11日深夜の戦い

ドイツ軍の動きに話を戻します。
前回見たように11日の日没前18時30分(この時期の一帯の日没は夜21時過ぎ)、第1装甲師団の先遣部隊はブイヨンに到着したものの、スモワ川に架かる橋を落とされた上に敵の撤退に気がつかなかった事、さらには地雷原の突破などで翌12日の夕刻に至るまで一帯で脚止めされてしまいます。

ただし全く何もして居なかったのでは無く、第1装甲師団の一部は北のムゼーブ(Mouzaive)へ向かい、ここでスモワ川を渡る橋を確保し国境に向けて先に進んでました。先に述べた二手に分かれた内、西側の部隊に当たるのがこのムゼーブ経由のものです。場所は再度この地図で確認して置きましょう。ブイヨンの北西約10qの位置にあったのがムゼーブの集落です。



ここを襲撃したのは第1装甲師団に所属する第1オートバイ狙撃兵大隊で、おそらくブイヨンまでの渋滞に巻き込まれる中、ここの橋が無事なのを発見したものと思われます。一帯ではフランス第5軽騎兵師団がヌシャトー地区から急いで撤退中で、未だ橋は爆破されていなかったのです。ちなみにこの攻撃は完全な事後承諾で、橋が無事なのに気がついたオートバイ部隊が攻撃開始後、第1装甲師団司令部に報告、そこからグデーリアンの軍団司令部に申告がなされ、その後、正式な攻撃命令が出ています。こういった独断専行一歩手前の行動が許されてしまうのがドイツ軍の特徴でした。この大幅な権限移譲が無数のOODAループを同時進行形で回す高速化に繋がっている点は以前に指摘した通りです。ただしその優位は、優秀な士官、現場指揮官が居たからこそで、後の独ソ戦で経験豊富な士官が多く失われると、この優位も同時に失われる事になります。

ただし本来ならここは第2装甲師団の担当地区だったのですが、その進行は既に見たように大きく遅れてました。このため、フランス側に撤退の猶予を与えてしまっていたのですが、それを第1装甲師団が封じてしまったわけです。この攻撃もまたフランス軍の想定外でした。ドイツ軍はまだ後方に居ると思い込んでいたのです。

撤退に不可欠な橋をドイツ軍が奪ってしまったためフランス軍はまたもパニックに陥ります。さらに悪いことに一帯を守っていたフランス軍部隊、第3モロッコ騎兵旅団は独断で部隊ごと撤退してしまうのです(この旅団はフランス第2軍ではなくその北の第9軍の所属だった。これも植民地軍で、その部隊に死ぬ気でフランスを守れ、という方が無理な話ではあった)。このためヌシャトーで電撃戦の完成に貢献した気の毒な部隊、第5軽騎兵師団も防衛線を再構築する事が出来ず再度撤退を開始します。こうしてフランス国境に至るまでフランス軍はキレイに消えてしまう事になるのです。ちなみに10日の段階からドイツ軍と接触し続けていたこの第5軽騎兵師団は一部がフランス国内まで逃げ切りますが、以後もまともな戦力とならないまま、自然消滅する事になります。

グデーリアンの災難

そして12日のグデーリアンはいくつかの不運に見舞われていました。

まずは軍団の前線司令部が何度も攻撃を受けた事。ブイヨンを落とした第19装甲軍団はちょっといい気になっていたのか、よりによってブイヨンの高台に位置するホテルに前線司令部を置いてしまいます(Hôtel Restaurant Panorama。ちなみに現存する)。部屋も眺めも最高だったらしいのですが、当然、これだけ目立てばフランス側のいい標的でした。特に12日からはフランス空軍の活動がようやくアルデンヌ方面に向けられ始めていたのです。このためホテルはその爆撃を受け、さらに持ち込んでいた弾薬が次々と誘爆、グーデリアンは危うく大怪我しそうな状況に追い込まれてました。これに凝りてブイヨンの北、第一戦車連隊の本部と同じ場所に軍団司令部は移動したのですが、今度はドイツ軍の航空部隊からここは目立つぞと警告され、実際、その直後に極めてまれなベルギー空軍の機体から爆撃される事になりました。

その後、さらなる移動の準備をしていたグデーリアンの軍団司令部の横にフィゼラーFi156シュトルヒが着陸します。これはクライスト装甲集団のボス、クライストからの呼び出し便でした。それに乗って装甲集団司令部に赴いたグデーリアンは大激論を行う事になるのです。でもって最後の不幸はその帰りに発生します。行きと帰りでパイロットが交代するのですが、帰りの若いパイロットは自信満々に飛び立ちながら機位を見失ってしまい、完全に迷子になってしまうのです。ただでさえ鈍足なのに二人載せて飛ぶときのシュトルヒは武装無しですからフランス空軍機に見つかったら成す術はありませぬ。さらによく見ればマース川を超えてフランス軍支配地区に入ってしまっていました。さすがのグデーリアンもこれには焦って、パイロットを𠮟り飛ばしながら自ら誘導、何とか軍団司令部に帰り着きます(とにかく判る場所に着陸させて、陸路で司令部に帰ったらしい)。

ところがこれで無駄な時間を食ってしまった事もあり、今度は各部隊への発令が間に合わなくなります。このため、以前から用意していた命令書の作戦開始時を変更しただけで(10時を16時にした)これを各部隊に送り付ける事になったのです。逆に言えば時間以外の変更は必要無かった、という事なのですが、この点に関してはグデーリアンの命令無視、という部分もあったのを後ほど見ます。



本連載では優秀過ぎるガルスキー中佐の機体としてお馴染みのシュトルヒ。なにせ軽いし主翼はデカいしで、風次第では数十メートル、場合によっては10m以下の平らな土地があれば離着陸が可能でした。このためヘリコプター感覚で前線の将校の移動に使われていたのです。ただし例によって制空権を抑えて無いと鈍足ゆえに速攻で血祭なので、ドイツ空軍が悲惨な事になってしまった大戦も後半に入るとそんな使い方はちょっと出来なくなるんですが。

■12日の論争

この時の装甲集団司令部での会合では、クライストが翌13日16時までにセダンでマース川を渡河せよ、と命じました。これは本来の予定通りどころか6時間近くの遅延を認めているのですが、先に見たように第2装甲師団の到着がさらに遅れており(13日の日没までに到着は無理だと思われた)、これを待って一斉渡河作戦を行いたかったグデーリアンは難色を示します。ただし迅速な行動を良しとする考えはグデーリアンも同じだったので、最終的に時間については同意するのです(ただしグデーリアンの予想通り第2装甲師団の渡河は苦戦する事になる)。

さらに空軍に要請していた支援攻撃でも激論となります。グデーリアンは主要な陣地を指定した精密爆撃を複数回要請し、攻撃開始後に至るまで航空支援を求めていました。このため現地空軍部隊の指揮官、レールツァー(Bruno Loerzer)将軍と共に極めて精密な攻撃計画を立てていたのです。ところがこの時、クライストと共に会合に参加した空軍側の将軍はその上官、シュペルレ(Hugo Sperrle)将軍であり、加えてクライストの意向で突然、航空支援の内容が変更されてしまいます。それは攻撃前に盛大な無差別大規模爆撃をフランス側の陣地に一度だけ加えてオシマイ、というものでした。グデーリアンは断固反対するのですが西部一帯の空軍のボス、シュペルレ将軍はこれを受け入れず、最終的に作戦は変更されてしまうのです。ただし、実際に作戦が始まってみると最初の計画通り、すなわちグデーリアンの要望通り航空支援が行われました。これはグデーリアンと共に作戦を練り上げたレールツァー将軍の独断で、彼によると「作戦変更命令が届くのが遅すぎた」のだそうな。この点、レールツァーはゲーリングと親しく(第一次世界大戦の時の戦友で戦闘中に危機を救った事もあった)、こういった独断が許された面があったからだと思われます。ちなみにこのレールツァーは後の独ソ戦の開始直後からもしばらくグデーリアンと共闘する事になります。

次に揉めたのは渡河地点の選択でした。クライストはセダンの約13q西にあるフリーズ(Flize)地区での渡河を命じるのですが、これにグデーリアンは断固として反対し受け入れませんでした。ちなみになぜクライストがここに拘ったのかよく判りませぬ。セダンに向かうより遠回りの上、一帯は池が多く、機甲部隊の進撃には全く向かない土地です。そもそもグデーリアンの部隊はセダンでの渡河を前提に作戦を立て、訓練もして来たのですから無茶な話なのです。単に生意気なグデーリアンをやりこめたかっただけじゃないのか、という疑惑が無くも無い部分です。クライストは戦後、ソ連に渡されて獄中死をとげたためまともな記録を残しておらず、謎が多いと言えば多い人なんですけどね。

最終的にクライストが折れてセダン周辺での渡河を認めるのですが、それでもグデーリアンの主張する渡河地点の西側での渡河を命じます。この点はグデーリアンが折れた形になったのですが、実際に戦闘が始まるとグデーリアンはこれをガン無視(笑)、自分の計画通りの渡河地点でマース川を渡ってしまいます。この辺り「電撃戦という幻」などではグデーリアンらしいやり方で既成事実を造ってしまった、とその性格ゆえの独断であろう、と述べられています。ですが実際には先に見たように帰りの飛行機が迷子になって作戦指令書の変更の時間が無かった、という点も大きかったでしょう。命令を変更してる時間が無いんですから、当初の予定通りやるしか無いじゃん、といった面も少なからずあったと思われます。

といった辺りで比較的大人しい展開だった12日は終わり、いよいよ運命の13日を向かえる事になるのです。とりあえず今回はここまで。


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