今回は永禄三年(1560年)、旧暦5月19日に織田信長と今川義元が戦った桶狭間の戦いを見てゆきます。これもいろいろ興味深い戦いなのです。ただし今回の記事はOODAループによる戦闘、という面にも焦点をあてて行くので、こちらの記事 を理解している、という前提になっています。この点はご了承のほどを。

織田信長が大軍相手に完全勝利を収めた戦いは生涯に二度あり、最初がこの桶狭間で、次がすでに見た長篠でした。
どちらも旧暦五月、梅雨時の決戦であり、敵が攻城戦に引っかかっている所を襲撃して圧勝した点も共通です(ただし長篠は城を守る側、桶狭間は攻める側だが)。
が、用意周到な戦術と圧倒的兵力で武田軍団を包囲殲滅した長篠の戦いに対し、桶狭間の戦いは臨機応変な戦術で敵本陣へ一点突破の奇襲を行い、圧倒的に少数ながら今川軍団を撃破しています。その集団による高速戦闘は、OODAループの高速化の非常に興味深い参考例となりますから、少し詳しく見て行きましょう。ちなみにこの両方の戦いに徳川家康も参加してるのですが、桶狭間では敵として、長篠では味方として信長の戦いに参加していました。不思議な人ではありますね。

■今回の資料

桶狭間は田舎の小大名に過ぎなかった無名時代の信長と、合戦後、間もなく潰れちゃう今川家の戦いだったため(滅んではいない。討ち死にした義元の嫡男だった氏真は後に徳川家に仕えて生き残る)、現存する資料は極めて限られます。定番中の定番、本人も合戦に参加していたはずの太田牛一(信長の身の回りに仕える弓の使い手三人、やりの使い手三人からなる六人衆の一人だった。ちなみに弓担当)による「信長公記」が最も信頼がおける資料ですが、残念ながら織田側からだけの記述となります。

一方、今川側の軍団内には後の徳川家康、松平元康が居たものの、天下を獲るころには本人以外は皆死んでしまっており(元康はまだ17歳だった)、さらに家康本人もこの戦いについてはほとんど語っていため、記録には乏しいのです。
結局、唯一の資料らしい資料がこれも定番、大久保彦左衛門(忠教/ただたか)の「三河物語」となるのですが、本人が生まれた年の合戦ですから、当然、参加してませんし、万が一、していたとしても記憶が無いでしょうね。
ただし大久保家は古くからの家臣団の一つであり、一族郎党の中にはこの戦いに関係した人物もあった可能性が高いと思われます。よって、その談話などで彦左衛門にはある程度の知識はあったはずであり、資料として採用する価値はあるでしょう。

最後に江戸期になってからまとめられた山澄英竜の「桶狭間合戦記」があります。筆者は三河生まれで地元に近い人ですが、合戦から65年も経った1625年生まれですから、彼が成人するころには関係者は全員亡くなっていたでしょう。よってあまり信用はできないのですが、合戦参加者の子孫などから聞いた話で信用できそうなものもあるので、部分的に資料として採用します。

それ以外の資料は合戦から数十年以上経ってから書かれたものがほとんどで、当時の人間の記録能力をからして信憑性を認められませぬ。よってこの記事では上記の三つ以外の資料は全て無視します。合戦の古地図なども、古地図と言いながら江戸中期以降のものばかりで、これも信用できないので全て無視します。

■桶狭間の決戦に至る前に

桶狭間の合戦は旧暦5月19日の午後、織田信長が今川義元の本陣に奇襲攻撃を仕掛け圧勝した戦いでした。時間的な経過を追うと以下のようになります。


 
●決戦日以外の日時は信長公記と三河物語の記述からの推定。


梅雨のまっただ中の旧暦5月、静岡県一帯(駿河と遠江)を支配する今川義元が本拠地である駿府を経って東海道沿いに西進、ほぼ一週間で信長勢力圏の喉元、尾張の東南部に到達しました。義元は、織田軍に包囲されて孤立していた鳴海城と大高城の救援に駆けつけたのですが、城を解放するための作戦中に奇襲を受けて討ち取られてしまったわけです。

この義元の西進を京都への上洛が最終目的とする話が江戸期の書物に散見され、明治期の参謀本部が編纂した合戦史でもこの説が採用されてますが、当時の資料でこれを裏付けるものは存在しません。おそらく後年の武田信玄の上洛と混同された、あるいは信玄が上洛だったんだから義元も上洛であろう、と安易な推測が行われた可能性が高いです。よって普通に考えれば織田家を討ち、尾張の地を手に入れるための遠征だったと考えるのが妥当でしょう。

ちなみに実際の戦場は桶狭間の東北にあった田楽狭間で行われた、という話がこれまた江戸期から出てきますが、信長公記、三河物語ともにそんな記述は無く、江戸期でも初期に成立した本にはこの記述が無いので、この説もまた無視します。

■義元の西進に至るまで

今川義元は嫡男ではなく不測の事態で家督を継いだ人なので、お家騒動に巻き込まれ、さらに武田に北条という強敵に領地を囲まれ苦労していました。それでも最終的には駿府と遠海、現在の静岡県西部一帯を支配下に置き、さらに婚姻関係によって武田、北条とも同盟を結び国を安定させるのに成功します。その義元の絶頂期に行われたのがこの尾張討伐でした。すなわち尾張の田舎大名にすぎぬ織田家をひねりつぶすのはもはや時間の問題、と考えられた戦いの中での討ち死にだったわけです。

義元が武田家から奥さんをもらい、さらに嫡男の氏真が北条家から奥さんをもらって同盟関係を結んだ結果、今川家の東と北の国境線は安全となりました。ただしそちらにはこれ以上領地を広げられない、という事も同時に意味するわけです。この結果、義元の目は西に向けられます。

よって、まずは三河地方、岡崎を根拠地として愛知県東部を支配していた松平家(後の徳川家)を配下に取り込みました。この結果、尾張(現在の名古屋から知多半島周辺)の支配を確立しつつあった織田家と国境を接する事になるのです。このため父 信秀の代から信長に至るまで20年近くに渡って両者の戦いは何度も繰り返され、最終的にその争奪戦の最前線になったのが尾張国の南東、知多郡の鳴海一帯だったのでした。そこに桶狭間もあります。
後に信長が織田家内部の抗争に一定のメドを立て、この鳴海方面に再度進出を試み始めると、これに対抗するため、そしてさらには織田家を滅ぼしその領地を巻き上げるため、義元は今川の主力軍を率いてこの地に駆けつけるわけです。

そしてこの遠征において、とにかく人がたくさん死にそうな消耗戦用の先駆けに使うため、松平元康、後の徳川家康と、その家臣団が連れて行かれました。立場としては今川家の属国に近いですから、不遇な境遇だったと思ってよく、実際、この戦いでは悲惨な持ち場を担当させられる事になります。もっともそのおかげで信長の奇襲を避けられ、今川軍団の消滅に乗じて岡崎で再独立を図ることに成功するのですけども。

以下、余談。
義元が政略結婚した奥さんは武田信玄の実の姉なので、両者は義理兄弟です。よって後に信玄がクーデーターを起こして追放してしまう父、信虎は義元の義理の父に当たります。そして信玄が信虎を追放したのは今川家の訪問中だったため、信虎は駿府で居候となり、後に桶狭間の戦いの前に京都に移っています。

そしてこの時期には三河地方の松平家を支配するため、人質として松平元康、後の家康も駿府に居たのです。息子に追放された信虎と、人質として置かれていた元康には日陰の身どうしとして交流があり、これが後の家康の武田軍好きの始まりとなったのではないか、と個人的には思ってるのですが、残念ながら何ら証拠はありませぬ。

でも戦の天才にして武田流戦術の全てを授けた息子、信玄に裏切られた信虎が、居候先でたまたま見つけた幼子の家康に信玄と互角の将才を見出し、これにも武田流戦術を授けて密かに復讐を託した、とか考えると燃えるでしょ。
人質として孤独だった家康が、信虎を父のように慕い始めるとか、三方ヶ原で信玄と家康が共に自分こそが武田流戦術の真の後継者であると自負して対峙するとか、貴様のような男を信虎殿の息子とは認めぬ、とつぶやいて絶望的な決戦に挑む家康とか、信玄の本陣目指してガムシャラに突入してくる徳川軍を見て、強い、とニヤリと笑い、だが、それだけだ、と静かに右手の軍配を上げる信玄とか、それを見て、お前は武田のニセモノにすぎぬ!と叫びながら徳川本陣の横腹を突く騎馬軍団の勝頼とか、それを聞いて逆上した家康を引きずるようにして落ち延びさせる徳川家臣団とか。燃えるでしょ。いつか物語にしてみたいでしょ。

ちなみに信虎は長篠の合戦の前に亡くなったというのが定説ですから、夏の日が傾いた設楽原で、折れた武田の軍旗の前で静かに涙する家康と弟を気遣う兄のように黙って横に立ってる信長とかもカッコいいと思うんですよ、はい。


では、これを迎え撃つ織田家の状況はどんなものだったのか、を確認しましょう。


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