連合軍側の事情

さて、前回までに見てきたのは1940年5月の電撃戦開戦前における以下の点でした。

●開戦に至るまでのドイツ軍における作戦状況
●両軍の兵力、装備品の状況

今回は最後の仕上げとして、受けて立つ連合軍側の指揮系統や作戦はどうだったのか、を見てゆきます。

■フランス軍完全指導指揮体系

ナチスドイツを向かえ撃つ連合国側はフランス軍の指揮下に置かれ、陸海空全ての最高責任者としてフランス軍最高指揮官、ガムラン将軍がその頂点に君臨していました。まあ、この段階で負けは決定していたと言っていいでしょう(笑)。

細かい話に入る前に指揮系統図を見てしまう事にします。ただしこれは開戦直後&電撃戦途中までの指揮系統なのに注意してください。連合軍は速攻で壊滅ししてしまったため、開戦からわずか9日目の19日には最高指揮官であるガムラン将軍とその副官であり北東方面の責任者だったジョルジュ将軍、共に解任されてしまうからです(罷免の書類は18日付だとする説もあり)…。それでも電撃戦でケチョンケチョンにされている間、この指揮系統で連合軍は戦っていたと思ってください。



まずは指揮系統の上から見てゆきます。

ガムランは全軍の指揮官なのでフランス全土(ドイツと連合したイタリアにも警戒が必要だった。実際に後ほどグラッチェとばかりに攻め込んで来る)からアフリカ、アジアの植民地に至る全指揮権を持っていました。その下でドイツ軍がやって来る北東方面、すなわちベルギー国境線一帯の作戦指揮を執ったのが副指令官であり、フランス軍で二番目に偉かったジョルジュ将軍でした。問題はこの二人は犬猿の中だった、という点でしょう(笑)。ドイツ陸軍の数学は大好きだけどマンシュタインは大嫌いなハルダー参謀総長のように、ガムラン将軍は副官のジョルジュ将軍がキライでした。理由も全く同じで、両者はかつて最高指揮官の地位を巡ってライバル関係にあり、最終的にガムランが勝利、ジョルジュは副官に収まる事になったのです。この辺りのゴタゴタが開戦後も尾を引いており、ジョルジュ将軍の頭越しにガムランが現場に介入していらぬ混乱の原因になったりしています。この辺りはいかにもフランス軍なんですが…

そのジョルジュ将軍の配下にあったフランス軍の主力が第一軍集団(groupe d'armées n°1)でした。ちなみに第二軍集団もジョルジュ将軍の配下に入っていたのですが、こちらはずっと南でドイツ国境とのマジノ線周辺の守備に就いていたので、電撃戦期間中は何ら活躍する事なく終わります。

開戦時にあった4個軍集団の中では精鋭だったのが第一軍集団ですが、その内の第9軍は前年10月に設立されたばかりで、やや二線級という印象のあるものでした。そして不幸にしてこの第9軍が暴れん坊将軍ロンメルに直撃され、さらに海岸目がけて進撃を開始したグデーリアン軍団に蹂躙される事になるのです。
それに加えて軍団に所属しない独立した予備戦力として第7軍、さらに4個機甲師団+1個機械化歩兵師団を持っていました。これらは精鋭と言っていい部隊で、キチンとした運用がなされていれば十分にドイツ軍を食い止めるのに役だったでしょう。ところが精鋭の予備部隊、多くの機械化部隊を抱えた第7軍は開戦直前に防衛線最北端部に引っ張り出され、ドイツ軍の囮部隊、B軍集団を迎え撃つ事になってしまいます。この辺りはガムランが現地司令部を無視して頭ごなしに指示を出した結果でした。この点は後でも見るように致命的な失策となります。

その上、連合軍最強の打撃力を誇っていた機械化部隊4個師団は大混乱の中で逐次投入されて溶けるように消えてしまいます。まともに戦闘に参加したのは第一機甲師団の一部と、開戦当日、5月10日にありあわせの部隊を搔き集めて結成された第四機甲師団だけでしょう。ちなみにその第四機甲師団の指揮官がド・ゴール大佐、すなわち戦後のフランス大統領ですな。フランス降伏前は一介の機甲師団長の大佐に過ぎなかったのです、ド・ゴール。

それらにイギリスの遠征軍が加わります。戦力的にはフランスの第1、第7軍に匹敵する精鋭で連合軍の主力の一つでした。これをガムランは遠慮なく最大の激戦が予測されていた北部国境に投入しています。まあ、イギリス軍を磨り潰してでもフランスを守る、という戦略はいかにもガムランですね(笑)。この時のイギリス軍は大陸派遣軍と和訳される事もありますが、ここではBritish Expeditionary Forceを直訳して置きます。ちなみにガムランからの干渉によってある意味で手足を縛られてしまうジョルジュ将軍唯一の直属部隊のような存在になって行きます、イギリス軍。この辺り何やってるんだフランス軍といった印象が拭えませぬが…

ちなみに例のドイツ軍のウッカリミス、作戦指令文書を持った機体がベルギー領内に不時着しちゃったメヘレン事件の後、自国が侵略されると知ったベルギーも連合軍に加わるのですが、この指揮系統には明確に組み込まれていませんでした。基本的にベルギー軍は独自に防衛戦闘を展開、ドイツ軍の進撃を食い止め、その間に連合軍が応援に駆けつける、といった事を考えていたようです。ちなみにベルギー軍もドイツ軍の主力は北から来ると完全に信じ込んでいたためアルデンヌ森林地帯周辺には最低限の部隊しか残さず、しかも最終的には北へと撤退し首都ブリュッセル周辺の防衛線でがんばる作戦でした。このベルギーの作戦方針が後にグデーリアン軍団がアルデンヌ森林地帯を易々と突破してしまう一因となります。

■その配置

次に連合軍の部隊配置を確認して置きましょう。



海沿いの街ダンケルク周辺からフランス第7軍、イギリス遠征軍、フランス第1軍が順に並んでいました。この三つが精鋭の主力部隊と考えていいものです。一目で判るように北の平原部を塞ぐように展開しており、逃げ場の無い北部平原地帯に敵主力を誘いこむ、というマンシュタインの考えた連合軍ホイホイに自ら引っ掛かりに行く布陣だったと言えます。どうやっても敗北はこの段階で決定していた、という印象です。

ただし第7軍は当初前線背後に置かれる強力な予備戦力だったのですが、先に見たように最高指揮官のガムランがここに配置してしまったもの。理由は正直言ってよく判りません。本来なら国土北部で徹底抗戦を考えていたベルギー軍に一帯を任せる予定だったのですが、なぜかここに投入され、当然のように最期はドイツ軍に包囲殲滅されて消えてしまいます。敵主力は北部平野から来ると決めてかかっていた、ガムランの致命的な作戦ミスの一つです。

その南に展開する第9軍と第2軍はアルジェリアなどの植民地から呼び出された部隊を多く含む集団であり、全体的な統制も弱かったように見受けられます。少なくとも精鋭では無いですね。フランスの不幸はその精鋭でない両軍の正面に無敵でやる気に溢れるクライスト装甲集団、中でも必要以上に元気なグデーリアン軍団が突っ込んで来た事、さらにちょうど両軍の担当地区の境目に当たるセダン付近での戦闘になって指揮系統がゴチャゴチャになってしまったのもまた悲劇でした。

ちなみにさらに南、マジノ線が最強に強かったドイツとの国境一帯にはフランス第二軍集団が居たのですが、こちらは電撃戦期間中はほぼ何もできずに終わるので忘れていいです。

連合軍側の作戦

では連合軍側は具体的にどういった作戦を考えていたのか、も見て置きましょう。フランス軍が主導して作戦を立案していたのですが、フランス側の明確な史料が見つからないため、作戦会議で連絡を取り合っていたイギリス側の記述からその辺りを読み取って行きましょう。とりあえず毎度おなじみ「THE WAR IN FRANCE AND FLANDERS」によると、以下のような作戦展開だったとされます。

●全ての作戦案は敵がベルギーの中央部、平野地帯を突破して来るという前提に立ち、オランダの南部が巻き込まれる可能性が高い点も認識されていた。  それ以外の地区からの侵入は検討された形跡が無い。

●アルデンヌ周辺が突破される可能性は早い段階でフランス軍は排除しており、以後、検討された形跡が無い。

●フランスの建てた作戦計画は大きく二つだった。E作戦と呼ばれるフランス国境に近いエスコ―川沿いに防衛線を築く計画と(Escautはフランス側の呼称。オランダ、ベルギー側だとスヘルデ(Schelde)川)、D作戦と呼ばれたよりベルギー領内に深く入り込み、アントワープとブリュッセルの東を流れるダイル川流域に防衛線を展開する計画である。どちらを採用するかは開戦後の状況による、とされた。

●これらの計画案は1939年11月の段階で既に決定されており、1940年1月に起きたメヘレン事件は連合軍側の推測が正しい事を証明したと考えられた。


マンシュタインが見たら泣いて喜ぶであろう内容ですね。北の平野部に向かう、それ以外は考えてなくていい、という作戦案なのです。




開戦後、最終的にガムランはD計画の方を採用し、連合軍はベルギー国内深くに侵入、ダイル川沿いに引かれたダイル線に向けて進出します(ただし南部はダイル川を離れてマース川沿いに展開された)。この進出は困難が予想されたものの、予想以上に上手く行き、ガムランを大喜びさせるのです。これは当然と言えば当然で、ドイツ軍は南部が丘陵地帯になって逃げ場が無いその一帯まで敵が来てくれれば万々歳なわけで、妨害するはずが無いんですね。

あらゆる状況で負けるしかない、という作戦状況だったのが開戦前の連合軍だった、とも言えます。そこにターボ過給を加えてしまったのが最高指揮官のガムランだった、という面が少なからずあるので、この点を次は見て置きましょう。


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