■装甲集団

以上のような作戦変更に加えて、もう一つ、大きな動きがドイツ軍にありました。
ドイツ陸軍に初めて師団規模を超える機甲部隊、「装甲集団(Panzergruppe)」が設立されたのです。1940年3月5日、開戦まであと2カ月と言う時期の出来事でした。これはグデーリアン閣下が何度も要求した結果でしたが、本人は司令官に任命されず、機甲部隊に関してはほぼ素人、しかも一度退役してから復帰していたクライスト大将が任命される事になるのです(超短気な人物で本人によるとヒトラー相手に怒鳴り合った事があるらしい)。ついでにしばらくはドイツ軍唯一の装甲集団だったので番号が付かず、単に装甲集団、あるいはクライスト装甲集団と呼ばれてました。

ドイツ軍の場合、最大の単位である軍集団(Heeresgruppe)を筆頭に、軍(Armee)、軍団(Armeekorps)、師団(Division)の順で集団の規模が小さくなって行くのですが、このクライスト装甲集団は軍と軍団の中間扱いだったとされます。ただし筆者は未だに第二次大戦におけるドイツの軍と軍団の違いが判らんのですが(軍の方が大組織なのは判る)…。とりあえずこの段階まで、ドイツ陸軍には師団以上の規模の機甲部隊、戦車やトラックを集めた部隊は存在しなかったのです。グデーリアンによると師団単位程度では機甲兵力は十分な打撃力を持たん、とされますので、その対策として設立されたのがこのクライスト装甲集団となります。

ただし数学大好きハルダー参謀総長は装甲部隊はそれほど好きでは無かったので、あくまで暫定的な組織だったようです。それでもA軍集団の司令部から直結の指揮系統を持ち、各軍と対等の立場となっていました(この点、各軍からの反発は強く、第4、第12、第16の各軍司令部は自軍の配下に置こうと画策した。最終的に失敗に終わったが)。

このクライスト装甲集団の破壊力は強力で、戦車だけで1222両、全ドイツの戦車のほぼ半数を配備されていました。さらにトラックや装甲車など、4万台を超える車両(ただしサイドカーなども含むと思われる)、13万4千人の兵員を抱えていましたから、決戦戦力としてはかなりの打撃力を持つと見ていいでしょう。

このクライスト装甲集団が、作戦変更によって新たに主力となったA軍集団の配下に入ったのです。それに加えて第4軍の配下に第15装甲軍団が置かれました。これは敵主力の南を無防備に移動する事になるクライスト装甲集団の北側面援護のための部隊だったのですが、その中に居たのが第7装甲師団であり、その師団長こそが、あの暴れん坊将軍、ロンメルだったのです。とりあえず、この辺りを図にまとめてみましょう。第4軍の第15装甲軍団と合わせると、三個戦車軍団、おそらく全ドイツの7割以上の戦車がA軍集団に配備されていた事になります。

 
下線を轢いたのが戦車の師団で、クライスト装甲集団には五つ配備されていました。この中で先鋒を務める事になる第19装甲軍団を率いるのがグデーリアン閣下となります。配下の第1、第2装甲師団はエリート部隊であり、さらに歩兵の補助戦力として大ドイツ(Großdeutschland)連隊が配備されます。これも選ばれた兵を集めた部隊であり、まさに精鋭と言っていいのが、この第19装甲軍団でした。さらに開戦時には空軍から第一高射砲軍団が配備されます。この部隊はセダンの渡河戦闘で活躍するだけでなく、対戦車戦でも大活躍を見せたのです。そして電撃戦で88o高射砲が対戦車戦で活躍したことが、後に対戦車砲として活用される切っ掛けとなりました。

ちなみに自動車化歩兵師団はトラックなどで高速に歩兵を移動させられる部隊を意味します。これらの部隊が装甲師団が突破した地域に素早く入り、敵が状況を立て直す前に掃討する、さらには拠点を占拠して敵の逃げ道を塞ぐ、といった活動を行い、電撃戦の仕上げをやるわけです。

こうして着々と準備が進む中、「黄色の事例」最終作戦案として2月24日の日付で提出されたのが以下の計画でした。そしてほぼこのまま、5月の開戦を向かえる事になるのです。



まず北のB軍集団の任務は敵主力部隊の誘い出しとなったため、配下の第6軍がベルギーのブリュッセル〜アントワープ線まで進出して敵を誘い出します。ただし北のオランダ侵攻をヒトラーは諦めてなかったので、第18軍がそちらに向かう事になりました。

攻勢の主力となったA軍集団からは、まずクライスト装甲集団が先鋒としてルクセンブルクに突入します。そのままデンマーク南部も突破してアルデンヌ森林地帯を経由、セダンの街でムーズ川を渡河、というマンシュタインの計画通りの作戦になっています。ただしその先の平野部で、敵主力部隊が居る北部平野部の直ぐ南を走破する事になります。もし敵の主力がクライスト装甲集団の動きに気が付いて南下して来たら、これまた横槍攻撃を受けて壊滅の危機となるわけです。よって、この脆弱な北側面を防御するために、第4軍に配備されたホート装甲軍団の第15装甲軍団が北側を並走する形で進軍する事になっていました。すなわちクライスト装甲集団北側を守る部隊だったんですが、そんな事なんざ知ったこっちゃないロンメル師団長の暴走により、この部隊もまた電撃戦に置いて予想外の重要な任務を果たす事にもなるのです。ただしグデーリアンも横からの攻撃に対する脆弱性は十分に認識はしてました。このため部隊を密集させずになるべく縦長の隊列にしたようです。これなら横からの攻撃に対処しやすく、包囲もされにくいからです。さらに何処かが攻撃を受けたら、翼陣のように長く展開した部隊で敵を速攻で包囲し、一定の反撃も可能となります。

残りのA軍集団の部隊、歩兵部隊、砲兵部隊などはその後から続き、戦果を拡大する事になるんですが、第16軍だけは南下してクライスト装甲集団の南側面を守る役割を果たしたようです。ただしこの点、詳細な指令書が見つからなかったので正確な所はよく判りませぬ。

そしてC軍集団は、以前の計画そのまま、マジノ線の正面で敵部隊を牽制、北部の戦闘にこの一帯の戦力が向かえないように拘束するのが任務となっていました。この点に関しては最初から変更なしですね。

ちなみにここでもう一度、マンシュタイン案を確認して置きます。



採用された作戦案では、A軍集団から南方に撃ち出される攻勢防御部隊が消えてる事に注意してください。この辺りはハルダーと陸軍総司令部(OKH)の無理解によるものでした。恐らくハルダーはセダンまでは機甲部隊が突出する事を認めたものの、その先の高速機動による進撃は禁じたつもりだったのです(まあいずれにせよ攻勢防御に回せる予備の戦力は無いのだが)。ただし正式な命令にはその文章が無く、ヒトラーも黙っていたため、グデーリアンとロンメルによる海へ向けた疾走が始まる事になります。そうなると、この南部への攻勢防御部隊は必須であり、このためグデーリアンは後に第10装甲師団をセダンで部隊から分離、南下させる事になります。このグデーリアンの行動は大正解になるのですが彼のアドリブでは無く、マンシュタイン案に従ったものだ、というのは後で触れることになるでしょう。

こうして延期を繰り返し続けたフランス&低地諸国戦の準備がようやく本格的に動き始めます。
グデーリアンによると、ほぼ準備が整いつつあった3月15日、攻勢の主力となるA軍集団、中でもクライスト装甲集団による作戦説明がヒトラーに対して行われました。これを持って作戦が正式に決定したようです。この場でグデーリアンが開戦から五日目までにはセダンでムーズ川を渡河します、と述べたところ、それからどうするのだ、とヒトラーが尋ねた、というのは既に述べた通りです。やはりヒトラーはマンシュタインの作戦を全く理解してなかった事、そして同時に参謀本部もムーズ川渡河後の計画を明確に指示していなかった事が判ります。この点、ハルダー参謀総長は、後続の歩兵部隊を待って皆で仲良く進撃することを考え(これでは高速包囲殲滅戦は成立しない。この辺りがハルダーもまたマンシュタイン案を理解していなかった証拠だろう)、対してグデーリアンは機甲部隊だけで海岸線まで進出し速攻による包囲殲滅を狙っていたわけです。同床異夢と言っていいのですが、この辺りのウヤムヤさは最後まで尾を引く事になります。

ちなみにこの時のグデーリアンの回答は「総司令部がアミアン(海岸線方面)に向かうのか、パリに向かうのか決めるでしょう。ただし私の意見としてはアミアンから英仏海峡を目指すべきです」と述べたところ、ヒトラーは無言だったとか。すなわちヒトラーも何も判って無かったわけで、この無知が後の進撃停止命令と言う最悪の事態を招く事になります。

といった感じで、今回はここまで、


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