■最後の決戦のこと

さて、いよいよ信長率いる奇襲部隊による義元本陣襲撃となります。

まずは敗軍側の記録である三河物語から、織田軍の奇襲の様子を見ましょう。
「永禄三年五月十七日、義元は信長率いる強襲部隊の接近に全く気付かずゆったりと弁当にしていた。そこに大粒の雨(ヒョウ)が打ち付けるように降りかかると、その中を信長が三千人の部隊で襲い掛かった。今川軍は我先に敗走となった」
という感じに比較的あっさりした説明で終わってます。まあ、本人は参戦してないし(0歳児、あるいは誕生直前である)、負け戦だし、で仕方のない所でしょう。

対して、 著者本人が参戦していたと思われる上に勝ち戦だった信長公記ではかなり詳細な説明があります。
それを見る前に、ここまでの動きを地図で確認して置きましょう。何度か述べたように一部は部筆者の推測を含んでおりますが、大筋で間違えてはいないだろうという自信はありにけり。ちなみに右上方向が北で、画面右下周辺から手前が桶狭間です。



国土地理院サイト 国土地理院地図の写真版を基に情報を追加(https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html


前回見たように義元の本陣と思われる場所は二か所あるので、中島砦からそこに向かったであろう信長の進路も二つに分けました。まあ、どっちからでもどちらにも行けるのですが、上で示したのがそれぞれの最短経路です。ちなみに地図で見る限りは進路1の方が発見は困難であり、織田軍はこっちを通ったように思いますが、確証はありませぬ。

さて、信長公記の記述を見ると、中島砦で信長が「絶対的な指針と統制」を訓示すると、すぐに桶狭間山の山際(山の稜線を指すと思われる)まで軍勢は押し寄せました。すると突然、石のような氷(ヒョウ)を降らす大嵐が、敵にとっては正面から、織田軍にとっては背後から吹き付けます。三河物語でも、嵐が来る前にすでに織田軍が山を登っているのを発見していた事になってますから、一部はすでに山頂まで取りついてたと考えていいでしょう。ただし先にも見たように織田側も2000人近い人数ですから、嵐が到来した直後だと部隊の後方はまだ平地に居た可能性が高いです。

おそらくこの嵐の間に織田側の全軍が敵本陣周辺に配置されたはずですが、どのような状況だったのか、詳しいところは判りませぬ(2000人もの集団が集まれるような場所は織田軍にとっても存在しないので分散はしたはず)。

この段階で義元の本陣が全く無警戒でOODAループは一切回ってない状態だったのは、三河物語でも信長公記の記述でも全く同じです。よって既に勝負あった、と見ていいでしょう。すなわちここで発見されても迎え撃つ体制をとられる時間を与えずに奇襲は可能でした。孫子が言うように勝者は戦う前から勝つ算段を付けているのです。この後は一方的に蹂躙するだけですから、ある意味蛇足とも言えますが、ここまで見てきたのだから最後まで説明しておきましょう。

■合戦の勝負ありのこと

間もなく「熱田明神の神軍が通過したのか」というほどの嵐は収まり、晴れ間が見えると、信長は自ら槍を取り、大音声で「さあ、掛かれ」と命じて一気に敵本陣に突入します。信長は軍団を誘導しなくてはなりませんから、恐らく先頭に立っていたでしょう(大将自らが槍突撃するのに注意。信長は槍好きである。後に鉄砲好きに改宗するが)。

ちなみに信長公記では「黒煙立てて」襲い掛かったとされますが、大雨の直後に砂埃が立つはずが無いので泥水を跳ね上げての突撃だった、という意味でしょうかね。文学的な修辞はあまりしない作者なので、なんらかの説明になっていると思われますが、詳細は謎としておきます。

これを見た今川軍は即座に総崩れとなり、一帯には弓、槍、鉄砲、のぼり、指物などが打ち捨てられ、中には義元のものらしい漆塗りの輿、すなわち人が担いで歩く移動用の台座まであったとされます。これが本当なら義元は馬に乗って無かったどころか、山の上まで歩かずに登ったことになります。そうだとすると、貴人は自ら汗水流して動かない、という中国のクズ野郎差別思想、孔子の儒教の影響を強く感じますから、義元は当時の武将としては異質、というか例外的な貴族趣味を持っていたことになるでしょう。

ちなみに信長公記ではここで唐突に、天文廿一年(二十一)壬子五月十九日という日付が本文中に入ってます。え?何があったのという感じですが、その後に本文が普通に続くので、無視して良いでしょう。ただし、気が付いた方もいると思いますが、実際の桶狭間の戦いは永禄三年(1560年)ですから、天文二十一年(1552年)では8年も年がズレています。信長公記における桶狭間の戦いの記述では三か所に日付が入ってるのですが、それらは全て天文二十一年とされており、なんでここまで徹底的に間違えているのかは、正直謎としか言えません。

そもそも信長公記の記述で年月日を入れてる部分はそれほど多くない上に、一部の写本では二十の表記において廿と廾が混在しています。この辺りから、どうも日付は後世の挿入ではないか、と思われるフシもあるのです(桶狭間の戦いが収められている「首巻」は太田牛一の自筆本が残っておらず、現存するのは全て写本である)。ただしこの点は、今回の本筋とは関係ないので詳しくは触れないで置きます。

さて、本陣に突入した信長は東側に義元とそれを守る旗本の一団を発見、あれにかかれと軍勢に下知しました。これが未の刻(午後1時〜3時)の事、とされてますが、襲撃開始もその辺りの時間だったはずなので、この時刻の記述もちょっと怪しい気はしますね。
それでも本陣への突入とは明らかに異なる時間軸の中で述べられているので、

●突入した場所には義元がいなかったので、その本陣を探し回って見つけた。

●意外に素早く義元が撤収してしまったのでこれに追いついて襲撃した。

のどちらかの可能性が高いと思われますが、例によって詳細は不明です。ただし迷うような広さが稜線上の本陣にあったとは思えないので、どうも後者のような気がしますが、断言は避けます。ちなみに義元が討ち捨てられた輿を使っていたのなら、徒歩で逃げたわけで、それほどの距離を移動できなかったはずですが…。ただし実は馬も隠し持っていて一気に離脱をはかったのか、その辺りは何の記述も無いのでこれまた謎です。

とりあえず信長に発見された義元を護る旗本集団は三百騎ほどおり、義元を囲むように円陣を組んで撤退中でした。すなわち江戸期以降の資料に見られるように、本陣で呑気に構えているところをあっさり討ち取られたのではありませぬ。

この集団は東に向かっていたようで、おそらく織田軍がやって来た西側から逃れようとしたのだと思われます。そしてその方向の先にあるのが桶狭間なのです。よって最終的に湿地と深田と丘陵で身動きが取れないとされる桶狭間になぜ今川軍が迷い込んだのか、と言えば特に考えがあっての事ではなく、単に織田軍がいない方向を目指した結果だったと思われます。

ちなみに本来なら北方向、池鯉鮒まで脱出できる東海道を目指すべきなんですが、織田軍は当然、真っ先にその退路を断ったはずで、その結果、今川軍は桶狭間に追い込まれたのだと思われます(個人的には奇襲部隊は信長率いる強襲部隊と退路を断つ封鎖部隊に別れていたと思うが、当然これまた確証は無い)。

この時、織田軍は信長自らが先頭に立ち、全力でこの集団を潰しに掛かります。ただしこの旗本集団はさすがに精鋭で忠誠心も高く、撤退しながら何度も織田軍と斬り合った結果、人数で勝っていた織田軍もかなりの犠牲を強いられたとあります。
ちなみに信長は敵の旗本が五十騎以下にまですり減らされると自ら「下り立ち」若武者と一緒に戦ったとあるので、最初の突入時は騎馬突撃だった可能性があります。日本馬の場合、山登りもできるようですが、果たしてこの時はどうだったのか、他に明確な記述が無いので断言はできません。とりあえず最後は両者の親衛隊どうしの、すなわち軍団内の精鋭同士の激突となったわけです。

そして信長が先頭に立って突っ込んだため、織田軍側の犠牲者は御馬廻(信長の護衛のための騎馬武者たち)、御小姓(これも身辺警護をかねる付き人)といった人々に集中していたとされ、最終的にその混戦の中で毛利新介が義元の首を取り決着となるのです。ただし一部の今川方の武将は取って返して討ち死にした、さらに今川家に仕えた松井一門の二百人も枕を並べて討ち死にするまで戦った、とあるので戦闘そのものはまだ続いたようですが、状況からして、ほぼ一方的な掃討戦だったと思われます。

信長公記では最後に義元が討ち取られた桶狭間は入り組んだ土地で深田が多く、周辺には木々が高く茂る難所であった、そしてその深田にハマった敵を織田軍の若武者が次々と首を取ったと述べられています。ちなみに義元は本陣から最低でも1.5q近くは逃げ延びており、その距離からして旗本集団は相当な善戦をした、と考えていいように思います。なんだかんだで1時間近くは掛かったはずで、決してあっさり討ち取られたわけでは無いと見るべきでしょう。

ちなみに現在でも桶狭間の名が付く土地は、北は有松桶狭間から南は桶狭間南まで約2.5qに渡り広がっており、おそらく現在の大高緑地から東の一帯は全て桶狭間と呼ばれていたように見えます。

さて、ここまで読んでいただくと気が付いたと思いますが、この合戦はほぼ大高で行われたものであり、桶狭間は敗走した今川軍が最後に追いつめられ、掃討された土地に過ぎません。実際、信長公記でも三河物語でも、桶狭間の合戦といった呼称は一切出てこないのです。この戦いに桶狭間の名を付けたのは、江戸期以降の皆様方ですね。

こうして大将が討ち取られ、主力部隊がパニックから潰走に至った今川軍は、この19日の夕暮れまでにはほぼ壊滅状態になり、生き残りの兵は東海道沿いに池鯉鮒を目指して敗走したものと思われます。織田軍がどこまでこれを追撃したのかは不明ですが、北に斎藤義龍も居て織田軍の動きを見てるはずですから、信長はさほど深追いせず、本拠地である清洲城に帰る事にしたようです。

戦いの後のこと

信長公記では「信長は馬の鼻先に義元の首をかかげ、急ぎ日のあるうちに清洲城に戻った」とあります。太陽暦で6月12日前後の日没が19時前であり、桶狭間から清洲までは街道沿いで約25km、馬が全力疾走できる距離では無いので最速でも2時間半前後の距離だと思われ、おそらく16時ごろまでに信長は撤収に入ったことになります。

それだけの時間があれば、一定の掃討戦はできたはずですが信長公記の記述では翌日の首実験に持ち込まれた敵の首は三千ちょっとだったとされ、意外に少ない感じです。おそらく壊滅的な損害を受けた本陣の兵以外は、ほとんどが我先に逃げ切ってしまったのかも知れません。ただし当然、ケガをしながら逃げ切ったものもいたはずですし、武器も捨て去って逃げてますから、戦力的に見ればほぼ壊滅でしょう。

この時、義元の同朋(僧形の付き人)である下方九朗左衛門という者が生け捕りにされ、これから陣地における義元の行動を聞き出し、さらに首実験でどれが誰かを確かめさせた、とあります。よって信長公記にある今川側の記述も一定の信用が置けると考えられるわけです。

合戦後、現地に取り残された鳴海城、大高城の今川軍ですが、まずは鳴海に居た今川の将、岡部五郎兵衛は降伏し助命されました。ちなみに三河物語だと、この岡部は存分に戦ってから降伏、さらに信長から義元の首を引き渡してもらい、駿府に連れ帰ったとされるのですが、信長公記では上で見た下方が信長から首を渡され、駿府に送り返されたとなっています。三河物語では岡部を武士の鑑として褒めてますが、筆者が実際に送り出すのを見てるはずの信長公記の記述がおそらく正しいでしょう。

そして信長公記では鳴海城に加え、今川が抑えていた大高、沓掛、池鯉鮒、鴫原(重原)の四か所も織田側が手に入れた、と最後に述べています。これによって鳴海から東海道、鎌倉街道を経由して池鯉鮒周辺まで(一部三河地方を含む)完全に支配したことになり、尾張は南部の知多半島を除くとほぼ信長の支配下に入った事になりました(後に北部の犬山城でゴタゴタがあったが織田家の内紛であり織田家が支配していた事には変りなし)。
その知多半島も織田の同盟者である水野氏が抑えてましたから、これで尾張地方に織田家の敵は無くなった事になります。大ピンチからの大逆転だったと思っていいでしょう。

■家康の動きのこと

さて、問題は大高城に残った松平元康(家康)です。
こちらも今川軍が潰走した後、織田軍の真只中に取り残されます。砦を攻め落とした以上、最低でも千人前後の兵力はあったはずですが、このままでは織田軍に包囲されるのは時間の問題でした。信長公記では、この後に家康は大高城から撤退して岡崎城に立てこもった、と触れられてるだけですが、三河物語ではもう少し詳しい説明があります。

それによると本陣が襲われ義元は討ち取られたらしい、我々も退却するべきだ、と家臣団が元康(家康)に進言するのですが「まだ確かな情報が無いのに城を退けぬ。もしニセ情報であり義元が生きていたら申し訳が立たないし、一生笑いものにされるだろう。確かな情報があるまで動かぬ」とこれを却下してしまい、籠城を続けました(家康もまた情報を重視する人だったのにも注意)。

その後、南の知多半島を支配していた水野家の当主、四郎右衛門が居城である緒川城から使いを寄越し、
「あなたは呑気にしてる場合ではない、義元は討ち死にしたから明日には信長の軍勢が大高の城を攻めるだろう。今夜のうちに準備をして撤退なさい。(池鯉鮒から先は)我々が案内しよう」、と述べ、これで元康(家康)はようやく徹底を決めました。
水野氏は知多半島を配下に治めていた織田家の同盟者でした。地理的に今川とも松平とも敵対関係にあったのですが、どうもこれ以前の政略結婚で元康とは親戚関係にあったようで、そのための親切だったと思われます。

ただしこの時は使者となった浅井六之助が「私がご案内しますから三百貫でお召し抱えください(かなりの高給取りである)」と元康に願い出て受け入れられ、そのまま水野家に案内を請わないまま、岡崎に逃げ延びてしまいます。浅井は以後、松平(徳川)に仕えるのですが、これを聞いた四郎右衛門は激怒したとされます。ただしこの辺り、水野は姻戚関係にあっても織田側ですから、元康が警戒して案内を請わなかった可能性もあります。

以上が三河物語の記述ですが、いろいろ不審な点が多いのに気が付きます。
まず、織田軍は19日中に大高城を包囲せず、元康(家康)をあっさり見逃してる事。
鳴海城の包囲が先で手が足りなかった、とも見えますが、そもそも鳴海周辺の織田軍の砦は健在であり、余剰の軍勢は全て大高城包囲に回せたはずです。
そしてもはや今川の援軍は無く、満潮時に攻めれば逃げ場の無い城なのですから、元康とその家臣団は完全に織田軍の手中にある状態でした。よって、その包囲殲滅は困難では無かったはずです。

この点、下手に籠城されるより、自分で出て行ってくれた方が城を手に入れるには楽、という判断があったのかもしれません。
が、そこに居たのは松平元康(家康)であり、織田家としては父の代から戦い続けて来た隣国三河の現頭領なのです。数十年戦ってきた敵の親玉を完全包囲したまま殺してしまう事で得られる利点は数え切れません。すなわち、松平元康は、織田家がさらなる犠牲を出してでも、ここで討ち取る価値のある敵でした。

この辺りの事情は以下の地図を見ればよく理解できると思います。



今川の軍勢を殲滅した信長ですが、それによって取り返したのは尾張の中部の地域だけです(池鯉鮒付近の一部が三河地方だが)。
南部の知多半島は同盟者である水野氏の勢力圏ですからこれ以上、尾張で領地拡大は無理でした。となると、狙えるのは池鯉鮒から東、松平家の元勢力圏であり、これまで今川に抑えられていた三河地方となります。

その東は浜名湖のある遠江、その先が今川の本拠地駿河で、この広大な、信長の所領の数倍の地域が今川軍の壊滅により完全な真空地帯になったのです。これは信長の父、織田信秀の代からの悲願、三河に進出の足場を造るどころか、三河を超えて遠江まで一気に勢力圏を伸ばせる好機到来を意味します。

ただし各地に独立した勢力を持つ地元勢が居たので話はそこまで簡単ではありません。が、それでも今川が消えた今、三河の松平家をこの場で潰してしまえば、織田家の東方進出が極めて容易になるのは間違いありませんでした。大高城で元康(家康)と松平家の主要な家臣団を殺し、池鯉鮒からは一日で進軍できる距離にある、ほぼ空き城状態の岡崎城を奪えば、織田家万々歳だったはずです。
今川軍団を壊滅した直後に訪れたダブルボーナスチャンスだったと思っていいでしょう。

そもそも尾張の北、美濃の斎藤家はまだ斎藤義龍が健在(翌年病没)で手ごわい敵でしたから、これと戦うよりは、この脆弱な東に勢力圏を伸ばした方が賢い選択だったのは明白でした。

が、信長は元康を見逃してしまいます。逃げられた、という状況ではありませんから、見逃したと考えていいでしょう。
そしてわざわざ難敵である北に向かい美濃の斎藤氏と以後、数年に渡る困難な戦いを続ける事になります。

そもそも元康(家康)に脱出を促した水野氏も、ここで松平の頭領と家臣団を潰してしまえば、以後、大きな脅威は無くなるのですから、本来なら助ける理由は何もありません。この点、水野氏は織田家の同盟でもあり、独断で元康(家康)を逃したとは思えず、信長が意識的に逃げ延びさせた、という気がしてならないのです。

下手に武力の真空地帯を造ると混乱と混沌からより面倒なことになる、さらに今川が衰退したのを見て南下してくる可能性が高い武田家を相手にするのは困難である、それなら松平家を盾にしよう、という高度な政治的な判断だった可能性もあります。実際、後の長篠の戦いの時に武田軍団を深追いしなかったのはそういった判断だったと思います。
が、さすがに27歳の信長が、そこまでの政治的な判断を出来たか、そして本国には高坂弾正が率いる最低限の戦力を持っていた当時の武田軍と違い、完全に丸裸であった松平軍団を見逃す必要があるか、という気がするわけです。

同時に松平側にも微妙な動きがありました。
先に見たように、大高城に居た松平軍団は間違いなく義元の本陣奇襲を目撃し、知っていたはずですが、その後、全く動きませんでした。桶狭間方面から鳴海に向かう経路を抑える事が出来、すでに休息を取っている大高の松平軍は戦いで疲れ果てた織田軍主力が撤退するに辺り、最大の脅威だったはずなのに、何もなく無事に帰還してしまいます。本当に義元が死んだかどうかまだ知らなかったのなら最大の逆襲の機会だったのに元康は動きませんでした。この時代のヤング家康は血の気の多い人ですから、怖気づいたとは考えられません。そして織田軍を襲撃しなかった代わりに、城を捨てる事もしなかったのです。

この辺りの事情は何の記録も残ってない以上、本当の理由は全く判りません。
が、どうも信長と元康(家康)の間には、直接言葉を交わさずにも何か相手を気遣ってるような部分があるように思えます。信さん、康やん的な、子供のころの遊び仲間、織田家の人質時代になにかそういった交流があったんじゃないかなあ、ガキ大将の信長と子分扱いのような形で交流があったのではないかなあ、と思っているのですが、この点、何も確証はありませぬ。とりあえず、個人の推測として最後に書いておきます。

■戦いの終わりに

さて、これにてOODAループで考える桶狭間の戦いはお終いです。
この戦いはOODAループの最初の段階、敵の「観察」を潰すことで得られる優位、逆に「観察」をおろそかにした側に起こる悲劇を余すことなく伝える例の一つでした。敵を知る、というのは何よりも重要なのだ、という典型的な例でしょう。そこからOODAループの回し方で勝負するのが通常の戦いなのですが、そもそもループが回ってないのでは戦う前から決着はほぼ付いてしまってるわけです。

同じような例はいくつかあり、本文中で何度か指摘したミッドウェイ海戦に置ける連合艦隊、あるいは西方電撃戦に置ける連合軍主力部隊などが同じような過ちを犯しています。敵を知る努力を怠った場合、速やかなる敗北を逃れる術はほぼ無いのです。

といった感じで、このお話はここまで。


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