まれて無ければ、もっと歴史に名を残したと思われる人物でした。彼が居れば恐らくもっと楽に内戦に勝っていたでしょう。まあ、それでも圧勝しちゃうのがカエサルで、ホントにあらゆる点で規格外なんですよ、この人。

このためローマ内戦は総司令官がベラボーに優秀な場合、多少部下がダメでも何とかなっちゃう、という典型例にもなってます(ちなみにラビエヌスはギリシャの最終決戦、ファルサルスの戦いで敗北後、チェニジアに逃れ、そこでも負けてもヒスパニアに渡り戦死している。即ち最後まで徹底的にカエサルと戦い続けた。余程の理由があったのだろうと思われるが詳細は判らない。さらにカエサルの元を去る時、子飼いの軍団を連れずに単身でポンペイウスの元に行く、という潔い行動も見せいているから謎は深い)。

その規格外だったカエサルでも、彼一人によるOODAループの同時運用には限度があり、こういった「分散型OODAループ」に頼る必要があったのです。この体制でなければ、おそらくカエサルと言えど処理能力はパンク、何もできない状況に追い込まれていたでしょう。よってこれもまた、「分散型OODAループ」が有効性である事の証の一つと言えます。

■その他の例と分散型OODAループの限界

この二つ以外にも似たような例は歴史上に散見されます。
第二次世界大戦時、ルーズベルト大統領が採用した戦時国家体制などもその一つでしょう。彼は軍事部門を統合参謀本部(JCS)とそれを事実上牛耳るマーシャルに、膨大な戦時の兵器生産計画などの問題はニュードセンにと、自らが抜擢した人材に一任し、本人はより主要な問題に関するOODAループのみを回してました。これが地球上の遠く離れた二つの戦線で戦いながらアメリカが比較的迅速な行動を取れた一因となっています。

この逆をやったのがナチスドイツのヒットラーで、とにかく全部自分で決めたがる最高司令官となっており、彼は戦争に負けました。ただしソ連のスターリンも同じような面があるのですが、こっちは戦争に勝ってます。とはいえソ連とスターリンの場合、ほとんど英米というかアメリカの尻馬に乗って勝ったようなものなので(戦闘もそうだが、それ以上に物資(特に燃料)と兵器供与の援助が大きかった)、あのままなら大幅に不利な講和を迫られるか、ホントにヒットラーの狂気によって滅ぼされるかしていた可能性は高いでしょう。

ただし、この分散型OODAループの運用も完全ではありませぬ。失敗例もまたあります。
例えばケネディ大統領はその政府に各界の有能な人材を引き抜いて任命し、その仕事をほぼ一任しました。これも典型的な分散型OODAループの運用の一例なんですが大筋で失敗に終わります。まずベトナム戦争は彼が引き抜いてきたマクナマラ国防長官を始めとする人材がその泥沼化の主要因を造り、さらにソ連との宇宙開発戦争ではジョンソン副大統領の助言で月を目指すアポロ計画を開始し、以後のアメリカの国家予算に膨大な負担を強いることになります。アメリカの1970年代の衰退はボンクラ大統領を連発したのも一因ですが、その根幹はケネディ政権にありました。

信長やカエサルのように分散型OODAループを採用しながら、ケネディ政権が多くの失策を成したのはなぜか、というとこれは恐らく人材の質の差です。彼が各界から引き抜いてきた人物は、議会運営や会社経営、さらに机上の理論を組み上げるには一流でしたが、混沌の極みである政府運営や戦争には向いてない「純粋培養な」人達だったように見えます。

この「人材の能力」の見極めは分散型OODAループの運用で最も重要であり、同時に最も難しい面にもなっています。
「人の能力を見抜く」という才能は極めて得難いからで、ちょっと身の回りを見回しただけでも、不適切な人材が危険なまでに重要な仕事を担当してる例はいくらでも見つかると思います。任命した皆さんも、まさか失敗を前提としてるハズは無いので、これはいかに有能な人材を見出すことが困難か、という証左の一つとなっています。
そもそも上で見たカエサルの組織でさえ、完全には成功してません。そしてカエサルはラビエヌスや後の初代皇帝アウグストスを見出した事で判るように、人の才能を見る目は十分にあった人でした。

この問題、能力のある人材を見出せないとその効果は限定されてしまう、というのが分散型OODAループの限界、そして弱点になります。この欠点はどうしようもなく、人の才能を見抜ける人物を探し出すか、運に任せるしかありませぬ。この点、織田軍団はこの両者の条件を満たしている、という点で見事な成功例なのです。

それでも同じ条件なら分散型OODAループを採用した方がその高速化に置いて有利なのは間違いないのもまた事実です。OODAループの運用に置いては、極めて重要なのだ、という事を再度強調して、今回の記事はここまでとします。


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